1975年3月27日、韓国・ソウル市奨忠体育館でアントニオ猪木が大木金太郎が保持していたインターナショナルヘビー級王座に挑戦した。
1974年10月11日に大木は猪木の保持するNWF世界ヘビー級王座に挑戦し、猪木は大木の得意とする頭突きの連打を受けきってバックドロップで3カウントを奪い防衛を果たしたものの、この一戦で大木もレスラーとして再評価を受け、大木は新日本プロレスと業務提携を結ぶことに成功、新日本の選手や外国人選手を借り受けて韓国内でシリーズを実現していた。1973年に全日本プロレスから離脱した大木は水産物を輸出する会社を副業として開始していたが、財政状況は厳しく軌道に乗せるまでには至っていなかったことから地元の韓国内でもプロレスラー活動を再開、興行を開催していた。
1975年3月には猪木を招いてのツアーが実現、大木を含めた地元韓国人レスラーを含め、新日本からは猪木、在日韓国人の星野勘太郎、永源遥、小沢正志(キラー・カーン)、栗栖正伸、ミスター高橋レフェリー、新日本に参戦していた中堅外国人選手3人がツアーに参戦、シリーズは釜山、大邸、光州、最終戦はソウルと4戦が組まれ、最終戦のソウルで猪木が大木のインターナショナルヘビー級王座に挑戦という日程だった。ツアーには坂口征二にも参戦を要請したが、坂口は大木とは日本プロレス離脱の際のしこりが残っていて拒否しており、猪木や新間寿氏も坂口を説得していたが、坂口の頑な態度崩れず、最終的に韓国遠征から坂口を外さざる得なかった。


インターナショナルヘビー級王座は力道山、ジャイアント馬場の代名詞的王座だったが管理していた日本プロレスが崩壊してからは、大木の個人所有のベルトとなっており、この頃には大木の代名詞的な王座で、師匠である力道山の形見であり、自身こそ力道山の後継者だという証みたいなものだった。日本プロレスが崩壊後は大木は全日本プロレスに参戦するが、全日本には力道山のインターナショナル王座をモデルにしたPWFヘビー級王座があったことから、インターナショナルヘビー級王座の防衛戦の許可が出なかったため実現しなかった。大木が巻いていたインターナショナルヘビー級ベルトは力道山が巻いていた力道山ベルトではなく、馬場が巻いていた馬場ベルトで全日本を旗揚げする際には日本プロレスが縁を切った力道山家の力を借りたことから、馬場としても力道山家への配慮もあって力道山が巻いたベルトではないインターナショナルヘビー級王座の防衛戦を実現させるわけにはいかななかったのかもしれない。
大木は全日本プロレスを離脱後は水産業輸出業を始めたためレスラー活動は一旦休止するが、プロレスの収入がなくなったことで会社の財政も厳しくなってレスラー活動を再開、そこで新日本プロレスが接触して1974年10月10日の蔵前国技館で猪木と対戦、猪木のバックドロップで敗れたものの、試合内容で大木が再評価され、これを自信にした大木は韓国内でも興行を再開、猪木を招いてのツアーが実現、インター王座をかけて猪木を迎え撃つことになったが、インター王座はNWAの冠はまだ残っていたものの、大木だけでなく新日本もまだNWAに加盟していなかったこともあって、NWA非公認の選手権だった。またこの頃の猪木は3月13日に広島でタイガー・ジェット・シンに敗れてNWF王座を明け渡し、また20日の蔵前での再戦では両者リングアウトとなって奪還に失敗するなど無冠の状態で、猪木にとってインター王座は日本プロレスでは力道山だけでなくジャイアント馬場の代名詞でもあり、馬場に挑戦することが出来なかったことから、手に届かないベルトでもあった。
観客動員も大木が韓国では英雄と扱われていたことや、プロレスが当時の大統領である朴正煕の庇護下に置かれていたこともあって貴賓席には韓国の国会議員や各界の名士がズラリと顔を揃え、販売されたチケットも完売するなど8000人を動員して超満員札止めとなり、国中が大木が応援したことで、猪木にとってインター王座挑戦はまさに敵地での挑戦となった。
