1978年、新日本プロレスのアントニオ猪木がプロレスラーの実力日本一を決定する日本選手権大会に向けた前段階として、新日本所属選手およびフリーの日本人選手による『プレ日本選手権』の開催を発表した。
猪木は新日本プロレス旗揚げからプロレスラーの実力日本一を決定する日本選手権大会の構想を掲げて、全日本プロレスのジャイアント馬場への対戦をアピールしていたが、1975年11月の全日本プロレス「オープン選手権」における馬場の仕掛けた3重の罠の前に猪木は煮え湯を飲まされたことによってvs馬場どころか実力日本一もトーンダウンしていたが、フロリダマットで活躍しているヒロ・マツダが馬場と猪木に対戦を表明して日本選手権開催を訴えた。
マツダは1957年に日本プロレスに入門するが、デビュー戦で急遽道場破りにきた空手家を相手にすることになって勝った際に「なぜ時間をかけて相手にも見せ場を作らせず、客を楽しめることが試合が出来なかったんだ!」と力道山から制裁されたことをきっかけに、力道山へ反発し日本プロレスから飛び出して海外へ旅立ち、アメリカでカール・ゴッチの指導を受けてからトップスター選手となり、1966年に力道山死去後に凱旋帰国、その後に吉原功氏の誘いを受けて国際プロレスにエースとして参加するが、社長となった吉原氏と負債処理を巡ってトラブルとなって国際プロレスを離脱、以降はフリーとして日本プロレスや全日本プロレスに参戦していたが、主戦場はあくまでアメリカに置いていた。
1970年代のマツダは現役としては一歩引いておりフロリダマットではブッカーを務めていた。フロリダはNWAの中でも最も繁栄していたテリトリーで、新日本と提携していたWWFとも提携して友好関係を築いており、またプロモーターでNWA会長にもなったエディ・グラハムも元レスラーでマツダと何度も対戦して渡り合うなど、長年に渡って信頼関係を築き、グラハムにとっても片腕的存在でとなっていたが、グラハムがゴッチを嫌っていたこともあって、マツダとゴッチの間も亀裂が生じて折り合いが悪くなっていった。
グラハムも新日本がまだNWAに加盟申請していなかったこともあって、日本で唯一NWAに加盟していた全日本との関係を重視してきたが、新日本もやっと加盟申請を果たしたのを契機にWWFのビンス・マクマホン・シニアを通じて新日本に接近し始め、マツダの仲介もあって提携先を全日本から新日本に乗り換えた。マツダは猪木の武者修行時代にタッグを組んでいたこともあって、気心が知れていただけでなく、新日本もこれまで外国人ブッカーを務めていたゴッチを外して、フロリダマットで重役となっていたマツダに乗り換えたい意図もあった。
7月29日にマツダと猪木による直接会談が実現し、猪木は12月に「プレ日本選手権」を開催することで合意に達し、門出を開くということでフリーの選手や全日本、国際プロレスの他団体にも参加を呼びかけた。ところが新日本主導の「プレ日本選手権」に対して、国際プロレスは吉原功プロレス生活25周年として「日本リーグ争覇戦」の開催を発表、提携していた全日本プロレスも協力することになり、全日本からはジャンボ鶴田、ロッキー羽田、大熊元司、グレート小鹿、ミスターサクラダ(ケンドー・ナガサキ)、フリーの大木金太郎、キム・ドク(タイガー戸口)石川隆志など主力が派遣された。
国際プロレスは新日本に出場する剛竜馬に対して契約違反として訴え、試合出場停止の仮処分を東京地裁を申し立てたものの、裁判所は双方の話し合いとして却下したが、この却下がきっかけとなって新日本プロレスの新間寿氏と国際プロレス側が接触し始め、「日本リーグ争覇戦」には新日本から山本小鉄、星野勘太郎の二人が出場することになっていたが、発表寸前で馬場が待ったをかけた。全日本旗揚げから国際プロレスとは共闘関係を結び、最初こそは国際プロレスが全日本の上に立っていたが、次第に双方の力関係が逆転して全日本が国際プロレスの上に立ってしまい、吉原社長も全日本における国際プロレスの扱いが悪くなっていったことで不満を持ち始めていた。またテレビの視聴率でも全日本より新日本の方が多く取っていたことから露出度の高さもあり、新日本に乗り換えることに前向きになるも、選手らの本音はストロング小林や剛を引き抜いた新日本のやり方を嫌っていたことから全日本との提携を継続することを望んでいた。

新日本の「プレ日本選手権」は全日本や国際プロレスからの参戦する選手は当然なく、マツダやマサ斎藤、上田馬之助、サンダー杉山、剛竜馬などフリー選手の参戦に留まり、マツダらフリー選手は狼軍団と名づけられ、リーグ戦も新日本本体と狼軍団との抗争が軸となっていったが、「プレ日本選手権」の予選リーグには猪木がヨーロッパ遠征があったことからマツダと共に予選は免除された。
主役抜きで予選リーグが行われるも、リーグ戦中にストロングスタイルを主張するマツダとマサ、剛とヒールファイトに徹する上田、杉山らと対立して分裂状態となる。予選トーナメントとなって、やっと猪木が帰国すると、分裂状態だった狼軍団は一致団結してヒールファイトを展開、シリーズにはWWFヘビー級王者だったボブ・バックランドが猪木との防衛戦のためだけに参戦して、猪木と防衛戦を行うが、「プレ日本選手権」よりWWF選手権を重視した猪木に怒ったのか、狼軍団が乱入して試合をぶち壊し、猪木は辛うじてリングアウト勝ちを収めるが王座は移動せず、 「プレ日本選手権」や狼軍団の存在を大きくアピールする。

