MSGや日本で暴動を引き起こした男がWWE殿堂入り


2021年4月6日、WWE Hall of Fameが行われ、一人の荒くれレスラーがレガシー部門で殿堂入りを果たした。その男の名はディック・ザ・ブルーザー、その名の通りの荒っぽいファイトスタイルから、「生傷男」の異名で呼ばれた。

ブルーザーは日本では学生時代はフットボール選手として各大学からスカウトの声がかかっていたが、喧嘩が原因の放校処分で7つの大学を渡り歩き、結局は卒業できず、在籍期間の最長で大学の7カ月間で、地元のインディアナ大学は2日間で退学になり、1951年にNFLのグリーンベイ・パッカーズに入団したが、同僚の黒人選手がタクシーに乗車する際に人種差別を受けると激怒したブルーザーが運転手に詰め寄り乗車拒否を撤回させるなど、数々の武勇伝を持っていた。

1954年にプロレス入りを果たし、地元であるインディアナ州を中心に殴る蹴るの喧嘩ファイトを中心したことでヒールとして活躍、1956年にはNWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズにも挑戦した。

当時のアメリカマットはAWAやWWWF(WWE)も誕生しておらず、NWAが独占していた時期だったが、テーズがエドワード・カーペンティアとの防衛戦の際に負傷、試合放棄という形で敗れたことで、カーペンティアを押すプロモーターによって新団体設立の動きが見え始めるなど、分裂に兆しが見え始めていた。

ニューヨーク地区はアントニオ・ロッカをエースに押し立てていた。ロッカはアルゼンチンバックブリーカーやドロップキックを武器にエースとして活躍、圧倒的な人気も誇っていたため敢えてNWA王者だったテーズ招聘しなかったこともあって、「無冠の帝王」の異名とも言われていたが、テーズはロッカを高く評価しておらず、折り合いが悪い関係となっていた。

1957年11月19日、マジソン・スクエア・ガーデンの定期戦が行われ、この頃のニューヨークはウォルター・ジョンソンがプロモーターとして取り仕切っており、後にニューヨークを取り仕切るビンス・マクマホン・シニアはワシントンDCのプロモーターであったが、出資者という立場でジョンソンを補佐していた。ロッカの相手としてブルーザーを招き、タッグマッチでロッカはカーペンティアと組んでブルーザー&キラー・コワルスキーをマッチメークされ、ロッカとカーペンティアの2大ベビーフェースがタッグを組み、荒くれものブルーザーと殺人狂のコワルスキーの2大ヒールの迎え撃つ豪華なカードが組まれたことで、MSGは12000人が動員されたが、コワルスキーが飛行機が遅れたため間に合わず、急遽ロッカと手の合うジェリー・グラハムが代役として出場することになった。

試合は3本勝負で1本目はロッカとカーペンティアがドロップキックの競演を披露してから、ロッカがジャックナイフ式エビ固めでブルーザーから3カウントを奪いロッカ組が先制したが、2本目になるとロッカがブルーザーを得意のアルゼンチンバックブリーカーで捕らえようとすると、グラハムがカットに入り、その後再三に渡ってグラハムがカットに入ったため、怒ったロッカがグラハムを鉄柱に叩きつけて流血に追い込み、なお何度もグラハムをコーナーに叩きつける。これにエキサイトしたグラハムもロッカをコーナーポストに何度も叩きつけて逆に流血させると、扇動されてエキサイトした観客がイスを投げつけ、そのイスがブルーザーに直撃して流血する。

そこでブルーザーが客に向けてイスを投げると、観客もエキサイトしてリングに押し寄せ、次々とイスを投げるだけでなく、2階からビール瓶まで飛び交ってくる。MSG側も異常事態と判断して警官隊を呼び、エプロンに立たたせて投げられてくるイスを防御させる中で、試合は続行されたが、ロッカとグラハムが殴り合いを続けるだけでなく、ブルーザーとカーペンティアも乱闘を続け、リング内にも観客が乱入してブルーザーが追っ払う。そして投げられたイスが警官にも直撃して担架で運ばれる事態も起きてしまったことで、レフェリーは試合続行不可能と判断、ブルーザー&グラハムの反則負けとなり、2-0でロッカ&カーペンティアが勝利も、騒ぎは収まる気配はなく、イスが飛び交い続け、ブルーザーとグラハムの二人は警官隊に取り囲む中でリングから脱出するが、暴動は収束することはなく、遂に観客はリングに雪崩れ込んで、リングが破壊される事態にまで発展、警官も2人負傷してしまった。