試合はアームロックを狙う大木に猪木はスライディングヘッドシザースから弓矢固めで捕らえるが、ロープに逃れた大木はキーロックで捕らえるも、猪木はキーロックで捕らえられたままで持ち上げてコーナーポストに大木を運ぶというカール・ゴッチばりの怪力ぶりを見せる。
猪木はダブルアームスープレックスを決めるが、2発目は大木がリバーススープレックスで返し、館内全体から来る声援に調子に乗った大木はナックルを連発すると、猪木もナックルで殴り返して大木は流血、大木は得意の頭突きを乱打するも、さすがの猪木も場外へ逃れ、リングに戻ろうとしてエプロンに上がったところで大木は再び頭突きを浴びせる。
そして大木は腹部への頭突きを狙って突進するが、猪木は先ほどのお返しとばかりにナックルで迎撃し、リングに戻ったところで猪木には珍しく足四の字固めで捕らえ、大木は何とかロープに逃れるも、足四の字のままで場外へ転落してしまい、それでも足四の字が解けないまま場外カウントが進み、ミスター高橋レフェリーがカウント20となって両者リングアウトとなり、大木は辛くも防衛、猪木はインター王座奪取の野望は潰えてしまうも、試合後はスポーツマンシップに則って握手でノーサイドとなった。







猪木vs大木の再戦は1週間後の4月4日の蔵前で行われた「第2回ワールドリーグ戦」の開幕戦ですぐ行われ、ゴングと同時に大木が頭突きを乱打、場外に落ちても大木は頭突きを打ち続け、素早くリングに戻って1分16秒でリングアウト勝ちとなり、これで猪木vs大木は1勝1敗1分のタイスコアとなるが、リーグ戦では猪木vs大木より、坂口vs大木の遺恨対決が注目され、公式戦でも試合無視のケンカマッチに発展、結果は無効試合となって、実行委員会の判断で再戦が行われるも、坂口が大木の石頭を割らんとばかりにイスで殴りつけたため大木の意識が飛んでリングアウト負けとなり、最終戦で行われた2位決定トーナメントでも坂口vs大木の再戦が組まれて、試合無視となって収集が付かずに無効試合となって両者失格となり、猪木がストロング小林を破って2位になると、1位のキラー・カール・クラップを破って優勝を果たしたが、この大会を最後に大木は新日本プロレスから離れ、猪木vs大木は2度と行われなかった。



馬場も猪木と1勝1敗1分と渡り合った大木に目をつけ、新日本との関係が切れたことを聴きつけると、大木と同じ日本プロレス出身であるグレート小鹿を動かして大木の全日本復帰へと動き出し、大木もフリーとして全日本プロレスへ復帰することになった。全日本へ復帰する理由は大木にへの品価値が上がっただけでなく、「なんやかんやで言って、オレのインター王座を新日本がむしり取ろうとするから」としているが、この頃の新日本には既にNWF王座もあり、猪木の代名詞的な王座になっていたことから、猪木が本格的に欲しがるとは思えなかったが、考えられるのは新日本プロレスが大木の経済状況(事業)を調べて水面下でインター王座を買収しようとしていたのか…だが、まだ大木には 朴大統領という大きな後ろ盾があり、経済的な余裕もあったことから応じなかったのかもしれない。
大木はフリーとして全日本に戻り、全日本プロレスでのインターナショナルヘビー級選手権は行うことが出来なかったものの、馬場の後押しでNWAに加盟したこともあってやっとNWA公認の防衛戦を行えるようになった。おそらく馬場が大木のNWA入りにあたっては全日本ではインターナショナルヘビー級を行わないというのが条件に入っていたのかもしれない。こうしてインターナショナルヘビー級王座は晴れてNWA公認で行われることなり、韓国内だけで行われ記録に残っているところではザ・デストロイヤー、サムソン・クツワダ、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、ドン・レオ・ジョナサンを相手に防衛戦を行っていた。