打倒・藤波!剛竜馬がアイドルだった時代

1978年7月27日、新日本プロレス武道館大会で国際プロレスを退団してフリーとなり、新日本に参戦した剛竜馬が藤波辰巳の保持するWWWF(WWE)ジュニアヘビー級王座に挑戦した。

 剛はプロレスキャリアは国際プロレスからと思われていたが、実際は日本プロレスからキャリアが始まっており、1971年3月に中学を卒業した剛は日本プロレスに押しかけという形で練習生となっていたが、当時の日本プロレスは藤波や佐藤昭雄を始め若手が豊富で、後にキラー・カーンとなる小沢正志や、ケンドー・ナガサキとなる桜田一男、先輩にもタイガー戸口となる戸口正徳、サムソン・クツワダと先輩も多く陣容も厚かったため、剛は入門を許可されないまま練習生に留め置かれた、剛の実家は父は病気がちで収入が不安定、母も家出するなど複雑な家庭環境を抱えており、体も大きくならないどころか、練習生では給料が出ず、先輩からの貰う小遣いでは仕送りも出来なかったこともあって、一旦プロレスを諦めざる得なくなり、父や妹達の面倒を見るために仕方なく故郷である兵庫県西宮市に戻った。

 一旦故郷へ戻った剛は就職するもプロレスラーになる夢は諦めきれず、新聞で国際プロレスが新人を公募している記事を目にすると、剛は日本プロレスにいた過去を隠して国際プロレスの入門テストを受けて合格、当時の国際プロレスはTBSでゴールデンタイムで放送されており、ストロング小林、グレート草津、ラッシャー木村、マイティ井上がトップ選手として活躍するなど、財政的にも安定していた。剛は入門してから1年目の16歳6ヶ月で米村勉相手にデビューを果たし、最初こそは連戦連敗続きだったが、まだ17歳でキリリとしたイケメンマスクをしていた剛を吉原功社長が将来のスターとして育成することを決め、1973年3月に当時国際プロレスのヨーロッパ担当外国人ブッカーだった清美川のルートで鶴見五郎と共にヨーロッパで海外武者修行へ出されたが、デビュー2年目の剛が海外へ出されるのは異例中の異例で、国際プロレスも剛に大きな期待をかけていた。

 最初の遠征先であるドイツやフランスでは17歳以下は法律で試合には出せないということもあって、なかなか使えてもらえなかったが、ホースト・ホフマンやスティーブ・ライト、レネ・グレイなどに指導を受け、12月にはカナダのカルガリーで一人で転戦、ドイツに戻ってから今度はカナダのモントリオールへ転戦すると、同じく新日本から海外武者修行に出されていたミツ・ヨシダこと長州力と知り合いタッグを結成、長州が日本と連絡を取り合っている際に新間寿氏と知り合った。実は新間氏は剛のヨーロッパ武者修行の時点でアントニオ猪木から「新間、有望な新人が国際にいるぞ」と獲得を進言され、剛の行方を探していたところだった。剛を気に入った新間氏はアメリカのロスサンゼルスへ呼んで話し合い、剛を新日本へと誘ったが、この時点では剛は丁重に断った。

 1974年4月に剛は凱旋帰国をして本名の八木宏からリングネームをファン公募で剛竜馬に改めたが、修行に出されている間に国際プロレスの状況は変わっており、TBSによるテレビ中継は打ち切られ、エースだった小林も退団して新日本に引き抜かれてしまい経営的にも苦しい状況に立たされていた。剛は稲妻二郎(ジェリー・モロー)相手に凱旋マッチを行い20分フルタイムのドローとなるも、その後は単調な試合運びで技の失敗も目立って、観客から失笑を買うなどスランプとなり、ブッカーだった草津もラクビー界の大物である原進(阿修羅・原)を入団させたため、剛を本格的に売り出すつもりはなかった。

