アントニオ猪木vsローランド・ボック 「シュツットガルドの惨劇」は惨劇ではなく激闘だった


1978年11月25日、西ドイツ・シュツットガルドでアントニオ猪木はローランド・ボックと対戦。猪木は何度もスープレックスに叩きつけられ、判定負けを喫した。この試合は後に「シュツットガルドの惨劇」と名づけられた。なぜこのような試合が行われたのか…  

1976年6月26日、アントニオ猪木は異種格闘技戦でモハメド・アリと対戦した以降、世界中からオファーが殺到した、そして猪木はボックのからオファーを受け、猪木は西ドイツへと遠征した。ボックは1968年に開催されたメキシコ五輪に西ドイツ代表として出場、グレコローマンで5位に入賞後にプロデビューを果たし、国際プロレスに来日したジョージ・ゴーディエンコとのシュートマッチで名を馳せ、74年には西ドイツに遠征にきたミル・マスカラスをも破り、海外武者修行中だった吉田光雄こと長州力とも対戦、75年には『ヨーロピアンカップ』76年には『ワールドカップ』に優勝するなど輝かしい実績を誇っていたが、当時のヨーロッパマットは情報が少なく、まったく無名のレスラーに過ぎなかった。ボックは猪木vsアリを見て猪木という存在を知り、日本にも来日して猪木の試合を視察、ボックは猪木に直接オファーをかけ、11月に西ドイツへ遠征に出ることが決定し、ボック自身もプロモーターだったこともあって、猪木を招聘する準備を進めた。 

  だがこの遠征は猪木のマネージャー役でもあった新間寿氏は乗り気ではなく反対したが、猪木は「いつ、どこでも、誰とでも戦う」と押し切り、新間氏も最終的に了承したが新間氏だけでなく、ボディーガードとして藤原喜明も同行することになり、新日本では「プレ日本選手権」が開催されていたが、日本の留守を坂口征二、ストロング小林、藤波辰己に任せて西ドイツ遠征へ出発、またボックも猪木を『アリと闘ったアジアン・カラテ・キャッチ・キラー』と大体的にPR、大会中央のポスターには『キラー・イノキ』の文字が大きく記されていた。

しかし猪木の参加したツアーは過酷なものであり、猪木は初戦に日本でも対戦したこともあるウイリアム・ルスカと対戦して勝利を収めるも、2戦目のボック戦ではボックのフロントスープレックスに叩きつけられ、受身の取りづらい投げ方をするだけでなく、固いリングだったこともあって猪木は右肩を負傷、3戦目はボクサーであるカール・ミルデンバーガーと異種格闘技戦を急遽行い、逆片エビ固めで勝利収めるが、第4戦目の相手であるアマレスの強豪であるウォルヘッド・デートリッヒとの試合ではデートリッヒのスープレックスで更なるダメージを負ってしまい、左足も痛めた猪木は満身創痍の状況で最終戦のボック戦を迎えた。  

試合は4分10ラウンド制で行われた。  

1ラウンドはボックは巻き投げからグラウンドを仕掛け、猪木がロープレークし、スタンディングから猪木も片足タックルを仕掛けるも、堪えたボックはサイドスープレックスで投げる。猪木はバックからやっとグラウンドを捕らえるも、再びスタンディングとなると、ボックのフロントスープレックスで投げ、猪木は下からのクルックヘッドシザースで捕らえるが、1ラウンド終了となってしまう。 

 2ラウンド目は猪木が猪木アリ状態からアリキックを仕掛けるがボックは動じず、今度はボックがバックを奪って投げ放しジャーマンで投げるも、猪木はアームロックで捕らえて反撃、猪木は張り手を繰り出すが、ボックはエルボースマッシュで応戦、片足タックルからグラウンドを仕掛けるがロープに逃れられてしまう。ボックは組むつく猪木の左足を払いトーホールドで捕らえる。

