世界最強タッグ事件史 天龍のパートナーに大抜擢された川田利明


1987年8月21日、宮城県スポーツセンターで行われた全日本プロレス「サマーアクションシリーズ2」開幕戦で、ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキvs天龍源一郎&阿修羅・原とのタッグマッチで、試合前にカブキが天龍に毒霧を噴射して戦闘不能に陥ってしまうハプニングが起きてしまう。
 そこでセコンドに着いていた川田利明が突然鶴田に殴り掛かると、花道の奥で見ていたサムソン冬木が駆けつけて鶴田に加勢、そのまま鶴田&カブキ&冬木vs天龍&原&川田の6人タッグマッチへと突入してしまった。

川田はレスリングの強豪が揃う足利工業大学附属高等学校出身で一年先輩に三沢光晴がいたが、三沢が全日本プロレスに入門すると、川田も卒業後に後を追うように全日本に入門、川田が入門した当時の全日本はブッカーである佐藤昭雄の方針もあって若手の層も厚くなり、三沢だけでなく越中詩郎、同期の後藤政二(ターザン後藤)、国際プロレスから移籍した冬木弘道(サムソン冬木)、菅原伸儀(アポロ菅原)、またその上には中堅でロッキー羽田、百田義浩、百田光雄が若手らに立ちはだかるなど陣容は厚くなっており、川田の入り込める余地はなく、10月に冬木相手にデビューを果たすも、なかなか初勝利に恵まれることはなく、1984年1月に後藤に勝つまで205連敗を喫し、川田以降若手がデビューしなかったこともあって、1985年9月に小川良成がデビューするまでは、川田は全日本で一番下の立場にいた。 

1984年に三沢が越中と共に武者修行に出されるが、三沢はすぐ2代目タイガーマスクとして帰国すると、三沢がキックをマスターするために川田が練習パートナーに指名され、三沢は士道館館長の添野義二の元でキックの指導を受けるも、川田は練習台になりつつ技術を盗みローリングソバットをマスター、また三沢との練習でルチャ的なテクニックを学んでムーンサルトアタックやプランチャもマスターするなど試合の幅が広くなり、次第に2代目タイガーとのタッグでTVマッチにも登場するようになっていった。

1985年に川田も冬木と一緒に海外武者修行に出され、冬木とのタッグ「ジャパニーズ・フォース」でテキサス州サンアントニオで活躍、1986年12月に凱旋帰国したものの、当時の全日本は長州力率いるジャパンプロレスとの抗争や、輪島大士のデビューもあって川田は注目されることもなく、また選手層も飽和状態だったこともあって、凱旋してもポジションは前座のままで留め置かれていた。川田は「1年1か月の海外修行から戻っても位置が変わらなかった。もう24歳だし、ここで目立たなきゃダメだ」と危機感を抱いていたという。

その燻っていた川田が行動を起こし天龍同盟に加わったのだが、長州らが新日本へUターンした後で、原と共に行動を起こして反体制側に立っていた天龍や天龍同盟に魅力を持っており、「天龍さんと原さんは本隊と別行動だったじゃないですか。バスに乗れば楽なのに、わざわざ電車で移動して、毎日試合をしている相手とは絶対に「なあなあ」にはならなかった」と刺激を受けた。

当初は天龍の付き人だった冬木が天龍同盟入りすると思われており、冬木もそのつもりで花道奥でスタンバイしていた。ところがセコンドにいた川田がフライングで天龍同盟入りをしてしまったことで、出遅れてしまった冬木は正規軍側に立たざる得なくなってしまった。試合はまだこの当時は鶴田と川田の差が歴然としていたこともあって川田は鶴田のバックドロップを食らってフォール負けを喫し、天龍と一緒に控室へ戻ったが、天龍は鶴田やカブキに筋を通させようとしたのか「詫びを入れて、今日は向こうに帰れ」と指示し、川田も天龍に頭を下げて正規軍側の控室に戻ったが、カブキは「何しに来た!」と叩きだされるどころか、荷物まで放り出され、それでも川田は詫びを入れようとしたが、温厚だった鶴田にも殴られたことで、川田はキレて歯向かってしまい、天龍の控室に戻ってそのまま天龍同盟入りを果たしたが、天龍はあくまで川田を弟子ではなく仲間として扱い、冬木も川田との対戦を経て原の仲介で天龍同盟に合流、天龍同盟は一大勢力へと拡大する。

「誰もがやっているような、飛んだり跳ねたりのファイトをオレがやっても面白くない」と、天龍同盟入りしてからの川田は三沢から学んだルチャのスタイルを捨て、自分の個性にこだわり始め、当時はUWFがムーブメントを博していたこともあって、UWFの象徴と言われたレガースを着用、当時若手でスーパー・タイガージム所属だった北原辰巳(北原光騎)から始動を受けてキックをマスターし、自身のスタイルを作り上げていった。