MSGでの暴動事件は新聞に大きく報道さてしまい、これを重く見たニューヨーク州の体育局がジョンソンを呼びつけ、30日に行われるMSGでの定期戦の中止命令を降し、ロッカ、カーペンティア、ブルーザー、グラハムの4選手に対して連邦裁判所への出頭、事情聴取に応じるように要求、応じなければ今後MSGでプロレス興行は認めないと強硬な姿勢を見せる。

MSGでの定期戦が出来なくなると死活問題となることから、ジョンソンは4人に出頭するように懇願、連邦裁判所に出頭した4人は反省コメントと、罰金を支払うことを求められる。ロッカ、カーペンティア、グラハムは反省の意思を示して体育局コミッショナーに謝罪したが、ブルーザーだけは謝罪どころか罰金の支払いに応じず、ブルーザーだけが出場停止処分となり、ブルーザー自身もニューヨークを去ったことで、MSGから事実上永久追放されてしまった。

後年ブルーザーがなぜ暴動事件で罰金の支払いどころか謝罪に応じなかったのか真相を明かし「謝罪する必要はない、オレは観客の投げたイスで頭部に裂傷を負った被害者だ。オレがイスを投げ返したのは自己防衛、正当防衛だよ、何回もケガをさせられたまま、無防備で立っていろというのか?なのに謝罪しなければならないのか、そもそも、なんでリングで対戦した相手と一緒に座ること自体、ありえない話だ。4人で一緒に法廷に座った写真が新聞に掲載されたときの怒りは、レスラーでなければ理解されないだろうな。百歩譲ってブタ箱には入りたくないから出頭には応じたが、そこで謝罪するとか、罰金を払えとかいえばノーだよ、それはオレ個人の判断に委ねるべきで、プロモーターと別意見でいいはずだろう?別にMSGに出場できなくても他に稼げる場所はあった、永久追放?上等じゃないか。MSGからの追放はかえってレスラーとしての勲章になったと思う。MSGに出ることなんかより、プライドが守ることが大事だよ」と答えていた。

確かに試合内容を見たら、暴動の発端を作ったのはロッカとグラハムがエキサイトしたからで、ブルーザーは巻き込まれたに過ぎなかったが、自己防衛で観客に向けてイスを投げたことで、暴動を煽る結果になってしまったのも事実だった。しかしMSGからの追放はブルーザーのレスラーとしてのステータスを高める結果となり、数々のエリアからオファーを受け、日本にも来日して日本プロレスではジャイアント馬場と激闘を繰り広げた。

ところがブルーザーは日本でも暴動を引き起こしてしまった。1972年にAWAに参戦していたブルーザーはAWAのルートで相棒だったクラッシャー・リソワルスキーと共に国際プロレスに参戦、ストロング小林&グレート草津と11月27日愛知県体育館で金網デスマッチで対戦したが、馬場&アントニオ猪木のBI砲にも勝ったことのあるブルーザー&クラッシャー相手に小林&草津はなす術がなく、二人ともKOするどころか、制止に入るレフェリーまでKOしてしまう。そこでサブレフェリーが金網の入り口の扉を開いて入ると、エスケープルール(金網から脱出したら勝利)と思い込んでいたブルーザー&クラッシャーは扉から出て、そのまま控室に帰ってしまい、二人が逃亡したと思い込んだ観客が怒って暴動に発展して、機動隊まで来る事態にまでなってしまった。

その後、ブルーザーは全日本プロレスと国際プロレスに参戦、アメリカではインディアナポリスでWWAを運営していたが、WWFの全米侵攻の余波を受けてWWAは閉鎖、1991年に食道の血管破裂により死去した。

ちなみにロッカは現役選手として来日しないままとなったが、1975年10月に猪木vsテーズの特別レフェリーとして招かれ初来日となったが、試合中にテーズとロッカは揉めるなど、生涯テーズとロッカは折り合いが悪いままだった。1977年に死去して、ロッカもWWE殿堂入りを果たした。

そして今年にWWEからレガシー部門で殿堂入りとなったが、ブルーザーが生きていたら喜んでいただろうか?ブルーザーは「こんなものいらねえや!」と盾と指輪を投げ捨てていたかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.10 暴動・騒乱」)

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