馳浩と山田邦子が歴史的グータッチ…「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」とは?


1987年4月7日、火曜日夜8時、テレビ朝日系列で新日本プロレスを中継する「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」がスタートした。

「ワールドプロレスリング」は1986年9月までは金曜8時に放送されていたが、かつて20%を稼いでいた視聴率も長州力や初代タイガーマスクの離脱、看板だったアントニオ猪木の衰えもあって10%台に落ち込み、月曜日夜8時の枠に移行したが、特番が入ることもあって定期的中継も激減するようになるなど扱いが悪くなっていた。この頃には新日本プロレスを後押していた”テレ朝の天皇”である三浦甲子二も死去しており、局内でも「ワールドプロレスリング」の打ち切りも取りざたされていた。

当時の新日本プロレスは辻井博氏が会長、ワールドプロレスリング放送開始の立役者である永里高平氏が専務取締役がテレビ朝日から派遣されており、二人は打ち切りの声を消していたが、テコ入れの必要性を迫られたことで、番組内容を一新することになり、時間枠も火曜夜8時に変更、タイトル名も「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」改めることになった。時間枠が移行する理由は火曜夜8時の枠は「ビートたけしのスポーツ大将」という高視聴率を取れる人気番組があったが、ビートたけしがフライデー編集部殴り込み事件を起こして謹慎、番組もビートたけしが抜きで放送していたものの、視聴率が低下したことを受けて一旦休止、その枠に「ワールドプロレスリング」を持ってきたのだ。

放送枠移動寸前の新日本プロレスは、ジャパンプロレスの選手として全日本プロレスに参戦していた長州が追随する選手らと共に新日本プロレスへのUターンに動き出して、その先兵として全日本と馴染みの薄いマサ斎藤を送り込んでいた。フロリダ州タンバに遠征していた武藤敬司が謎の海賊男の襲撃に遭い、1ケ月後の草加大会でも海賊男が出現、3月26日の大阪城ホールで行われた「INOKI闘魂LIVEパート2」では猪木vs斎藤の試合が実現するも、試合中に海賊男が現れて試合をぶち壊し、観客が暴動を起こしていた。

「ワールドプロレスリング」がこれまでスポーツ局が制作してきたが「ギブUPまで待てない!!」に番組名が改めることで、バラエティ担当の制作第3部が協力することになり、現場制作も日本テレビで放送していた「天才・たけしの元気の出るテレビ」を手掛けてきた局外プロダクションIVSテレビにテレ朝スポーツが協力する形で行ったが、「ギブUPまで待てない!!」が加えられた理由は「このまま視聴率が下がるならギブアップするまで待てない、思い切って大手術をしなければ、ゴールデンタイムを生き抜くことが出来ない」という理由でつけられた。

「ギブUPまで待てない!!」には当時週刊プロレスでスタッフライターとして在籍していた斎藤文彦氏もテリー伊藤の依頼で構成作家として加わることになり、基本的にはバラエディ側のアイデアをプロレス側からチェックする役目を務めていたが斎藤氏はテレビと雑誌の両立、またテレビメディアと活字メディアとの複雑な関係で苦労しつつ学んでいったいう。「ギブUPまで待てない!!」ではこれまでのプロレス中継はマニア向けでだったことを踏まえて、バラエティー形式を持ち込んで、ファンの底辺を広げていこうというのが狙いだった。新日本プロレス側も企画をチェック、意外にもアントニオ猪木もアイデアを出すこともあって協力的な立場を取っていたが、バラエティ部門の提案にはテレビ朝日寄りだったはずの坂口征二は今回ばかりはついていけず「ギブUPまで待てない!!」にはタッチしようとしなかった

4月7日の火曜8時から「ギブUPまで待てない!!」がスタート、スタジオと会場の二元中継という形を取り、スタジオでは司会の山田邦子、なぎら健壱が進行を務め、ラサール石井、アイドル代表としてジャニーズの男闘呼組、志村香、プロレスファン代表として俳優の森本レオらがスタジオ観覧の客を盛り上げ、現場の実況でもフリーに転身して降板した古館伊知郎に代わって保阪正紀が務め、局アナの藤井暁と当時東京へ進出したばかりの笑福亭笑瓶が控室をリポート、当時のトップ外国人選手だったクラッシャー・バンバン・ビガロのプロモーションVTRを流し、「山本小鉄の君もプロレスラーにならないか」「リングコスチューム大賞」「ビガロと一般人の体重比べ」を始め、視聴者が参加できるコーナーも企画されるなどリニューアルを果たす。第1回ではジャパンプロレス代表として新日本に参戦していた斎藤がスタジオに登場して猪木を挑発、当時は長州が新日本にUターンが取り沙汰されていたことから、斎藤の登場はタイムリー性を持たせた。

ところが試合中の良い場面でプロレスの攻防で驚く場面を演出したかったのか、スタジオの山田邦子さんらタレントの顔をアップで写すなど、バラエティ側の演出が当時のプロレスファンから反発を招き、初回の視聴率は5.7%、第2回も0.7%下がって5%と低視聴率を記録してしまい、テレ朝にも「試合をもっとみせろ!」「芸能人を引っ込めろ!」と苦情の電話やはがきが殺到、また現場の試合は録画収録だったものの、メインの試合途中で放送終了時間が迫ったため現場の中継が終わり、スタジオに切り替わったことで、ファンから「録画なら最後まで試合を見せろ!」と更なる反発を招いてしまう。

