SWS分裂への導火線となった北尾vsテンタの不穏マッチ!


1991年4月1日、SWS神戸ワールド記念ホール大会で北尾光司vs”ジ・アークシェイク”ジョン・テンタの試合が行われた。

試合は序盤からテンタの技を北尾が受けようとせず、それでもテンタがバックを奪って無理やりグラウンドへ引きずり込むも、北尾は場外へエスケープして突如本部席の机を投げつける。
リングに戻っても北尾はノド輪や膝への関節蹴りなど危険な攻撃を浴びせ、さすがのテンタも激昂して北尾を挑発、
睨み合いになると北尾は手をVの字にしてサミングの構えて狙うと、それも避けて対処したテンタは逆にサミングを狙うと構えて睨み合いとなる。そこでテンタが北尾を挑発すると北尾はレフェリーを蹴飛ばしたため、北尾がレフェリーに暴行ということで反則負けになるも、北尾は突然マイクを持って「八百長野郎、八百長ばっかりやりやがって」と前代未聞のアピールをして退場となったが、北尾の発言が大きな波紋を呼ぶことになった。

中学卒業と同時に立浪部屋へ入門し、1979年に初土俵を踏み、1986年に1度も優勝したことのないまま横綱に昇進して、双羽黒 光司に改名するも、1987年12月に些細なことから立浪親方とトラブルとなり廃業、その後はスポーツ冒険家と名乗ってタレント活動を行ったが、アメリカのプロレス養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れてからプロレスに興味を持ちレスラーに転向することを決意。このときの北尾は輪島や曙のようにプロレス団体には属してゼロからやりなおす気はなく、「全米一のハルク・ホーガンのようなレスラーになりたいです」とコメントするように1週間単位でギャラを貰えるレスラーになることを目指していたという。 テーズの道場では2ヶ月修業し、新日本からマサ斎藤も派遣されて北尾を指導するが、時折斎藤のコーチの目を盗んではサボるサボり癖があり、周囲からもプロ意識のなさを指摘されていた。
 そして2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会でクラッシャー・バンバンビカロとのプロレスデビュー戦をするが、絶対的ベビーフェースであるホーガンを意識しすぎて、カッコばかり囚われすぎたため、怪しげなパフォーマンスやぎこちない試合運びにファンからブーイングが飛んでしまい、試合数をこなすためにフリーとして参戦して巡業に帯同したが、力はあっても実戦になると思うようには動けず、橋本真也とマサ斎藤と組んでビックバン・ベイダー、ビガロ、スティーブ・ウイリアムス組と対戦したときにはラリアットを狙った際やコーナーに振られた際に足がもつれて転倒して観客から失笑が起き、ベイダーらに北尾が捕まっても、やり返してこないことから、橋本や斎藤がタッチに応じてくれず、ベイダーとの一戦もロープに振られた際にはロープを掴み損ねてセカンドロープとサードロープの間から場外へ頭から落ちるなど醜態を晒し、本人も自分の思う通りいかないことで苛立ちを抱えるようになる。

その苛立ちの現れが現場監督だった長州力との口論で、長州も最初こそは北尾の練習を見て指示し、北尾とタッグを組んでアドバイスするなど面倒を見てきたが、試合が組まれていない日にも関わらず練習道具どころか試合コスチュームを持たず手ぶらで巡業バスに乗ろうとしたことで”プロなら例え試合が組まれていない時でも練習すべきだろう”と考えていた長州が怒ったことがきっかけとなって北尾の関係が険悪となる。長州は堪えてその場は収まったが、他の選手らもこのことがきっかけになって北尾に誰も近づかなくなっていく、そして7月23日の十和田大会で出場予定だった北尾が腰痛を理由に欠場を申し入れ、また手ぶらで巡業バスに乗ろうとしたら、長州が激怒して試合に出場を命じる。北尾はあくまで欠場することを主張するが、長州は「だったら帰れ!」と言い放ったことで二人の間で口論となり、北尾が長州の最も触れてはいけない出自のことを罵ったため、長州は「オマエはアウト!」だと言い放ち、北尾は巡業バスから降りてそのまま失踪してしまったが、長州にしても北尾のプロ意識のなさには我慢も限界だった。

北尾は新日本所属ではなく芸能事務所「アームズ」から派遣されたものだったことから社長だった坂口征二も長州と北尾、双方を説得したが、長州は北尾にはサジを投げていたことから全く使う気はなく、北尾も長州の下ではやりたくないとして契約金を返還、坂口も応じざる得ず北尾は契約解除という形で新日本を去ったが、北尾はプロレスラーになることを諦めきれず、拘束期間が切れるのを待って、大相撲出身でトップレスラーとなった天龍源一郎を慕って11月1日にSWSに入団する