馬場と大木の関係は良好で、日本プロレス時代のような馬場を押しのけるような野心は薄れていったという。この頃は庇護を受けていた朴大統領の権勢に陰りが見え始めており、国内からも「いつまでプロレスに税金を使うのか?」と韓国国内の世論の声に押し切られてしまいプロレスに投入する予算を半減せざる得ない状況となり事業への資金繰りが厳しくなりはじめていたことから、大木にしても馬場の力がなければNWA入りも出来ず、外国人選手のルートも確保し、子飼いの韓国人レスラーを全日本に参戦させていたこともあって馬場に頭を下げざる得なかったのかもしれない。大木は日本プロレス時代に付き人を務め、アメリカで活躍していたキム・ドクと韓国師弟コンビを結成、馬場&鶴田の全日本師弟コンビとインターナショナルタッグ王座を巡る抗争を繰り広げ、2度に渡って馬場&鶴田を降して王座を奪取、2度目の奪取は大木の地元である韓国だった。
そして1979年10月26日、大木を可愛がってくれた朴大統領が側近の怨恨によって暗殺された。大木に一報が入ったのは翌朝で、大木はすぐにでも韓国に戻ろうとしたが、シリーズ中だったこともあって馬場から止められ、韓国に戻ったのはシリーズ終了後だった。韓国の大統領は全斗煥となったが、全斗煥は朴正煕を否定するように政策を次々に改めたことで、国からのプロレスへの支援を打ち切ってしまい、韓国マットは国という大きな後ろ盾を失ってしまう。
大木自身もレスラーとしてピークを過ぎ始めると韓国師弟コンビとしてタッグを組んでいた弟分キム・ドクとの関係も変わり、大木がヒールターンしてブッチャーと組むようになると、ドクも大木とのタッグを解消して全日本入りしリングネームもタイガー戸口と改める。
大木は東京12チャンネル(テレビ東京)の仲介で国際プロレスに入団、国際プロレスでインターナショナルヘビー級選手権を行うことが出来た。しかしこの頃の国際プロレスは観客動員どころか視聴率も低下しており、テコ入れで大木を入団させたものの、ピークの過ぎた大木では観客動員どころか視聴率のテコ入れにはならず、国際プロレスの吉原功社長も大木の入団は歓迎していなかったこともあって、大木は僅か半年で国際プロレスを去り、全日本に復帰するも、今度はNWA非加盟の団体である国際プロレスでNWAの認可を受けた王座の防衛戦を行ったとして、NWAからインターナショナルヘビー級王座を返上するように勧告を受ける。
全日本は鶴田時代への転換を図るために伝統のベルトが必要としたため、インターナショナル王座に目を付けた、大木自身も事業に失敗し金策に追われていたことから、資金繰りのために仕方なくインター王座を売却を決意、馬場も大木への配慮からか全日本に管理・封印されていたアジアヘビー級王座プラス金銭との交換を形を取り、インター王座は全日本の管理下に置かれることになった。王座決定トーナメントにはこの年に開催されたチャンピオンカーニバルに出場した上位9選手がエントリーし大木も参戦する予定だったが、大木は不参加を表明しエントリーから外れ、ドリー・ファンク・ジュニアが優勝して王者となった。

大木は1982年の試合を最後に引退、995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で大木が来場し、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」行われ、大木は2006年10月に死去した。
インターナショナルヘビー級王座は三冠ヘビー級王座に組み込まれたが、インター王座の歴代王者の中には大木の名前はしっかり残されている。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.17「日本人対決の衝撃」猪木vs大木、坂口vs大木は新日本プロレスワールドでも視聴できます)
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