国際プロレスと争奪戦!?ミル・マスカラスが初来日!


1971年2月に一人の覆面レスラーが初来日を果たした。覆面レスラーの名はミル・マスカラス、当時のマスカラスは”悪魔仮面”と言われていた。

マスカラスは学生時代からレスリングに打ち込み、1964年に開催された東京オリンピックの候補にも挙がったという。1965年にはアレナメヒコでデビューを果たし、1967年にはナショナル・ライトヘビー級選手権を獲得、1968年にはアメリカ・ロスアンゼルスのNWAハリウッドレスリングに進出し、キラー・バディ・オースチンを降しアメリカス王座を獲得、当時カンフー・リーと名乗っていたグレート小鹿とも抗争を繰り広げ、メキシカンの多いロスアンゼルスでたちまち人気者になり、ロスだけでなくフリッツ・フォン・エリックのエリアであるテキサスにも進出、ジョニー・バレンタインと好勝負を繰り広げた。

そのマスカラスの名前を日本に広めたのがプロレス専門誌の「ゴング」で当時編集長だった竹内宏介は、まだ未来日にも関わらずマスカラスを「ゴング」の看板スタートして大きくプッシュし、初来日まで50回も特集を組むほどだった。そのマスカラスに日本プロレスの外国人ブッカーであるミスター・モトが接触し来日のオファーをかけた。

実は日本プロレスは以前からマスカラスにオファーをかけていたものの、提示されたギャラが低かったため、マスカラスは首を縦に振らずオファーを断っていた。日本プロレスもマスカラスはメキシカンということもあって、さほど興味は抱いていなかったのかもしれない。だが、ここにきて日本プロレスがマスカラスを欲したのは理由があった。

1970年5月に日本プロレスのライバル団体である国際プロレスが「あなたがプロモーター」という企画を打ち出し、未来日の外国人をオファーして欲しいかファン投票を行った。当時の国際プロレスはヨーロッパの選手を中心に招聘していたが、まだアメリカからのルートは確保しておらず、1969年のNWA総会では加盟申請はしたものの、日本プロレスの妨害工作の前に却下されていた。しかし、総会を終えると国際プロレスの吉原功社長はすぐさまNWAの競合団体であるAWAに接触、提携を結ぶことに成功してアメリカからのルートをやっと獲得することが出来た。そこで国際プロレスが打ち出したのは「あなたがプロモーター」で、AWAと結ぶことで日本プロレスに負けるとも劣らない外国人選手を呼べることをアピールするのが狙いだった。

斬新な企画に39652通のも応募が集まった。ベストテンは1位 スパイスロス・アリオン、2位 ミル・マスカラス、3位 ザ・シーク、4位 ブルー・ディモン、5位 アーニー・ラッド、6位 ロッキー・ジョンソン、7位 ホセ・メンドーサ、8位 ジョニィ・デファジオ、9位 イゴール・ボディック 10位 バロン・フォン・ラシクがベスト10に入った。1位となったアリオンはフランス出身でアメリカではWWWF、オーストラリアのIWAを中心に活躍しており、マスカラス同様に来日が期待されていたレスラーの一人だった。

早速国際プロレスがアリオンとディモンにオファーをかけて初来日が決まったが、日本プロレスが先手を打ってモトを動かしベストテンに入った選手のブッキングを依頼、その結果日本プロレスがアリオンの横取りに成功するだけでなく、ディモンの来日にストップをかけることに成功、そしてマスカラスにも来日のオファーをかけた。マスカラスは翌年にはAWAからもオファーを受けていたことから、AWAのルートで国際プロレスに来日する可能性があり、その情報を入手していた日本プロレスがマスカラスにもオファーをかけたのだ。

当然国際プロレスもAWAのボスであるバーン・ガニアを通じてマスカラスにオファーをかけたが、ギャラが低い金額だったこともあって断り、モトを通じて日本プロレスからギャラを提示されたマスカラスは以前より高い金額でのオファーだったこともあって、やっと来日することを決意、念願の初来日となったが、羽田空港に降り立ったマスカラスに待ち受けていたのはマスコミだけでなく「ゴング」の影響を受けた大勢のファンで、マスカラスがやっと来日すると聴きつけて空港に駆けつけたのだ。マスカラスは大勢のファンのサイン攻めに遭いながらも会見場に向かい、先に来日していたアリオンと共に記者会見に臨んだが、ツーショットでの写真には応じたものの、プライベートではアリオンはマスカラスとは距離を取った。マスカラスがメキシカンだっただけでなく、「あなたがプロモーター」で1位になったにも関わらず、2位のマスカラスの方が注目を受けたことでアリオンは不快感を示したのだ。

