1989年11月、平成最初の世界最強タッグ決定リーグ戦が開幕した。
<出場チーム>
天龍源一郎&スタン・ハンセン
ジャンボ鶴田&谷津嘉章
ジャイアント馬場&ラッシャー木村
アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン
ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スムス(ブリティッシュブルドックス)
ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット(カンナム・エキスプレス)
テリー・ゴーディ&ビル・アーウィン
川田利明&サムソン冬木(フットルース)
ザ・グレート・カブキ&高野俊二
ブライアン・ノッブス&ジェリー・セガノビッチ(ナスティ・ボーイズ)
世界タッグ王座を奪取した天龍&ハンセン組を筆頭に10チームが参戦、天龍&ハンセンはこの年の7月から龍艦砲を結成していたが、天龍は昨年は川田と組んで最強タッグにエントリーしていたが、優勝を狙うには川田では力量不足、ハンセンはゴーディとのタッグで前年度の最強タッグを優勝していたが、ゴーディはハンセンのパートナーの座から卒業して一本立したため、互いにパートナーが不在、天龍にしてみれば”パートナーがいないもの同士が組まされた”タッグだった。結成当初はギクシャクして噛み合わず、いつ仲間割れしてもおかしくなかったが、次第に噛み合いだし、前シリーズのジャイアントシリーズでは鶴田&谷津から世界タッグ王座を奪取、前年度から採用された最強タッグ前に世界タッグ王座を返上するというルールに従って、世界タッグ王座を返上してリーグ戦に臨んだ。
前年度からは鶴田&谷津、馬場&木村、ブッチャー&シンがエントリーしたが、谷津がジャイアントシリーズ中に右顔面末梢神経麻痺で欠場し、まだ十分に完治していないままリーグ戦に臨んでいた。この年から全日本に定着していたブルドックスが4年ぶりにエントリーを果たしていたものの、キッドの衰えが顕著に出始めていた影響でキッドとスミスの力関係が逆転し始めており、二人の関係に亀裂が生じていたという。
ハンセンから一本立ちしたゴーディのパートナーには、ゴーディと同じく次期外国人選手のトップとして売り出そうとしていたダニー・スパイビーを予定していたものの、スパイビーはWCWに参戦していたため来日が出来ず、代わりに中堅のビル・アーウィンを起用せざる得ず、アジアタッグ戦線からは前年に天龍と組んで活躍した川田はアジアタッグ王座を保持していたこともあって冬木と組み、この年から結成されたクロファット&ファーナスのカンナム・エキスプレス、ベテランのカブキは高野、そして初来日のナスティ・ボーイズがエントリーを果たした。
11月17日の大阪府立体育会館から開幕し、天龍&ハンセンはブルドックスと対戦して、ハンセンがウエスタンラリアットでキッドを降して白星発進、鶴田&谷津は谷津がヘッドギアを着用という手負いの状態だったものの、鶴田がシンをバックドロップで下し勝利で白星発進する。その後も天龍&ハンセンはゴーディ&アーウィン、カンナムを降し、ブッチャー&シンとの公式戦ではブッチャー&シンが同士討ちした隙を突いた天龍がシンにラリアットを決め3カウントを奪い勝利も、試合後にブッチャーとシンは仲間割れとなり、二人はリーグ戦は完走したものの仲間割れを繰り返したことで脱落となってしまった。
しかし、鶴田&谷津も天龍&ハンセンを追走するかのように無敗を堅守、リーグ戦も山場となる29日の札幌大会では、鶴田&谷津はカンナムを降し、メインは天龍&ハンセンは馬場&木村の義兄弟コンビと対戦した。
大会当日は当時マット界で一大ムーブメントを起こしていた新生UWFが東京ドーム大会を開催し、誰もがUWFドーム大会に注目していた。天龍は大会当日は「別にUWFがあるからって気にはしてないよ、オレとしたら、見に来てくれた人に面白いなあと、思わせたいだけだよ」といたって落ち着いていたが、UWFに対して天龍は当時トレンドとして扱われていたUWFを常に意識しており、「UWFが月イチの試合で却ってもてはやされるのなら、天龍同盟は体が壊れるようなファイトを毎日やって、プロレスの凄さを見せ付けようじゃないか」と訴え、メインの6人タッグ戦では20分を超える熱い戦いを繰り広げていた。UWFの東京ドーム大会が近くなると天龍は”UWFは東京ドームで何億っていう興行をやって、サウナでリフレッシュしている頃なのに、俺たちは雪の中をバスで来て、試合をやって、これも人生だな」と思っていた。いざ会場へ到着しても取材に来るマスコミはUWFに集中してか数が少ない、”よし、来てないマスコミと客に後悔させてやる”その思いが天龍の反骨精神に火を着けた。
馬場&木村の義兄弟コンビが後入場だったが、先にリングに上がっていた天龍はリングインしようとする馬場にトペスイシーダで奇襲をかけ、まさかの奇襲を受けた馬場はダウンしてしまい、そのまま試合開始となる。
馬場がダウンしている間は、普段マイクパフォーマンスで楽しいプロレスをやっていた木村が鬼気迫るように孤軍奮闘し、馬場が回復するまで懸命に時間を稼ぐも、さすがに天龍&ハンセン相手に押され出し窮地に立たされる。
やっと馬場が回復して自軍のコーナーに戻り、木村から交代を受けると、馬場はエンジンを全開させ、天龍&ハンセンに脳天チョップを乱打して16文キックを放ち、天龍にヤシの実割りを連発してから、大試合用の必殺技であるランニングネックブリーカードロップ、ジャイアントコブラツイストを決めるも、タッチしようとしていた木村が戦線離脱に追いやられて自軍のコーナーにいないことで、今度は馬場が孤軍奮闘を強いられてしまった。