  3R目は猪木がドロップキックを仕掛けるも、ボックはかわし、猪木は片足タックルからボックの右脚を捕らえにかかるも、ヘッドシザースで捕らえたボックは倒立して回転しヘッドシザースホイップで投げると、そのまま絞めあげて腕十字で捕らえ、猪木は立ち上がって逃れようとするが、ボックは再びヘッドシザースホイップから捕らえてからの腕十字で逃さず、猪木にリードを許さない。 

 4ラウンドもロックアップからボックがスリーパーで捕らえ、猪木は首投げで逃れるが、ボックはヘッドシザースで切り返し、猪木も倒立で脱出を狙うが、ボックはパイルドライバーの要領で突き刺して逃さず、再びヘッドシザースで捕らえる。ボックは差し合いから再びフロントスープレックスから覆いかぶさり、ボックがロープに押し込んでブレークになった隙を突いて猪木は足を捕らえるが、レフェリーからブレークを命じられ、脇へ潜った猪木に対し、ボックはダブルアームスープレックスを狙うも、猪木はブレークすると、また隙を突いた猪木は足を捕らえるが、ボックは逃れたところでラウンド終了となる。

  5ラウンドは猪木がヘッドロックで捕らえて首投げを狙うが、ボックは投げさせず、やっと首投げからスリーパーで捕らえ、さすがのボックも苦しくなったのか必死で逃れると、投げられた猪木は両足からの蹴りで応戦し、鋭いドロップキックをボックの首筋めがけて連発しボックがダウン。起き上がったボックを猪木がスリーパーから首四の字で捕らえ、やっとリードを奪うことに成功する。

  6ラウンドも猪木がスリーパーでボックを捕らえ絞めあげるが、ボックはチンロックで猪木の頭部をねじ上げて脱出を図る。猪木は何度もカバーし、手四つでかぶさって、ボックのスタミナを奪いにかかる。猪木はキーロックで捕らえるが、ボックはそのまま持ち上げて叩きつけ、ボックはフルネルソンから横へ投げると、そのまま絞めあげにかかる。猪木はロープに逃れるとアリキックから仕掛けるが、ラウンド終了となる。 

 7ラウンドもアリキックから仕掛ける猪木に、ボックはタックルから逆エビ固めで捕らえ、猪木は慌ててロープに逃れると、ヘッドロックを仕掛け逃れようとするボックを腕固めで捕獲、だがそのまま猪木の首に腕を巻きつけて絞めあげたボックはスタンディングから絞めあげ、首投げから再びスリーパーで捕獲、猪木も首投げで逃れようとする、ボックは投げさせず、猪木はやっと腕固めで反撃、ロープに押し込んで逆水平を放ったところでラウンドが終了。

  8ラウンドはボックがハンマーロックからアームホイップ、再びハンマーロックで捕らえ、猪木は逃れようとするが、ボックは猪木の髪を掴んで倒して逃さず、猪木はヘッドシザースで捕らえるが、ボックも捕らえて絞め合いとなり、猪木がスリーパーで捕らえるも、ブレークを無視したためイエローカード(警告)が提示され、一旦放されるとボックはエルボースマッシュで強襲しボディースラム、また薄いスポンジがかけられているだけのコーナーに叩きつけられてしまう。ボックは両足タックルから逆エビ固めで捕獲、猪木は必死でロープに逃れるが、今度はボックから張り手の連打、猪木は片足タックルからグラウンドを仕掛けるもラウンドが終了となる。

  9ラウンドには猪木が片足タックルを仕掛けるも、覆いかぶさったボックはグラウンドを仕掛け、一旦分かれて猪木がドロップキックもスカされてしまう。掌打のような張り手で攻め込むボックに対し、ロープに押し込んだボックに対して猪木が頭突きを浴びせると、そのまま後ろへ投げて場外戦を仕掛け、ボックはエルボースマッシュを乱打も、レフェリーが制止してリングに戻すが、ボックは猪木の頭突きを浴びた際に左目上から流血、ボックは猪木の頭部を捕まえると至近距離での頭突きを連打、そのままクローで絞めあげる。完全に猪木の頭突きに対する報復だった。ブレークの後で猪木は頭突き、ボックの傷口に手刀を乱打も、ボックはパイルドライバーで突き刺し、ロープを使ってそのまま絞めあげる。 