一方の「日本リーグ争覇戦」も11月3日に無事開幕したかに思われたが、リーグ戦中の21日に国際プロレスが「11月25日の蔵前国技館大会にに新日本プロレスからストロング小林と小林邦昭が参戦する」と突如発表する。11月25日の蔵前国技館大会は吉原社長のプロレス生活25周年を祝うものであり、また国際プロレスにとっても社運をかけた興行でもあったことから馬場と猪木が駆けつけてお祝いをしてもらうことを考えていた。
吉原社長としても馬場と猪木は業界の後輩であり、日本プロレスが崩壊してからは国際プロレスが業界の老舗であるという自負を持っており、いずれは自身が仲介役となって馬場と猪木の仲を取り持とうとも考えていた。だが猪木はヨーロッパ遠征中で不在のため代わりに国際プロレスを古巣にしていストロング小林が派遣されることになった。ストロング小林も新日本に引き抜かれる形で移籍したが、ブッカーだったグレート草津とは折り合いが悪くても、吉原社長に対する恩義は変わっておらず、素直に吉原社長を祝いたいという意図もあった。
吉原社長の行動に馬場は激怒、吉原社長に新日本勢の参戦を取りやめにして欲しいと要求するが、吉原社長は馬場の要求を拒絶すると、ただちに渉外担当だった米沢良蔵氏に「国際に出ている選手を即座に引き上げさせろ!」と命じたが、馬場は”それをやったらファンから反発を受ける”と考えなおし、選手らを継続参戦させた。11月25日の蔵前国技館大会は国際プロレス主導で新日本、全日本の選手が揃う興行となったものの、馬場は来場せず、新日本勢の参戦発表が遅れたこともあったせいもあって、観客動員は4500人、実数で1000人で低調に終わり、後ろで見ていた観客を前へ移動させたことで、前の席を購入していた観客から顰蹙を買うなど、散々な結果に終わった。
「日本リーグ争覇戦」はラッシャー木村、プロフェッサー・タナカ、鶴田、ディーン・ホーの4人が準決勝に勝ち残り、11月30日の千葉では準決勝、決勝が行われた。優勝候補と目された鶴田はタナカと対戦し、誰もが楽勝かと思われてた。ところが鶴田が一方的にタナカを痛めつけ、制止するレフェリーを突き飛ばして反則負けとなってしまったが、鶴田の反則負けも馬場の意向が反映されたものだったという。木村はホーを破って決勝に進出、タナカを破って優勝となった。



「プレ日本選手権」は12月16日に優勝決定戦が行われ、猪木とマツダの主役同士が優勝決定戦に進出、猪木が卍固めでマツダを降し優勝、そして国際プロレスからアニマル浜口と寺西勇が参戦して長州力&木戸修とタッグで対戦し、ここから新日本と国際プロレスの対抗戦は始まるも、「日本リーグ争覇戦」を優勝した木村とは対戦しないどころか、猪木は日本選手権に関してはこれ以上発展させるつもりはなかった。猪木の中では日本選手権はもう終わったことであり興味は薄れており、また異種格闘技戦を戦いの主軸に置いていたことから、木村と対戦するつもりもなく、新日本的にもマツダと組むことで馬場からNWAの黄金テリトリーであるフロリダとの提携ルートを奪うだけでなく、共闘していた国際プロレスまで奪い、全日本を日本マットから孤立させることが出来た。そういった意味で日本選手権の勝者は新日本プロレスだったのかもしれない。
その後、新日本と国際プロレスによって自民党幹事長の二階堂進氏を会長にする日本プロレスコミッションが設立されたが、全日本は参加することはなかった。新日本と提携を果たした国際プロレスだったが、全日本からは馬場だけでなく鶴田などエース格が派遣されたのにも関わらず、新日本から猪木や坂口征二、藤波辰巳などトップ選手は参戦しないどころか、派遣された選手はピークの過ぎた山本小鉄と星野勘太郎のヤマハブラザーズが送り込まれ、そのヤマハブラザーズに国際プロレス勢のトップが苦戦を強いられたことで、国際プロレスは団体として大きくイメージ損なうことになってしまった。
1980年12月13日の新日本プロレス東京体育館大会で国際プロレスの王座であるIWA世界ヘビー級選手権が組まれたが、この頃の国際プロレスは経営が更に逼迫してして、12月に興行も打てない状況だったこともあり、新日本の枠を借りて防衛戦を行わざる得なかった。王者の木村はストロング小林を降して王座を防衛すると、猪木への対戦をアピールするが、猪木どころか観客すら相手にしなかった。その猪木vs木村が実現したのは、国際プロレスが崩壊してからの1981年10月、互いに選手としてはピークが過ぎてからで、「プレ日本選手権」や「日本リーグ争覇戦」のことも誰も話にも出さなかった。
マツダは新日本に時折り参戦しつつ、ブッカーとしてフロリダマットを取り仕切っていたが、ブッカーが全日本の常連選手だったドリー・ファンク・ジュニアに代わると、フロリダマットは全日本との提携を再開、マツダの力で新日本への供給ルートは確保されたものの、グラハムが金融投資に失敗してピストル自殺で死去すると、マツダと同じ日系レスラーであるデューク・ケムオカと一緒にフロリダマットを運営するが、WWFによる全米侵攻の前には勝てず、ジム・クロケット・プロモーションのWCWにプロモート権を売却、マツダはWCWの一員となった。
マツダは1990年12月に新日本に来日、木戸修と対戦するが、これが現役としてラストマッチとなった。フロリダで武者修行中だった西村修と知り合い、アメリカで新団体を旗揚げする構想を練ったが、その半ばで肝臓ガンで死去、62歳の人生の幕を閉じた。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.11「対抗戦・天国と地獄」Vol.17「日本人対決の衝撃」新日本プロレスワールド 猪木vsマツダ戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
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