19日の後楽園ホール大会からシリーズが開幕するが、開幕戦にもかかわらず館内はマスカラス見たさに超満員札止めとなり、初戦の相手はメキシコにも遠征したことがある星野勘太郎が務めた。マスカラスは黒いソンブレロを被って姿を見せると、まだ当時は珍しいトップロープ越えのジャンプインでリングインすることでファンの心を一気に掴んだ。
来日初戦となった星野戦でも、フルネルソンの奪い合いで星野がすり抜けようとしても、マスカラスは星野の腰に手をまわして、引っこ抜くようにリフトアップしてからフルネルソンに戻したことで館内を沸かせ、サーフボードストレッチやダブルアームバーで捕らえるジャベ、まだ当時では珍しかったティヘラも見せ、星野も反対側のコーナーへ叩きつけようとすると、セカンドコーナーに飛び乗ったマスカラスは回転エビ固めで丸め込む。
星野も負けじとヘッドロックパンチを浴びせれば、マスカラスも目には目をとパンチで応戦、怒った星野もマスカラスのマスクに手をかけようとするが、マスカラスはボディーへのパンチで逃れ、一旦場外へエスケープしてからリバースフルネルソンで捕らえるメキシカンストレッチで星野の動きを封じる。逃れた星野は突進するが、これもまだ当時では珍しいリーブロックで飛び越えて避けるとドロップキックを発射、そしてコーナーからのダイビングボディーアタックを放って3カウントを奪い、マスカラスの華麗な空中殺法にファンは一気に酔いしれ、一気に心を掴んでいった。

マスカラスを呼ぶことが出来なかった国際プロレスは昭和53年8月に1度だけ参戦が実現しかけたことがあった。昭和53年8月に国際プロレスの吉原功社長の要請で、提携していた全日本プロレスからの貸し出しということで、全日本のシリーズ終了後に1週間だけマスカラスの参戦が決まり、国際プロレスもポスターも刷り上がって、マスカラスの移動用に高級車まで用意した。
ところがマスカラスはテキサス行きのスケジュールを組んでドタキャンしたため参戦は実現しなかったが、本当の理由は国際プロレスの日程が都市部でなくローカルな小さな会場だったため、マスカラスが嫌がったのが真相だという。マスカラスがドタキャンを食らわせたためか国際プロレスが崩壊後にマイティ井上らが全日本に移籍しても、”性格が悪い””自分のやりたいことしかやらない”などマスカラスに対してよい感情を持っていなかったが、国際プロレスに参戦しなかったことも井上がマスカラスに良い感情を持たなかった理由だったのかもしれない。結局「あなたがプロモーター」で参戦する選手のほとんどが日本プロレスに取られてしまい、やっと国際プロレスに参戦することが出来たのは10位のラシクだけだった。

果たしてマスカラスは”性格が悪い””自分のやりたいことしかやらない”選手なのか、マスカラスの初戦の相手を務めた星野は後年「それは絶対違うよ、カッコ良くされたくなければ、自分がカッコ良く見せればいい話だけの話、終わってからぶつぶつ泣き事を言うヤツに限ってショッパイ試合しか出来ないレスラーなんですよ。僕はマスカラスは素晴らしいレスラーだと思いますし、彼こそがプロフェッショナル中のプロフェッショナルですよ、僕と対戦した後、マスカラスはファンやマスコミから大きな評価を得たかもしれないが、それに引き換えで負けた僕の評判は落ちましたか?落ちないでしょ?それが一流のプロフェッショナルというもんですよ」と答えていたが、初代タイガーマスクがダイナマイト・キッドとデビュー戦を行った時も、タイガーは勝ってキッドは引き立て役になったが、キッドの評価は下がるどころか上がっていった。それを考えるとマスカラスの来日初戦の相手は星野が正解で、マスカラスも星野に大きな信頼を得たのかもしれない。

