新日本プロレスのタッグを変えた長州&浜口の維新タッグ!


1983年4月3日、新日本プロレス蔵前国技館大会で長州力が藤波辰巳を破ってWWFインターナショナルヘビー王座を奪取した。前年の10月8日の後楽園ホールで藤波に対して「咬ませ犬」発言をしたことで、一躍時の人になった長州は藤波に叛旗を翻したことで、新日本プロレスの中心に躍り出ようとしていた。

その長州に共感を示したのは”はぐれ国際軍団”に属していたアニマル浜口だった。浜口は国際プロレス崩壊後はラッシャー木村、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦、はぐれ国際軍団としてリーダーだったラッシャー木村を副将として支え、アントニオ猪木率いる正規軍と渡り合ってきたが、1982年11月に猪木vsはぐれ国際軍団の1vs3のハンディキャップマッチを組まれるようになってから、はぐれ国際軍団に限界を感じ始めるようになり、1vs3という屈辱的なカードを組まれても、不満を言おうとせず黙々としてこなそうとする木村に対しても意見が合わなくなっていた。

浜口は本隊から飛び抱いて個人で行動している長州に共感を示し、WWFインターナショナルヘビー王座まで奪取していた長州を見て、自分の気持ちをわかってくれるのは長州力しかないと感じ、長州に接近していった。

長州と浜口は初対面ではなく1979年8月に開催された「プロレスオールスター戦」でタッグを組んでおり、昭和57年1月1日の後楽園大会でも長州がリキラリアットを初披露した相手も浜口だったこともあって敵対しながらも縁があった。

4月15日の福山市体育館で浜口は行動を起こし、はぐれ国際軍団として猪木&坂口&木村健吾組と対戦した際に、木村の誤爆をきっかけに仲間割れとなり、はぐれ国際軍団から離脱、23日に行われた長州vs藤波の再戦でも長州のセコンドに着くなど共闘をアピールする。長州もマサ斎藤とキラー・カーンと共に革命軍を率いていたが、斎藤はアメリカに戻ることになり、カーンもIWGPが終わればアメリカに戻ることから、本格的に組むパートナーが不在だった。そこで浜口との共闘は長州にとってベストタイミングでもあった。

行動を共にするようになった長州と浜口は「第1回IWGP」に入ると、津市体育館大会へ向かう移動バスに乗らず共に失踪する事件を起こしてしまう。いつまでも猪木中心に回る新日本プロレスに疑問を抱き、マサ斎藤と共に新団体設立も視野に入れていたうえでの行動で、猪木の側近だった新間寿氏もコントロールを受け付けようとしない長州に困惑させていた。

しかし第1回IWGPで猪木がハルク・ホーガンにKOされ、次期シリーズである「サマーファイトシリーズ」を全休することになると、猪木不在の間を初代タイガーマスクと、藤波vs長州の名勝負数え歌で穴埋めせざる得なくなってしまい、浜口と共にフリーとして新日本に参戦ことを条件を出したことで新日本に参戦することになった。

7月1日の後楽園大会では長州&浜口は藤波&木村健吾組と対戦、素早いタッチワークで藤波&木村健吾を翻弄、長州がパイルドライバーの体勢に入るとコーナーの浜口が木村健吾の足を掴んでジャンプする合体パイルドライバーことハイジャックパイルドライバーを披露する。試合は両軍リングアウトになるも、15日の札幌大会で藤波&前田明(日明)組と対戦した際に前田にもハイジャックパイルドライバーを決め、浜口がエルボードロップで3カウントを奪い勝利を収めるだけでなく、ハイジャックパイルドライバーを食らった前田は首を負傷し翌日から欠場してしまう。

ハイジャックパイルドライバーは維新コンビのオリジナルだったのかというと、そうではなく日本プロレスや新日本プロレスで一世を風靡した中堅タッグ、山本小鉄&星野勘太郎のヤマハブラザーズが使っていた合体技で、国際プロレスに属していた浜口がマイティ井上と組んで対戦した際に、ヤマハブラザーズのハイジャックパイルドライバーを食らっていたのだ。

長州&浜口の素早い連係や息の合ったタッチワークや合体技の数々は、浜口が何度も対戦してきたヤマハブラザーズを参考にしてきたものなのかもしれない。長州&浜口は浜口が相手をバックフリップの態勢から担ぎ上げると、コーナー上の長州がエルボーを投下、また長州が相手にサソリ固めを仕掛けようとしたところで、浜口が入ってエルボードロップで援護してからサソリ固めで捕らえるなど数々の連係を披露、相手の背中を二人掛りで叩きまくる”太鼓の乱れ打ち”も維新軍から出されたものだった。ヤマハブラザーズと渡り合った経験を生かした浜口が司令塔になってイケイケだった長州を巧みにコントロールし、長州も浜口に大きな信頼を寄せていたこともあって、長州&浜口の維新タッグは新日本のタッグを変えた名チームとなった。

10月にはアメリカへ出ていた谷津嘉章が凱旋帰国、カーンもアメリカから戻り、ラッシャー木村の欠場に伴い、一人だけとなった寺西も合流して維新軍団は拡大し、「第4回MSGタッグリーグ戦」でもエントリーを果たした長州&浜口は優勝戦線にも食い込み、12月2日の鹿児島で行われた藤波&前田との公式戦では30分フルタイムドローになるなど好勝負を繰り広げた。

また浜口も維新軍団が拡大しても副将として長州を支え、1984年9月には長州が新日本プロレスを離脱してジャパンプロレスに参加するときも追随していったが、ジャパンプロレスになると長州のパートナーは団体の将来のことを考えて谷津が起用されるようになり、浜口は一歩引いた立場で長州を支え続けた。しかしジャパンプロレスが分裂し長州が新日本プロレスへUターンすることになると、浜口は「間違いが起きたら引退する」と明言していたため引退を決意、長州も自分を理解してくれた浜口を引き留めようとしたが、浜口の決意は変わらず、8月に新日本プロレス両国大会で引退した。

引退後の浜口はボディービルをやるためにジムを設立するも、プロレスを教えて欲しいという若者が殺到、最初こそは浜口はプロレスを断ち切るために断っていたものの、1990年に現場監督となって悪戦苦闘しながら最前線に立っていた長州が精細を欠いた試合をすると、浜口が突如現れ「おいっ長州、お前何やってるんだよ。こんな試合をして恥ずかしくないのか。」と涙ながらに叫んで長州を張り倒し、馬乗りになってなおも張り手を見舞う。
これをきっかけにスーパー・ストロング・マシンらブロンドアウトローズの参謀として現役復帰を果たし、敵として長州に立ちはだかったが、長州と浜口が一騎打ちを行い、長州が勝つと一転して和解し長州&浜口の維新コンビを復活させた。

浜口は新日本から一線を画した後で、天龍源一郎のWARに参戦したが、首を負傷し欠場、その後は復帰することはなく、1度引退式を行ったとしてそのまま正式に引退した。

浜口はその後、小島聡、大谷晋二郎、大森隆男、小原道由、SUWA、本間朋晃、TAJIRI、高橋奈七永、内藤哲也、鷹木信悟を輩出、今年の入ってからはDDTで高鹿佑也もデビューするなど、現在も道場で後進の指導を行っている。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.15 タッグチームの行方)

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