豊登からジャイアント馬場へ①力道山死去…新体制発足!


1963年12月15日、日本プロレス界の大スターである力道山が急逝すると、翌日の仮通夜で豊登、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明の4人による合議制で日本プロレスは運営されることが発表された。この早急な人事には日本プロレスを中継していた日本テレビやスポンサーで三菱電機の大久保謙、日本プロレス協会の会長だった児玉誉士夫、副会長の山口組三代目の田岡一雄、東声会の町井久之の意向が大きく反映されていた。

大久保氏は当時の三菱電機の宣伝部長で、日本テレビを通じて日本プロレスのスポンサーとなり、児玉誉士夫は政財界に顔が利く右翼の大物、田岡は神戸芸能社で興行に携わり、町井は在日朝鮮人で同じ在日だった力道山とも親交があり、この頃には田岡の舎弟となっていた。田岡の神戸芸能社は日本全国の興行を取り仕切り、力道山も田岡の力を借りなければ興行は打てず、また山口組にとってもプロレスは大きな資金源となっていた。

日本プロレスと児玉、田岡の”裏社会”との関係を取り持っていたのは当時の自民党副総裁で日本プロレスコミッショナーの大野伴睦だった。大野は内務省上がり(戦前の日本の行政機関のひとつ。地方行財政、警察、土木、衛生、国家神道などの国内行政の大半を担ったが、戦後となるとGHQの勧告で廃止に)で警察関係にも顔が広く、日本テレビの社長だった正力松太郎も内務省上がりで大野とも繋がりがあり、大野は児玉や田岡とも繋がりがあって、日本プロレスは政財界や裏社会の威光が大きく働いていたが、この当時は政財界と裏社会は密接な関係を築いている時代でもあった。

早急に新体制を発足させた理由は、力道山の死去で「これで日本のプロレスが終わった!」と声が飛び交ったことで、”日本テレビが中止を検討”、また”三菱電機もスポンサーから降りる”噂が飛び交い、全国でプロレス興行を手掛けていた暴力団らも「今後はオレたちの統制の元でプロレス興行を仕切ろう」など申し合わせを勝手に行うなど混乱しようとしていた。日本テレビも三菱電機もプロレス中継は視聴率を稼げるコンテンツでもあり、田岡にとっても大事な収入源でもあったことから、日本プロレスを潰す意味は毛頭なく、早急に新体制を発足させてこれらの混乱の収拾にあたらせようとしていた。

新体制を引き受けた4人はプロレス興行や力道山が手広く事業をやっていることから、誰もが日本プロレスは儲かっており、力道山抜きでも継続出来ると思っていた。しかし、いざ蓋を開けてみると日本プロレスの興行は黒字でも、事業である「リキエンタープライズ」は莫大な負債を抱えていたことが明らかになる。力道山はアパートやゴルフ場など様々な事業も手掛けていたが、それは全て借金で賄われており、抱えた事業をまた抵当にして借金するなど自転車操業の状態となっていたのが実情で、力道山は見栄のためか莫大な負債を抱えていることは周囲に明かすことはなかった。

力道山の葬儀が終わった12月30日、リキパレスで追悼大会の後で外国人ブッカーを務めていたグレート東郷を解任する。理由は経費削減で東郷は自身の人脈でルー・テーズなど大物をブッキングしてきたが、ブッキング料が破格だったこともあり、力道山が死去後も新体制の足元を見て、これまで以上のブッキング料をせしめてくると懸念していたからだった。東郷も力道山は大事なビジネスパートナーで、力道山も外国人ブッカーとしての手腕は高く評価して、仕事に似合うだけの仲介料を支払ってきたことから、力道山でしか東郷をコントロールすることが出来ない片腕的な存在となっており、4人にとっても目の上のたんこぶだった。新体制の仕打ちに怒った東郷は力道山に立て替えた分と、自身の貰い分として5000万ドルの清算を要求し、日本プロレスも手切れ金として支払ったが、東郷の怒りは収まらず、1月から参戦する予定だった外国人選手の来日をストップさせるなど報復処置に出た。日本プロレスはレフェリーの沖識名をとりあえず外国人ブッカーに据えて急場を凌いだが、東郷ほどの大物は呼べなかった。

年を明けた1964年1月に百田敬子未亡人を社長にした新体制が正式に発足したが、敬子さんはプロレス業界だけでなく経営にも疎いため、実質上は豊登、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明の4人による合議制で日本プロレスは運営を任されることになり、力道山に次いで人気のあった豊登が団体のエースとなった。敬子未亡人が社長に就任した理由は、表面上は力道山家が関わっている風に見せかけないと、日本テレビと三菱電機との契約継続が難しかったからだった。また外国人招聘ルートも沖に変わって、東郷と同じロスサンゼルスで活躍している日系レスラーであるミスター・モトの外国人ブッカー就任を依頼する、東郷はビジネスを優先したやり方だったが、モトは人の好さもあって日本プロレスに対して好意的だったこともあり、またロスをテリトリーに持つWWAではブッカーを務めていた。