 天龍同盟入りを果たした川田は冬木とのタッグ”フットルース”を結成、マイティ井上&石川敬士組からアジアタッグ王座を奪取、アジアタッグ戦線は以降はフットルースを中心に高野俊二&仲野信市、ダグ・ファーナス&ダニー・クロファットのカンナム・エキスプレスら次世代のタッグ屋中心に回り出し若返りに成功する。

その川田に大きなチャンスが舞い込んできた。1988年11月に世界最強タッグ決定リーグ戦開幕直前で、天龍と組んでエントリーする予定だった原が失踪してそのまま解雇されてしまう。開幕戦前日に馬場は天龍に「明日からパートナーどうする?」と聴かれると、馬場はキャリアや天龍と親しい仲を考えて冬木を起用するかと思ったが、天龍は「川田でいいですよ」と答えた。天龍は川田を抜擢した理由は”自分と全然違うタイプのほうが面白い”と考えてのことで、馬場は直前まで天龍のパートナーが変更になることは川田本人だけでなくマスコミにも伏せ、川田本人も会場に来てパンフレットで対戦カードを見て初めて知った。

開幕戦ではアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン組と対戦して、川田が敗れて黒星スタートなるも、「どうやってついていこうか必死だった」と答えていた通り、優勝戦線には何とか食い込み、12月10日の札幌大会でのジャンボ鶴田&谷津嘉章の五輪コンビとの公式戦では川田が谷津の監獄固めを長時間受け続けたことで足が破壊寸前にまで追いつめられるも、場外戦で試合権利のある鶴田と天龍が乱闘となると、川田がコーナー最上段からのダイビング・ボディアタックからプランチャーで天龍を援護、天龍が谷津と共にリングに戻ると、リングに戻ろうとする鶴田を川田が押さえて離さず、鶴田がそのままリングアウト負けにするという大殊勲を挙げる。

スタン・ハンセン&テリー・ゴーディとジャイアント馬場&ラッシャー木村が15点、鶴田&谷津、ブッチャー&シン、天龍&川田が14点の5チームが優勝の可能性を残したまま最終戦の12月16日武道館に臨んだが、馬場&木村組は全公式戦を終えており、鶴田&谷津は最終戦でブッチャー&シンをリングアウトで降し16点とトップに立ち、この時点で馬場&木村組も脱落する。ハンセン&ゴーディ組との公式戦を残していた天龍&川田組は、仮にハンセン&ゴーディに勝っても鶴田&谷津組と同点となって優勝決定戦になることから、厳しい状況に立たされていた。

武道館のメインとなったハンセン&ゴーディvs天龍&川田は武道館大会のメインに組まれたが、川田は谷津の監獄固めを受けた影響で足を負傷しており、ハンセン&ゴーディ組は川田の足を集中攻撃して試合をリードする。川田は反撃して天龍に交代するが、そのまま戦線離脱してしまい、孤立した天龍がハンセン&ゴーディ組に立ち向かっていくも、ゴーディのパワーボム、ハンセンのウエスタンラリアットを立て続けに食らった天龍が力尽きてしまい3カウントを奪われ、ハンセン&ゴーディ組が優勝を果たしたが、川田の今後の飛躍のきっかけを作った。

後年に川田は「『同じ武道館でもメインはこんなに違うのか』って。入場時に自分まで心が躍る高揚感は初めてだった。メインでやってる人たちは、この気持ちを味わっていたのか」と語っていたことから、川田にとって武道館のメインに初めて立てたことに大きな実感を沸いていたのかもしれない。

川田は冬木と共に天龍を支え、天龍同盟を盛り立て、1989年7月から開催された中堅・若手を対象にしたリーグ戦「あすなろ杯」にも優勝、10月8日後楽園では天龍とのシングルでの対戦も実現、天龍のパワーボムの前にに敗れた。この年の最強タッグは天龍はハンセンと組んでいたため、川田は冬木とのフットルースでエントリーし、優勝戦線に加わることが出来なかったが、天龍&ハンセン組との対戦も実現し、川田がハンセンのウエスタンラリアットの前に敗れた。

 1990年3月に天龍が全日本を退団してSWSへ移籍、冬木が追随したことで川田も追随するかと思われたが、天龍が退団してしばらくして馬場に呼ばれ、三沢や小橋健太、田上明と一緒に馬場に会った川田は馬場から「これからはお前たち、若い人間に頑張って欲しい」と声を掛けられた。川田は馬場の付き人を務めたことがあったが、馬場は神経質な川田より、お調子者の大仁田厚や、一生懸命ながらもおっちょこちょいな小橋を”ダメな子ほど可愛い”と可愛がっていたこともあって、川田は馬場から可愛がられていなかった。しかしその馬場から必要とされたことを喜んだ川田は全日本に残留を決意、後に三沢とのタッグ、また田上とのタッグで全日本を盛り立てていった。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.27「反逆・決起の時」)

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