死闘!超世代軍vs鶴明砲、三沢が鶴田からギブアップを奪った夏!


1990年6月8日、全日本プロレス日本武道館大会でジャンボ鶴田を破る偉業を成し遂げた三沢光晴は川田利明、田上明、小橋健太(小橋建太)、菊地毅と共に超世代軍を結成、天龍源一郎退団後の全日本プロレスは鶴田、谷津嘉章、ザ・グレート・カブキ、渕正信率いる鶴田軍との世代闘争や、スタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムス、ダニー・スパイビーの外国人四天王との三つ巴の抗争になるかと思われていた。

ところが7月に谷津、8月にカブキが退団してSWSへ移籍する事態が起きてしまうと、超世代軍にいた田上が鶴田軍に移って再編成され、鶴田の正パートナー田上が抜擢されたが、この頃の田上は突然鶴田軍に組み入れられた影響か、谷津やカブキと比べてもたついた印象を与えており、また鶴田と田上の差はまだまだ歴然としていてタッグチームとしてのバランスはまだまだ十分に整っていなかった。

田上の抜けた三沢率いる超世代軍も、鶴田だけでなくハンセン率いる外国人四天王の壁が大きく立ちはだかり、7月27日の千葉ではハンセンの保持していた三冠統一ヘビー級選手権に三沢が初挑戦したものの、ハンセンのウエスタンラリアットの前に完敗を喫し、9月1日武道館で行われた三冠挑戦をかけた鶴田との再戦でも鶴田のバックドロップの前に敗れ、この年の最強タッグ決定リーグ戦でも三沢&川田、鶴田&田上も優勝争いに食い込めず脱落するなど、三沢だけでなく川田、田上もトップの厚い壁の前に足踏み状態が続いていた。

1991年に入ると、1月19日の松本で鶴田がハンセンを降して三冠王座を奪取、2月26日の仙台では三沢&川田がゴーディ&ウイリアムスの保持する世界タッグ王座に挑戦したが、試合中に三沢がゴーディのパワーボムを通路で食らってしまってKOされてしまうと、孤立した川田がウイリアムスのラリアットの前に力尽きて3カウントを喫し王座奪取に失敗、三沢も4月18日の武道館で鶴田の保持する三冠王座に挑戦したものの、鶴田のバックドロップの連発の前に完敗を喫し王座戦線からも大きく後退して、再び鶴田時代の到来かと思われていたが、5月17日の後楽園大会では三沢は新技フェースロックを披露して渕からギブアップを奪い、6月1日の武道館ではゴーディとのシングルマッチでランニングエルボーで3カウントを奪うなど着実に力をつけていた。

そして7月24日の金沢大会では三沢&川田組はゴーディ&ウイリアムス組の保持する世界タッグ王座に再挑戦しゴーディが必殺のパワーボムを狙った際に三沢はウラカンラナで切り返して逆転3カウントを奪い、念願だった世界タッグ王座を奪取するが、試合中に三沢はウイリアムスにダイビングエルボーアタックを放った際に右肩を負傷してしまう。

そしてシリーズ最終戦である26日の松戸大会で鶴田軍と対戦した際に、鶴田が川田を場外でのバックドロップでKOしただけでなく、三沢にもバックドロップ3連発を決めて3カウントを奪い、この実績を盾にして田上とのタッグで世界タッグ王座挑戦を表明、シリーズを終えた三沢は痛めた右肩を診察してもらうも亜脱臼しており、充分に完治していないまま次期シリーズである「91サマーアクションシリーズ2」に臨まなければいけなかった。この頃の三沢は体格のハンデをもろともせず、鶴田やハンセンなど大型外国人選手と対戦していたが、その分ケガも多く、”ガラスのエース”とも皮肉られていたものの、それに構わず立ち向かっていくことでファンから好感を呼び、この時代での超世代軍人気を呼んでいた。

9月4日の武道館大会で鶴田&田上の鶴明砲との防衛戦となったが、痛めている右肩は充分に完治せず、三沢自身も周囲に「いてーよ」と弱音を吐くなど最悪の状態のままで選手権を迎えた。