メガネスーパーを資本に持つSWSは全日本プロレス双方から選手を引き抜いたことで週刊プロレスからパッシングされていたが、北尾の入団はSWSにとって明るい話題で、また田中八郎社長も北尾の強さには惚れ込んで大きな期待をかけていた。北尾は道場で開催された「登竜門マッチ」に出場して大矢剛功からTKOで秒殺勝利を収めて移籍後いきなり初勝利を収め、11月22日の浜松で行われたタッグトーナメントでは天龍と組んで参加し、決勝で高野俊二&佐野直喜を降して優勝を果たすなど活躍、12月には提携を果たしたWWF勢を交えてのトーナメントでも決勝で天龍vs北尾が実現して、天龍の顔面キックを連打を浴びてKO負け寸前となった北尾は猛反撃、最後は北尾のアバランシュホールド狙いを天龍が切り返して強引に押さえ込んで3カウントを奪われ敗れてしまうも、北尾の善戦ぶりは高い評価を受けた。

北尾は翌年の1991年3月24日には、SWS2月22日後楽園大会を視察したJ・J・ディランWWFスカウト部長の要請で天龍と共に「レッスルマニア7」への出場、「レッスルマニア7」ではアックス&スマッシュのデモリッションと対戦するなど順風満帆に見えたが、レッスルマニア7の試合内容も緊張からか評判は芳しくなかった。またSWSのブッカーでありコーチ役だったザ・グレート・カブキからはダメ出しされることも多く、2月5日の熊本でカブキと組んでケンドー・ナガサキ&鶴見五郎組と対戦した際にも、北尾のモタついた試合をした北尾にカブキが一喝して「もう1回やり直しだ!」とダメ出しされることもあった。カブキは全日本プロレス時代から厳しいながらも理論的な指導をすることから定評があり越中詩郎や三沢光晴も指導した実績があることから、北尾に対して”甘やかせたらダメだ”ということで敢えて厳しく接しており、天龍も「カブキさんに任せておけば大丈夫だ」ということで指導をカブキに全面的に任せていた。

3月20日、SWSがWWFが共催で「レッスルフェストIN東京ドーム」を開催し、北尾は”ジ・アークシェイク”ジョン・テンタと対戦した。テンタも北尾と同じ大相撲出身序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成するなど将来を嘱望されていたが、相撲の風習に馴染めず、また佐渡ヶ嶽親方ともトラブルとなって大相撲から廃業、全日本プロレスに入団し、北尾と違ってエリート扱いではなく、しっかり下積みをこなしながらジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ザ・グレート・カブキから指導を受けてからデビューを果たし、めったに新人を褒めないブルーザー・ブロディからも「いい選手が入ったな。俺とアイツのシングルマッチで客が呼べる日も近いぜ」と素質を評価されるなど、北尾とは全く好対照で、WWFへ参戦するとアークシェイクのリングネームでヒールとして活躍、ホーガンと抗争を繰り広げることで、WWFでもトップスターの一角を担う存在となったことから、プロレスでは横綱だった北尾と幕下だったテンタの関係は逆転してしまっていた。