 10ラウンドもボックが頭突きを浴びせて場外へ出すも、リングに戻った猪木も頭突きで応戦し、今度は猪木がボックを場外へ投げる。猪木はリングに戻ったボックに、不用意に組み合うとボックはフロントスープレックスで投げるが、グラウンドを仕掛けるボックに対して上に乗った猪木がチョップを乱打、ボックもエルボースマッシュを乱打、ボディースラムを連発。猪木も鋭いドロップキックで返すが、ロープ際でもつれ合って試合終了のゴング。判定の結果3-0でボックが勝利となり、猪木は敗れた… 

 改めて試合を見ると惨劇ではなく激闘で、猪木にしてみれば何気なく向かった西ドイツで、ボックという旬の素材を掘り当てるも、料理するにもリングだけでなく体調も最悪、そして慣れないヨーロッパルール、限られた物でボックという素材を料理しなければならなかったが、ボックには敗れたが限られた物だけで、ボックという素材を料理して最高傑作を作りあげた。猪木は新間氏に「4分、6分ぐらいだろ、でもそれでいいんだ。ボック、良かったろ?」と満足げに語り、ボックも「ミスターイノキはヨーロッパにセンセーショナルを起こしてくれた。彼と戦うことによってプロレスは真剣にファイトするスポーツだと我々の国では認められた」と賛辞を贈った。まさしく二人だけしか出来ない名勝負だった。  

 猪木vsボック戦は「ワールドプロレスリング」でも放送されて、ボックの存在はセンセーショナルに扱われ、来日が期待されたが、ボックは猪木を招いたヨーロッパツアーが興行成績では惨敗に終わり、興行会社は倒産、負債の整理に終われてなかなか来日することは出来なかった。そして猪木へのギャラが払えなくなったボックは新間氏と話し合って新日本に参戦することを決意し、1979年7月に来日して猪木と再戦する予定だったが、自動車事故による負傷で来日が中止となった。復帰後にボックは12月16日にはジンデルフィンゲンでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、アンドレをスープレックスで投げたが、アンドレの怒りを買ってジャイアントプレスを左足で受けてしまって左足を負傷、その際に心臓麻痺につながる血栓症を誘発させてしまい、この血栓症がボックの選手寿命を短くさせる結果となってしまう。  

 1981年の「サマー・ファイト・シリーズ」にやっとボックが来日、木村健悟や長州力相手の秒殺勝利を収めることでファンに大きなインパクトを与えたが、実際は血栓症のに苦しんでおり長時間による試合は無理な状態だった。それでも猪木に再戦を要求して西ドイツへ戻り。12月に再び来日しラッシャー木村、タイガー戸口を一蹴、スタン・ハンセンとのタッグも実現して猪木&藤波辰己との師弟コンビと対戦して藤波をも一蹴するなど圧倒的な強さを見せつけたが、血栓症を患ったボックの体は限界に達していた。体調が良くならないまま1982年元日後楽園ホールで猪木と再戦を迎え、試合形式も5分10ラウンドで行われたが、試合は3Rにボックがロープ越しのスリーパーで捕らえたところで、レフェリーの制止を無視したため反則負けで期待を大きく裏切る結果となり、ファンは翌年に開催されるIWGPでの再戦に期待がかけられたが、ボックはこの試合を最後にはマット界から姿を消した。

  消息を絶ったボックは一時死亡説まで流れたが、2012年に発売された「GスピリッツVol.23」で公の場に登場、ボックは猪木との元日決戦の時点で血栓症の悪化で引退を決意しており、IWGPにも参加する意志はなかった。元日決戦からの帰国後はツアーの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失のために有罪となり、懲役2年の判決を受け収監、出獄後には事業に専念し、猪木と対戦したシュトゥットガルトに居住して靴部品の販売会社を経営し余生を過ごしている。  猪木vsボックは「シュツットガルドの激闘」が全てであり、猪木自身が最悪の状況で出来た名勝負だった。

(参考資料=新日本プロレスワールド、GスピリッツVol.7、23)

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