そして新体制発足と同時に4人は「日本プロ・レスリング興業株式会社」を別途設立して、放映権料とスポンサー料は「日本プロ・レスリング興業株式会社」が全て独占するように仕組んだ。つまり新体制の作った別会社が日本プロレスの利益を全てを独占し、敬子未亡人の日本プロレスに「リキエンタープライズ」の負債を全て背負わせたのだ。このままでは日本プロレスが日本テレビの放映権料や三菱電機のスポンサー料、興行収益があったとしても、「リキエンタープライズ」によって食いつぶされる。日本プロレスの看板さえあれば、力道山を受け継いでいるということで、日本テレビや三菱電機を納得させることが出来ると考えたからだった。4人にして日本プロレスを守るための措置だったが、切り離された力道山家はさぞかし頭に来ていたと思う。日本プロレスは”2つ”あったことは崩壊するまで公になることはなかった。

1964年にアメリカ武者修行に出ていたジャイアント馬場が凱旋帰国を果たした。馬場の帰国に際しては、馬場を好きでなかった豊登は乗り気でなかったものの、豊登の一枚看板では不安があると考えた日本テレビ側の意向が強く反映された。早速アメリカに遠藤を派遣して馬場に帰国を要請、馬場も帰国に気持ちを傾けていたが、東郷は日本プロレスへの報復の意味もあって「力道山死後の日プロは先行きが怪しい、高額の年俸を保障するのでアメリカに定住するように」と馬場を引き留めようとする。この頃の馬場は東郷のマネージメントでアメリカ各地に転戦し押しも押されぬ大スターとなっていたが、東郷に対して不信感を抱いていたことから距離を取り、東郷からのマネージメントを受けずに独自でオファーを受けて活動していた。馬場もアメリカには未練はあるもののアメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ていることから、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになったときのことを考え、東郷からの引き留めを断って帰国を選択、こうして日本プロレスは豊登、馬場に二枚看板という大きな土台を作り上げた。

負債問題はも片付き、馬場も帰国することで、新体制もようやく軌道に乗ったかに見えたが、新たな難題が起こった。1964年1月から病気で入院していた大野が5月に急逝する。1964年に東京オリンピックが開催されることで、警視庁は抗争を繰り広げる暴力団を一斉に取り締まる”頂上作戦”を始めており、全国各地の暴力団が取り締まりの対象にされて解散に追いやられていた。山口組は大野のおかげで取り締まりから免れていたものの、大野が亡くなったことを契機に警視庁は標的を山口組に定め、解散に追いやろうとしており、日本プロレスが暴力団の資金源になっているということで、日本プロレスも解散に追いやろうとしていた。

大野が死去したことで空席となった日本プロレスコミッショナーに川島正次郎が就任、川島は大野同様プロレスファンであり、大野と同じ内務省出身で池田勇人、佐藤栄作を総理に押し上げたことで自民党のNo,2的な存在となっており、この頃には大野が亡き後に自民党副総裁となっていた。そして日本プロレス協会の人事が刷新され、人事刷新を発表して児玉、田岡、町井を任期満了として辞任し、馬場も監査役として役員に就任した。これは警視庁の暴力団追放条例に基づいたもので、後任の新会長には元衆議院議員で平井義一が就任したが、新人事もおそらく川島の意向が働いたと見ていいだろう。

これで日本プロレスは裏社会とはほぼ縁が切れたわけだが、これに納得しなかったのは町井の東声会だった。12月4日に豊登がザ・デストロイヤーの保持するWWA世界ヘビー王座に挑戦して王座を奪取に成功、2月26日の東京体育館でベルトを賭けて再戦が行われることになった。、新外国人ブッカーに就任したモトは東郷ほど大物が呼べないのではと言われていたが、デストロイヤーだけでなく、次期NWA世界ヘビー級王者候補と言われたジン・キニスキーを招聘するなど、そうした部分は徐々に解消されつつあった。そして選手権当日に町井退任に不満を持つ東声会の組員1300人が入場しようとしてするのを、警視庁から派遣された機動隊員らが拳銃を携帯して阻止しようとしていたことから、発砲沙汰になるのではと懸念していた。試合は60分フルタイムとなって豊登が防衛し、懸念された発砲沙汰が起こらなかった。そして東声会は1966年に警視庁によって解散に追いやられる。

これを契機に日本プロレスは裏社会との関わりを一応絶ったが、その代わりに裏社会が買っていた売り興行が激減し、日程もスカスカになるなど、日本プロレスも損害を被ったが、豊登vsデストロイヤー戦の後でで百田敬子未亡人が社長から退任して、豊登が社長に就任、こうして力道山家と日本プロレスは切り離され、豊登を中心とした新体制が軌道に乗ることが出来た。(続く)

(参考資料 GスピリッツVol.31 「特集・日本プロレス」ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.3 「年末年始の大波乱」Vol.12「団体の誕生 消滅 再生」日本スポーツ出版社「プロレス醜聞100連発」)

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