東京ドームでは北尾はテンタの前になす術もなく、テンタのアークシェイクドロップ(ヒップドロップ)の前に圧殺され完敗、そして4・1神戸で再戦となって事件が起きた。ドームでテンタに敗れた夜、北尾はデビュー前から親しい関係であるアポロ菅原に「オレは神戸に行っても負けるかもしれない」と弱音を吐いて、菅原は「もしそういう風に考えているのであれば、行かなくてもいいじゃないか?」とボイコットを薦めていた。そして生前のテンタのインタビューでは「あの時、初日の東京ドームでオレが北尾をピンフォールしたんだけど、もちろん2日目もオレが勝つつもりだった。向こうは元・横綱だろうがなんだろうが、ここはプロレスのリング。オレが2連勝したって、なんらおかしくないからね。 だから2日目の神戸も、オレはキッチリと自分の役目を果たすつもりでいたんだ。ところがアイツは、神戸の試合当日になって文句を言ってきたんだよ。『東京ドームのフィニッシュで胸の骨をケガさせられた』とか言いだしやがって。オイオイ、ふざけんなって! オレはいままで相手をケガさせたことが一度もないっていうのが自慢だったのに、オレがいつケガさせたって言うんだよ!?  WWFの選手はみんな、オレのフィニッシュをきっちり受けてくれるぜ。文句を言うヤツなんて、誰もいなかった。それなのにキタオは当日になって文句を言ってきて、さらにマッチメイクに渋っているという。それでブッカー(マッチメーカー)のザ・グレート・カブキさんが控室に飛んできて意向を伝えにきた。オレはブッカーの指示には背かないから、カブキさんからの要請を素直に受け入れたんだ。『しょうがない、今日のところは北尾に花を持たせてやろう』ってね。俺は神戸でもちゃんと試合をするつもりだったから、まず普通にチョップを入れるところから始めたんだ。ところが北尾はセル(技のリアクション)もしない。それでも俺は普通にプロレスをしていたんだけど、あいつに腕を取らせたら、いきなりフジワラ・アームバー(脇固め)を極めてきたんだ。俺は『やばい! 』と思ってかわしたけど、そこからおかしくなったんだよ。北尾はその後も、全力でキックを入れてきたり、サミングのポーズで威嚇してきたりした。そこで俺は、まともに試合をするのをやめたんだ。マイクで叫ばれたときは、何を言っているのかわからなかったけど、後で聞いて意味を知ったよ。でも、もしアイツがオレのことを『フェイクだ』と言うんだったら、『お前はリアルなのか? 』と言いたいよ。だったらオレをブチ負かしてから言えばよかったんだ。でも、ブチ負かすことができず、自分で勝手にリングを降りて帰っていったじゃないか。つまり、オレが勝ったってことじゃないかな? べつにだからどうってわけじゃないよ。オレはあんな不細工な試合を自慢する気なんてないからね、そもそも、あんな試合になってしまった発端は、東京ドームでのファンの反応にあったと思っているんだ。初日のドームの時点で、すでにお客さんはオレに声援を送り、北尾にはブーイングを浴びせていたんだ。そこらへんから、彼がイライラし始めたんじゃないかな。北尾は自分がスーパースターだと勘違いしているんだよ。『俺は横綱で、あいつは幕下なのに』っていう、相撲時代の意識を引きずっていたのかもしれないけど、へんな野郎だよ。べつに彼を『バカ』と呼ぶつもりはないけど、プロレスというビジネスをわかってなかったということは確かだね」と答えていた。

おそらくだが北尾はテンタ戦で負傷したとしてカブキに欠場を申し入れたが、カブキはサボり癖が出たとして北尾の申し入れを突っぱねた。しかし北尾はどうしてもテンタとの試合は嫌がったことから、カブキは北尾に”華を持たせる”ことにしたが、東京ドームでの屈辱的の敗戦や、試合前からのカブキと口論でイライラがピークに達していたことから、そのイライラだけでなく、カブキへの反発がテンタに向けられ、またテンタに華を持たされること自体屈辱と感じた北尾が自分の実力でテンタをねじ伏せようと考えたのか…

試合を終えると北尾は控室でも荒れ狂い、𠮟責したカブキに対しても暴言を吐いて乱闘寸前となり、常務だった田中社長夫人にも暴言を吐くなど収まりがつかなくなる。そこで菅原が将軍KYワカマツと相談して北尾をタクシーに乗せてホテルへ連れて帰ったが、一方WWF側の控室ではハルク・ホーガンやランディ・サベージ、ブレット・ハートが怒り「来るんだったらここでやってやる!」と北尾が控室に殴り込みをかけるなら、袋叩きにしてやるといきり立つ。この時エージェントして帯同していた佐藤昭雄が「これはSWS内の問題だから」と必死でホーガンらを宥めて治めたものの、この後メインで行われたホーガンvs谷津嘉章戦でも、北尾vsテンタ戦の影響かホーガンはピリピリしており、谷津がエルボーやミサイルキックがホーガンの鼻に2回も当たったことで、試合後にホーガンが「2回も鼻に当ててきた」!と怒りをあらわにする。試合はホーガンが勝ったが、後味の悪いままで神戸大会は幕となってしまった。

大会後に北尾が田中社長に謝罪し、田中社長も本人も反省しているとして1ケ月の出場停止と、罰金処分を降し、天龍も北尾をかばう意味で応じたが、反天龍派がこの大甘裁定に反発するだけでなく、天龍だけでなくブッカーであるカブキを糾弾、さすがの田中社長や天龍もカブキまで責任が及んだことで北尾を庇いきれなくなり、一転して解雇となって北尾はSWSのみならず、マット界から一時的に追放となったが、SWSは天龍派と反天龍派による対立が表面化して一時は分裂寸前になるも、旗揚げしてからすぐ分裂はまずいとして双方とも妥協し、天龍を中心として一致団結するとして騒動は収まったものの、北尾vsテンタの一件はこの後起きるSWS分裂への導火線になっていった。

