全日本女子プロレス最後の武道館に鳴った非常ベル


1997年8月20日、全日本女子プロレスが日本武道館大会「武道館女王列伝~brightness」を開催した。

全日本女子プロレスは1992年からJWP、LLPW、FMW女子を巻き込んだ団体対抗戦で人気を博し、GAEA JAPAN、J’dも新規団体として参入して旗揚げ、1994年には東京ドームにも進出して対抗戦ブームも最高潮となったが、ドーム大会を最後に対抗戦ブームは下火となっていった。

その中でも全日本女子プロレスはアジャコングや豊田真奈美、堀田祐美子、山田敏代、井上京子、井上貴子、下田美馬、三田英津子、伊藤薫、渡辺智子などスター選手を抱えていたことで女子プロレス界の中心を保っており、対抗戦ブームが去っても全女は安泰で女子プロレス界の中心に座っていると誰もが思っていた。

その全女に斜陽の兆しが見えたのは1996年8月の武道館で2連戦として開催された「ディスカバー・ニューヒロイン・タッグトーナメント」だった。全女はこれまで東京ドーム「夢の懸け橋」などプロデュースしてきた当時の週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏にプロデュースさせれば大成功するだろうと考えて、ベースボールマガジン社に興行を買わせ、主催となった週刊プロレスでも大体的にPRしたが、対抗戦ブームを過ぎ去っている現状で武道館2連戦を行うこと自体無謀で誰もが成功するとは思っていなかった。そういう状況の中で肝心の山本氏が編集長を辞任して、ベースボールマガジン社を去る事態が起きてしまう。この頃の週刊プロレスは新日本プロレスから取材拒否を受けて部数を落としており、ベースボールマガジン社は新日本との関係を改善させるために山本氏を週刊プロレスの編集長から降ろすことで全て解決させようとしていた。これを受けて当時全女の企画広報部長だった小川宏氏が山本氏の指名で後を引き継いだが、誰もが成功の可能性は低いと考えていた武道館2連戦は小川氏が引き継いでもどうしようもなく、2連戦とも観客席もガラガラで不入りとなって失敗に終わってしまう。損害の全ては興行を買ったベースボールマガジン社が被ることになったが、武道館2連戦の失敗は団体として大きなイメージダウンとなって、以降の興行も低迷が続き、選手やスタッフのギャラも遅配が出るようになっていた。

また全女は興行の他にサイドビジネスとして飲食業、株や不動産の投資を行っていたが、投資が全くの赤字で多額の負債を抱え、資金繰りに慢性的に悩まされており、対抗戦ブームが起きて利益が出来ても、利益の全て借金の返済やや外部業者への支払いにあてるなど常に自転車操業状態だった。地方巡業も赤字が続いてビックマッチの利益だけが全女の主な収入源になっていたが、肝心な興行が不振続きで全女の経営すら逼迫するようになり、銀行からの借り入れも限度額を超えると、サラ金にも金を借りようになり、サラ金からも金が借りれないとなると、スタッフに金を借りるように命じるなど、資金繰りはますます悪化していった。

経営の悪化は現場でも大きく出るようになり、年明けから選手を交代で間引く”公休性”を試験的に導入するが、それは選手を休ませることによってギャラの支払いを軽減させることが目的だったが、事前予告もなかったことでファンだけでなくプロモーターからもクレームが続出したため頓挫してしまう。そういう状況の中で7月に山田、8月にアジャが退団を発表する。表向きの理由はアジャはフリーとなって活動の場を広げる、山田は師匠と慕っている長与千種のGAEAで現役生活を終えたいというものだったが、本当の理由は「金の問題」であることは明白だった。選手のギャラは既に遅配どころか未払いが発生しており、二人の退団は全女に対する不信や不安が積もりに積もっての退団だった。二人の退団に対して全女サイドも”去る者は追わず”の姿勢を貫き、二人が辞めた分、金が浮く程度しか考えていなかったが、二人の退団は武道館で起こる大激震の余震に過ぎなかった。