馬場が天龍、ハンセンのエルボードロップの連続攻撃を食らってしまうと、天龍&ハンセンは合体パワーボムを決め、ハンセンがエルボードロップを狙ったところで、やっと息を吹き返した木村が足を引っ張り阻止も、ハンセンはウエスタンラリアットを浴びせ、木村は完全KOされてしまう。


館内は馬場コール一色となり、懸命に粘る馬場はハンセンのウエスタンラリアットは避けて場外へ追いやり、天龍のパワーボムをリバーススープレックスで返すも、ひっくり返した天龍はパワーボムを決めて3カウントを奪い、鶴田さえ成し遂げていなかった馬場からの直接フォールと言う偉業を達成してしまった。
バックステージに戻った天龍だったが、引き上げる最中に「そんなんで勝って嬉しいのかよ」「お前なんか、来なくていいよ!」と馬場に勝った天龍にファンが怒りの野次を飛ばしたという、バックステージでは天龍は「今日のこの勝ちは東京ドームより重い」と明言を残したが、「ジャイアント馬場のまんべんなく広がったファン層を感じたお客がこれまでの全日本はタテ社会のように見られてきた。そこで…ちょっと全日本じゃないような感じになっちゃたからね、『とんでもないことをした』と思っている。」と明かした。馬場からのフォールはまさにUWFに対する反骨精神から生まれた偉業だけでなく、鶴田より先に全日本の象徴である馬場を破ってしまった。だが、その象徴である馬場を破った天龍に怒りをぶつけるファンもいた。天龍にとって馬場に勝つことはUWFより重いものだったのかもしれない。
その後リーグ戦は鶴田&谷津、天龍&ハンセンが無敗のまま12月6日の武道館大会で最終戦を迎え、両チームによる直接対決で優勝を争われることになったが、試合はハンセンが試合中に流血し、鶴田も手負いの谷津を懸命にフォローするが、4選手が乱戦になったところでハンセンが谷津にウエスタンラリアットを炸裂させて3カウントを奪い、残りあと1分3秒で勝利を収め、全勝優勝という偉業も達成した。
1990年に入ると天龍は「これからはオレが全日本を背負っていかなければいけない」と気負い、後楽園ホールが超満員が続くも、選手らから「別に天龍らのおかげでこうなったわけでない」とに反発が起き、馬場も天龍らに反発する声も無視できなくなったのか、天龍を通さずカードを決めることが多くなり、気負う天龍と全日本の方向性にズレが生じ始める。今思えば「全日本プロレスは天龍ではない、あくまでジャイアント馬場」であり、天龍が馬場からフォールを奪っても、全日本の象徴はあくまで馬場であるという現れが、天龍への反発から起きていたのかもしれない。
天龍自身も全日本で頂点を極めてしまったことから焦燥感にかられるようになり、翌年にハンセンとのコンビも解消した天龍は全日本プロレスを退団してSWSへ移籍、SWSの分裂後はWARを旗揚げすると新日本プロレスと提携して、新日本のリングにも参戦、1994年1月4日にはアントニオ猪木と対戦したパワーボムで3カウントを奪い、天龍は「B・I双方からンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラー」として日本プロレス界に名を轟かせた。

(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス激闘60年史、竹書房 「完本 天龍源一郎)」
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