菅原は後年、「横綱だった北尾が幕下だったテンタに負けることは屈辱以外なにものではない」と北尾には同情的だったが、カブキに理解を持つ佐藤昭雄は「高千穂さん(カブキ)にはテンタと北尾とで作りたいものがあったはずなんだよ、北尾も相撲で辛抱しきれなかった分、プロレスでちょこっと辛抱すれば、良かったと思うよ、プロレスで生きていくためには、それが北尾には必要だったんじゃないの?」と答えていたが、おそらくカブキは”プロレスには負けることも必要で、そこから這い上がる姿をファンが見たいんだ”と考えており、テンタに敗れたことでどん底にまで落ちた北尾がいかに這い上がっていくかでファンの支持も変わってくると考えていたのではないだろうか、しかし北尾にしてみれば負けはカッコ悪いことで自身が思い描いているものではなかった。だが仮に北尾がテンタに”勝つ”にしても、それはファンからしてみれば決して評価を受けるものではなく、決して北尾のためによくないことだと考えていたのかもしれない。

SWSから追放された北尾は「武道家の道を歩みたい」として格闘家となり、「空拳道」の師範、大文字三郎に弟子入りし、騒動の1年後に新日本やSWSで扱いきれなかった北尾に宮戸優光が目をつけてUWFインターナショナルに参戦させ、初戦で山崎一夫を降すも、この時のギャラを師匠である大文字によって持ち逃げされるという裏切りに遭ってしまう。10月には高田との対戦でKO負けを喫したものの、師匠の裏切りを受けたことがきっかけになったのか相手に対して一礼をするなど謙虚さを見せるようになった。

北尾は格闘技塾「北尾道場」を設立してWARのリングに参戦、天龍とのシングル戦では破る活躍を見せる。そして1995年には5年ぶりに新日本プロレスに参戦し5月3日の福岡ドームでアントニオ猪木と組んで長州&天龍と対戦する。この試合が実現したのも天龍の尽力で、長州は過去のトラブルから北尾の参戦には乗り気でなかったものの、天龍が「昔より扱いやすくなったから」と説得、長州は北尾の謙虚さを見せるだけでなくプロレスが上達していることに驚いていたという。

WARのリングではテンタとの再戦が実現、この頃のテンタはWWFを離れてフリーとしてWARに参戦しており、SWSとは違ってラリアットの応酬などプロレスらしい攻防を繰り広げ、北尾がラリアットで勝利を収めてリベンジを果たしたが、後年テンタは北尾戦について「神戸での北尾戦は、試合自体はしょうもない試合だったし、オレが彼をブチのめしたわけでも、彼がオレを潰したわけでもない。いま考えればなんでもない試合なんだけど、ひとつだけ役に立ったことがあるんだ。 アメリカに帰ったら、話に尾ひれがついて何かものすごいシュートマッチをやったって大袈裟な噂になっていたんだ。相撲のグランドチャンピオンが仕掛けたシュートを返り討ちにしたっていう風にね。それで他のレスラーから一目置かれるようになったんだよ(笑)。まあ、良かったことといえば、それくらいかな。シュートマッチなんて、あれが最初で最後だよ。SWSに次に戻ってきたときも全然問題なかったし、数年後に天龍さんの団体WARで北尾と再戦が組まれたときも、ちゃんと普通に試合をしたからね」と答えていた。

テンタは2002年に古巣の全日本プロレスにも参戦したが、2004年に現役を引退、2006年に膀胱癌で42歳の若さで死去した。一方の北尾はUFCだけでなくPRIDEにも参戦してMMAにも挑戦したが、1998年に現役を引退、引退後は立浪部屋とも和解するなど再び相撲と関わり、結婚して家庭を持っていたが、2019年2月10日に腎不全で55歳の若さで死去、ここ数年は北尾はプロレスだけでなく、大相撲と関わりを絶っており、葬儀も家族葬で済ませて、ひっそりとした形で亡くなっていた…

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.20 入団・退団」日本スポーツ出版社「SWSの幻想と実像」双葉社「俺たちのプロレスVol.15 SWS 30年目の真実」辰巳出版「GスピリッツVol.59 特集・ミル・マスカラス」)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。