そして武道館大会当日を迎えたが、入場セレモニーの後でWWWA王座をかけて堀田の挑戦を受ける京子が突然マイクを持ち「ベルトを巻いたまま、全女に区切りをつけたい」とフリー宣言をする。現王者が防衛戦を前にして退団するのは前代未聞で館内も大騒ぎとなり、マスコミも試合どころの騒ぎではなくなってしまった。京子は数日前に一部の選手らを集めてフロントはもう信用できないとして新団体構想を打ち明けていた。ところが密告者が出たためことが京子のクーデターが露見し、京子は退団せざる得なくなっていたが、京子の事件の前にも堀田を中心とした選手らがギャラ支払いを求めてストライキを敢行しており、ギャラの未払い分を分割にして支払うと約束してその場は収めたものの、選手らのフロントに対する不信感はピークに達していた。

退団を考えていたのは選手だけでなかった。京子の突然の退団にマスコミが大騒ぎする中、バックステージで小川氏が8月31日付で退社するあいさつ文をマスコミに配布する。小川氏は広報部長としてマッチメークに携わり、数々のメガイベントを成功させてきた仕掛け人だったが、、前年度末に取締役就任を言い渡されいた。「肩書をもらっても、所詮自分は松永家の人間ではないですからね、”全女がイチバーン”と言って20年頑張ってきたけど、同族企業の中ではこの辺が限界か」と明かしていた通り。全女は基本的に松永家の同族会社で三男の松永高司を中心とする次男の松永健司、四男の松永国松、五男の松永俊国の4人で全日本女子を設立して運営していた。取締役就任は表向きは出世だが、実質上は肩書だけに過ぎず、「小川だけにはマッチメークは決めさせない」とばかりにマッチメーカーから外されて後任には俊国の長男である松永正嗣が据えることで同族支配によるワンマン体制が強化することが狙いだった。松永家の一員ではない小川氏は中枢から外され、窓際族のような扱いに追いやられたが、その全女の功労者でフロントの中枢だった小川氏も退社となれば、さすがのマスコミらも全女内で異常事態が起きていると考えざる得なくなった。

全女の異常事態は大会中にも起こり、玉田凛映と府川唯未のタマフカコンビがFMWのシャーク土屋&クラッシャー前泊との試合後にバックステージでアジャに追随して退団することを表明する。タマフカコンビはアジャではなく小川氏に追随するための退団で小川氏が二人を売り出そうとしていたが松永兄弟の本気で売り出そうとしないなど評価は低く、ギャラの未払いも重なって退団を決意していた。小川氏が退社=新団体設立を考えるようになったのもタマフカが退団することを知ったからで、二人を確保した小川氏は新団体設立へ向けて動き始めていた。

大会は進行して武道館大会をもって退団するアジャは豊田とシングルで対戦して30分フルタイムドローとなり、退団が決定した京子vs堀田のWWWAシングル選手権はセミに降格となって行われ、堀田が腕十字で京子を降してWWWA王座を明け渡した、そしてメインに昇格したWWWAタッグ選手権は王者の下田&三田が渡辺&前川久美子を降して防衛を果たして終わることが出来たが、試合よりバックステージで起きている異常事態が話題の中心になるなど、この時の全女を象徴しているような大会でもあった。

武道館大会後の2日後の大阪府立体育会館大会で松永高司は経営が悪化していることを認めて「去る者は追わず」と選手の離脱もやむ得ない姿勢を見せた。実は松永会長は小川氏から辞表を受け取る際に「辞めることは感づいていたよ、でも俺には引き留める材料がない、お前なら何でもできるだろう」と言って辞表を受理していた。これまでの全女は旗揚げして30年の間、山あり谷ありで、そのたびに松永兄弟が結束して荒波を乗り切ってきた。松永会長も経営面を全てを切り盛りして債務を一手に引き受けて奔走し、人並外れた精神と強運でミラクルを起こして全女を支えてきたが、今度ばかりはミラクルは起きないことを松永会長自身がわかっていたのかもしれない。