話は戻って初来日したマスカラスはシリーズでは吉村、アメリカでの好敵手である小鹿とも対戦、吉村戦ではフライングクロスチョップ、小鹿戦では当時使い手が数少なかった垂直落下式ブレーンバスターを披露、3月2日の蔵前国技館大会ではアリオンと組んでジャイアント馬場、アントニオ猪木のB・I砲の保持するインターナショナルタッグ王座に挑戦、当日はマスカラスを奪われた国際プロレスが東京体育館でビックマッチを組んで興行戦争になったものの、観客動員で日本プロレスが圧勝、試合もマスカラスは猪木とはグラウンドでは互角に渡り合ったが、相手が馬場となると、馬場がマスカラスの思うように攻めさせず、まだマスカラスも体格差もあって思うように攻める出来ない。またタイミングも合わない。1本目はマスカラスが猪木にフライングクロスチョップからボディープレスで3カウントを奪い先制も、2本目はアリオンがB・I砲の連係に捕まり、猪木のアシストを受けた馬場がフライングニードロップで3カウントを奪ってタイスコアに持ち込み、3本目もマスカラスが馬場にフライングクロスチョップを狙ったが、馬場が16文キックで迎撃。代わった猪木もドロップキックの連発からボディースラムで反撃、マスカラスもフライングクロスチョップで反撃したが、ボディープレスが自爆すると、猪木が卍固めで捕らえ、馬場もカットに入るアリオンをジャイアントコブラツイストでセーブするなど名シーンを作り、マスカラスがギブアップとなって王座奪取はならず、日本で初めて敗戦を喫したが、アリオンとのチームワークは悪くはなかったものの、不仲は解消できておらず、試合の大半もマスカラスが出ずっぱりだったことから、マスカラス一人で馬場、猪木に挑んでいったような試合だった。

3月6日の群馬では猪木とのシングルが実現し、1本目はマスカラスがフライングクロスチョップの連発からアトミックドロップで3カウントを奪い先取も、2本目は猪木が奥の手であるスピニングバックブリーカーからのコブラツイストで捕らえ、マスカラスが脱出不可能と判断したジョー樋口レフェリーが試合を止めて1-1のタイスコアに持ち込み、3本目もマスカラスのフライングクロスチョップが避けられると場外へ落ちてしまい、2本目のダメージもあってリングに戻れずリングアウト負けとなって1-2で敗れたが、後年マスカラスは「私はギブアップしていないし、3本目はフォール負けをしていない、ピンを取ったのは自分の方だ」と言い訳をしていたが、そのせいもあったのか馬場の保持するインターナショナルヘビー級王座にはマスカラスではなくアリオンが抜擢された。これはマスカラスも大いに不満だったという。これは「あなたがプロモーター」でアリオンが1位に選ばれたこともあったのだろうが、馬場自身がマスカラスとはあまり手が合わないと考えていたのかもしれない。だが、マスカラスは日本に自分の名前を浸透させることで目的は果たすことが出来た。

マスカラスはその後、日本プロレスには3度参戦したが、馬場と猪木ともシングルで対戦することがなく、猪木が日本プロレスを離脱したため対戦は1度だけに終わり、馬場とも対戦することはなく。アリオンは1度全日本プロレスに招かれたが、その後は2度と来日することはなかった。初来日となったが結局マスカラスの華麗さに割を食う結果になったが、もしアリオンはマスカラスと一緒でなければ、日本でも良さが発揮できただろうか…

日本プロレスの崩壊後はマスカラスは全日本プロレスに参戦、絶対的ベビーフェースということで日本側の助っ人に立ち、また馬場とは対戦することがなかったが、手が合うということでジャンボ鶴田と対戦してベストバウト賞を受賞するなど好試合を見せ、弟のドスカラスも参戦して二人による編隊飛行でファンを魅了させていった。
しかし、1981年に新日本プロレスで初代タイガーマスクがデビューすると、マスカラスを超えるような空中殺法でファンをたちまち魅了する。また全日本プロレスでもブッカーに佐藤昭雄が就任すると、佐藤がルチャに理解がなかったこともあって、たちまちマスカラスの扱いが悪くなり、マスカラスは過去の存在となっていった。
マスカラスは全日本からのオファーがなくなるとW☆ING、WAR、みちのくプロレスになどに参戦して往年のスター振りを見せ、2009年3月には初代タイガーとのタッグが実現、2019年2月に開催されたジャイアント馬場没後20年追善興行に来日して、ドスカラスとの編隊飛行を披露、ダイビングボディーアタックでNOSAWAからフォール勝ちを収めた。
今年で79歳を迎えるマスカラスは現在も往年のスターとして活躍している。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