クレームに押される形でギャラリーを集めてのスタジオ観覧を辞め、男闘呼組や志村香などアイドルは降板となり、スタジオでの選手へのインタビューを織り交ぜて試合を放送、この時期は長州力が新日本へUターン、世代闘争を掲げたことで新世代から藤波辰巳や前田日明がスタジオ訪れて世代闘争へ向けてインタビューに答えるなどタイムリー性を見せていったが、ジャパンプロレスに入門しながらも、まだ日本デビューを果たしていないまま長州に追随した馳浩がスタジオインタビューに答えた際に山田邦子さんが「控室に戻ったら血なんて止まるのも何ですか?」と質問すると、馳が突如激昂して「つまんないことを聴くなよ!止まるわけないだろ!」と怒鳴ってしまい、山田邦子さんをアタフタさせてしまった。レスラー側もは「おちゃらけている」「素人が土足で俺達のリングに上がっている」など番組に対して批判の声も多く、なぜプロレス番組を芸能タレントに仕切らせなければいけないんだというイライラもあって、それが爆発した形だが、まだこの時期の馳は若かったこともあって柔軟さも欠けていた部分もあったのかもしれない。しかし芸能タレント側である山田邦子さんも後年「私も勉強不足で若かったし、下手クソなインタビューをしました。だからカチンと来たんでしょう」と振り返っていたが、山田邦子さんも視聴者の反発を意識して頭や胃を痛めており、藤波だけでなく猪木までも山田邦子さんを気遣っていたという。

7月の放送からスタジオ収録も廃止され、山田邦子さんだけでなくなぎら健壱も降板、「山本小鉄の君もプロレスラーにならないか」「リングコスチューム大賞」「ビガロと一般人の体重比べ」の企画物も既に収録されていたのにも関わらずボツでお蔵入りとなったが、猪木も頑張っていた山田邦子さんの降板は残念がっていた。元のプロレス中継番組に戻ったものの、最初の失敗も尾が引き、また裏番組は読売巨人軍の野球中継、大映テレビのアイドルを起用した愛憎ドラマ、「火曜ワイドスペシャル」もあって視聴率は好転せず、なかには4%に落ち込む回もあった。また期待されていた長州も日本テレビとの契約がクリアされておらず、「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」では試合を放送することは出来なかった。「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」は月曜日夜8時の枠に戻って、タイトル名も「ワールドプロレスリング」に戻り、視聴率は10%台に戻るなど好転はしたものの、月曜日夜8時の枠は相変わらず特番も入って「ワールドプロレスリング」が放送されない日もあり、裏番組も「水戸黄門」や「ザ・トップテン」「志村けんのだいじょうぶだあ」などあったことから視聴率的は苦戦を強いられ、12月27日に行われた両国大会では暴動事件が起きたことで相撲協会を怒らせたことが決め手となって、「ワールドプロレスリング」はゴールデンタイムから降ろされ、土曜日夕方4時の不定期放送枠に押しやられてしまったが、皮肉にも暴動事件の渦中にいたビックバン・ベイダーは「ギブUPまで待てない!!」で企画していたはずの新キャラで、先行する形で誕生した海賊男は「ギブUPまで待てない!!」が用意したものではなくは新日本プロレス側が誕生させたものだった。「ギブUPまで待てない!!」で用意したベイダーに猪木が完敗を喫したのことは、今思えば皮肉めいたものを感じざる得なかった。

1990年になると坂口が社長就任と共に辻井氏会長に就任したが、7月の臨時取締役会で猪木によって辻井氏は代表取締役相談役という閑職に追いやられ、永里氏はコミッショナー顧問となって新日本を去った。猪木は1989年に参議院議員選挙に出馬して当選したが、これに伴って猪木が出場しない機会が多くなることから約定違反ではないかとテレビ朝日側からクレームがあり、辻井氏はクレームを押さえていたのだが、猪木はかねてからテレビ朝日に新日本を牛耳られている現状に納得できなかったことから、新しいスポンサーとなった佐川急便の佐川会長に持ち株を渡したことでバックアップを得たことで、テレビ朝日側からの出向役員の一掃を図ったのだ。

その後、山田邦子さんはプロレス会場に良く訪れるプロレスファンの一人となり、プロレスファンからも馴染みの人になった。そして今年行われたNOAH1・4後楽園大会では衆議院議員となっていた馳がサプライズ参戦を果たし、ゲスト解説を務めていた山田邦子さんとグータッチを交わした。二人の再会は「ギブUPまで待てない!」の一件からなされておらず、NOAHのリングで久しぶりの対面となった。その時ファンからは「ギブUPまで待てない!!」という言葉が出ていたが、あの事件がなければこういったシーンも見られることはなかったのではないだろうか?

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.25悪党の世紀」斎藤文彦著「日本プロレス正史」)

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