全女側が離脱者を容認したことで選手ら次々と退団を表明、吉田万里子も小川氏に追随するために退団、9月21日の川崎大会ではタッグ王者だった下田、三田も退団、全女には堀田、豊田、伊藤を始めとする11選手が残り、10月には不渡りを出して会社としては事実上倒産、全日本女子プロレスにおける武道館大会もこれが最後となった。

その後の全女は会社として倒産となったが、興行だけは松永家と残った選手らと共に継続させ、中西百重、高橋奈苗、納見佳容、脇澤美穂を引き上げて売り出しにかかって再起を図り、一方離脱した京子は下田、三田と共に新団体『ネオレディース』、小川氏にはアジャ、LLPWから大向美智子、GAMI、元JWPのキャンディー奥津、レフェリーの村山大値、リングアナのオッキー沖田が加わって新団体『アルシオン』を旗揚げする。しかしネオレディースは地方に強いパイプをなく、また団体分裂で全女のファンも分散したことで営業的に苦戦し、この状況に苛立ったのか京子がフロント批判をしたことで、選手とフロント側の関係が悪化する。アルシオンも即戦力ルーキーとして浜田文子をスカウトしCS放送のディレクTVが中継を開始するなど順風満帆のスタートを切ったが、小川氏が慣れない経営で悪戦苦闘し、たちまち資金繰りが苦しくなってアジャを始めとする選手らが離脱してしまう。

ネオレディースは2000年1月にいったん解散し、NEO女子プロレスとして再出発する。全女は2003年5月11日に創立35周年記念として横浜アリーナ大会を開催するが堀田が退団を表明し、しばらくして全女から退団した西尾美香らと共にアルシオンのリングに上がって対抗戦を要求、対抗戦に勝った堀田らはアルシオンを吸収合併して「AtoZ」を設立するが、これは堀田とスポンサーが経営を悪化したアルシオンを新組織にする衣替えを提案したもので、小川氏も経営にギブアップして応じたものだった。小川氏はアルシオンから撤退して一時的に業界を去るが、AtoZも堀田派と旧アルシオン側との対立もあり、ほどなくして解散する。

全女はその後も中西も退団してフリーとなり、納見も引退、豊田も伊藤も経営が好転しない全女に見切りをつけてするなど退団が相次ぎ、ライオネス飛鳥と共にクラッシュギャルズ改めクラッシュ2000を復活させた長与、フリーとなっていたアジャと北斗、GAEAに移った豊田、JWPから移籍したダイナマイト・関西や尾崎魔弓、デビル雅美などスター選手を揃えたGAEAの前になす術もなく、多額の負債を抱えたまま全女は遂に活動停止を余儀なくされ、2005年4月17日 後楽園大会をもって解散となり、一週間前には黒字経営で順風満帆だったはずのGAEAも長与の引退、所属選手らが退団の意思を示したことがきっかけとなって解散、女子プロレスの中心だった全女、GAEAが活動を停止したことで、女子プロレスは長い氷河期を迎え、全女を取り仕切っていた松永一家で社長だった国松は自ら命を絶ち、会長だった高司は2009年、副会長の健司も2020年に死去した。

業界を去った小川氏はJDスターの外部スタッフとして業界に復帰、所属選手だった風香と知り合って様々なイベントを手掛け、これがきっかけとなって2011年3月に「スターダム」を旗揚げ、アルシオン時代の反省も踏まえてしっかり土台を作り上げ最も人気と勢いがある団体へと成長させた。そして2019年スターダムはブシロードの傘下に入り、小川氏は経営から退いてエグゼクティブプロデューサーとして現場に専念、2021年3月にはスターダムが女子プロレスとしては23年ぶりに武道館へ進出することになった。果たして23年ぶりの武道館でスターダムがどんな光景を見せてくれるのだろうか…

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.2「テレビプロレスの盛衰」彩図社 ロッシー小川著「女子プロレス秘史」)

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