序盤から川田から交代を受けた三沢は田上にキックの連打からランニングエルボーを浴びせると、場外で川田がボディースラムで投げるなど早速田上を捕らえにかかるが、代わった鶴田にも三沢はエルボーからドロップキックを放っていく、しかし代わった川田が鶴田にニーリフトの連打からジャンボラリアットを浴びせると、失速した川田に代わった田上がフェースクラッシャーと攻めるなど、鶴明砲が川田を捕らえてリードを奪う。
鶴田は拷問コブラツイストで徹底的に搾り上げ、たまりかねた三沢はエルボーでカットも、交代した田上もコブラツイストで続き、トップロープへのギロチンホイップから、代わった鶴田がスリーパーで絞めあげるなど、川田を追い込んでいくが、川田は交代した田上にスピンキックを浴びせてから三沢に代わり、三沢はコーナーからダイビングエルボーを発射、しかし代わった鶴田は三沢の右腕にショルダーアームブリーカーで痛めている右肩攻めに出て、コーナーに三沢を振って、急停止する三沢の後頭部にジャンボラリアットを浴びせていく。
今度は鶴明砲は三沢を捕らえにかかり、場外戦でも鶴田が三沢の右肩から鉄柵に叩きつけ、それでも三沢はエルボーで抵抗するが、鶴田は腕十字で捕えて三沢の右肩を徹底的に攻める。
鶴田はブレーンバスターを狙うが、三沢は背後に着地してDDTで反撃すると、川田に代わるが、三沢は戦線を離脱、川田は鶴田にラリアットからステップキックを連打、串刺しジャンピングハイキックと攻め込むが、鶴田はキチンシンク一発で流れを変えてしまう。それでも川田は孤軍奮闘して踏みとどまり、その間に三沢は菊地毅や寺西勇によって右肩にテーピングを巻くなど応急処置を施す。
しかし、川田が押され出して攻め込まれると、田上がサソリ固めで捕らえるが、戦線に復帰した三沢がカットに入り、テーピングが巻かれた右肩でエルボーを連発。川田から交代を受けた三沢は剥がれたテーピングを投げ捨て、川田との連係で田上を捕らえ、突進する田上にタイガードライバーを決めるも、鶴田がカットする。
代わった鶴田はジャンボラリアットを連発してから拷問コブラで三沢の右肩を狙い、川田がカットに入っても鶴田はジャンボラリアットで返り討ちにする。田上の援護を得た鶴田は三沢の右肩に腕固めで捕らえてからバックドロップ狙いは川田がカットも、田上とのハイジャックラリアットを決めると、田上のバックフリップ、鶴田のショルダーアームブリーカーからバックドロップが決まるも、三沢はカウント2でキックアウトする。
鶴田は再びバックドロップを狙うが、三沢が体を浴びせて倒してからランニングエルボーを浴びせ、フェースロックで捕獲、田上がカットに入っても川田が場外へ排除する。
三沢のフェースロックで意識朦朧となった鶴田に、三沢はコーナーへ昇るが、起き上がった鶴田は雪崩式ブレーンバスターで投げてからパワーボムも、三沢がキックアウトした瞬間に川田が背後から鶴田に後頭部ラリアットを浴びせ、川田の激で蘇生した三沢は突進する鶴田にバックを奪ってからジャーマンスープレックスホールド、そしてフェースロックで捕らえ、田上がカットに入っても川田が胴絞めスリーパーでセーブ、そして鶴田がギブアップとなり、三沢&川田組が逆転防衛だけでなく、これまで日本人相手にギブアップをしたことがなかった鶴田からギブアップを奪うという偉業も達成した。

試合後に三沢は「当然、3カウントを奪うより、ギブアップのほうが気持ちいいよ、あそこでマイッタしてくれて助かったよ。向こうがギブアップしたのは、オレはわからなかった。手で叩いた瞬間、感触があったけど」と答えていた。三沢は鶴田から初勝利を収めたときは丸め込みだったこともあって、キチンとした勝利とは言えなかった。しかしタッグとはいえ三沢は鶴田からギブアップを奪えた、この時ほど三沢は鶴田に勝ったという実感が沸いたではないだろうか…

三沢が鶴田からギブアップを奪ったことで鶴田の実力低下が懸念されたが、鶴田はますます危機感を増し、10月14日の大阪大会では鶴田のエルボーで三沢の鼻骨が骨折、15日の後楽園では三沢は馬場の欠場勧告を振り切って強行出場したが、鶴田軍が三沢の鼻を狙い撃ちにして徹底的に痛めつけ、三沢は翌日から欠場を余儀なくされ、三冠王座への挑戦者には三沢ではなく川田が抜擢され、三沢の三冠奪取は鶴田からギブアップを奪ってから1年後の9月まで待たなければならなかった。

余談になるが、8月25日に三重・上野勤労者体育センターにて全日本が開催されて、先着100名に三沢、川田の記念撮影会が行われて、世界タッグベルトを肩に任せてもらった。今でもベルトがこんなに重いものなんだと実感させれたが、いい思い出となっている。
(参考資料=双葉社 市瀬英俊著「夜の虹をかける」)

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