 国際プロレスは東京12チャンネルが放送することで中継は再開されるも、放映権料は下がり、観客動員も低下、選手に払うギャラにも事欠くなど悪戦苦闘を強いられ、剛は国際プロレスのギャラでは仕送りが出来ないだけでなく、カナダへの再修業を命じられて周囲に不満を漏らすようになっていたが、井上によると、この頃から剛は新間氏と密かに連絡を取り合うようになっていたという。新日本からオファーを受けていることを察した井上は新日本に引き抜かれた小林を引き合いに出して「オマエ、早まるなよ。辞めるなよ。新日本に行くかどうか知らんけど、小林と一緒で最初だけだよ」と引き止めていた。小林も国際プロレスを離脱しフリーとして新日本に参戦して猪木と名勝負を繰り広げていたが、所属となると一時はNo.3となるが、藤波と長州の台頭で次第に中堅へと転がり落ちていった。しかし剛は国際プロレスでの扱いに我慢出来ず、新日本へ参戦することを決意するが、1978年4月に退団が秒読みとなった18日の長崎県島原大会の宿舎で、巡業に来る予定ではなかった吉原社長が現れて「剛!国際を辞めて、新日本に行くんだってな!」と問い詰められる。おそらく全日本寄りのマスコミが剛と新間氏が密かに会っていたことを吉原社長にリークしたのだろう。これを知った草津を始めとする選手らは怒り「本当だったらどうなるかわかっているのだろうな」剛を取り囲む、剛は全面否定して、その場を収めたが、翌朝に夜逃げ同然で国際プロレスから去り、国際プロレスも表向きは家業を継ぐための退団と発表した。

 剛は新日本からの引き抜きをカモフラージュするために、全日本プロレスの会場に突然現れてフリー宣言を果たし、新間氏の指示でフロリダ州タンバのヒロ・マツダの道場に入門、そして6月9日にロスサンゼルスでWWWFジュニアヘビー級王座をかけて防衛戦を行う藤波の前にマツダと共に現れて挑戦を表明、新間氏も国際プロレスと揉めないように、ロスのプロモーターであるマイク・ラベールに依頼し剛と契約を結ばせて、あくまでロスから新日本へブッキングされたという形を取るも、裏に新日本が絡んでいることをわかっていた国際プロレスは、剛に対して契約違反として訴え、試合出場停止の仮処分を東京地裁に申し立てる。だが剛は「書類にサインしたのは一回だけで、それ以降は契約していないどころか、国際プロレスのファイトマネーだけではいけない、ギャラが遅れたり、カットされることがあった」と国際プロレスの内部事情を暴露する。最終的には新日本ではなくラベールと契約したのが決め手になったのか、東京地裁に提出した国際プロレス側の仮処分申請が却下され、剛の出場を止めることが出来なかったが、これがきっかけとなって新日本と国際の間に水面下で話し合いの機会がもたれ、後に提携に繋がった。

 決戦間近の7月18日、剛はマツダと共に帰国会見を開き、ゴッチ流トレーニングで肉体改造に成功したボディを披露、剛の応援隊からも激励を受けた。27日の決戦当日は剛も応援隊による騎馬に乗って登場、藤波の応援隊との応援合戦を繰り広げる。このときの藤波はアイドルとして扱われていたが、新日本も剛もアイドルとしてだけでなく、藤波の敵役として売り出そうとしていた。

 両者クリーンに握手からスタート、藤波は足をすくって倒しレッグロックで捕らえるが、剛は逃れ、藤波はアームロックを仕掛けるも、これも逃れた剛は首投げからのヘッドロック、首四の字で執拗に絞めあげる。
 ひっくり返して逃れた藤波はSTFで反撃、スタンディングとなってヘッドシザースを仕掛ける、剛は逃れて食い下がるも、藤波はじっくりとしたグラウンドで剛のスタミナを奪いにかかる。
 藤波はレッグロックに捕らえると剛はビンタで抵抗すれば、藤波もビンタで黙らせてアキレス腱固めで左足を攻める。ロープに逃れた剛は首投げからニードロップを連発も自爆、藤波は剛を蹴り上げ、剛は両足を掴んで藤波を倒して逆エビ固めで捕らえるが、藤波は丸め込んでリードを奪わせない。
 藤波はリバーススープレックスからアームロックで捕らえ、剛もフライングヘッドシザースで逃れようとするが、汗で滑って失敗し再びグラウンドでリードを奪われる。藤波はドラゴンスクリューから反対側の右足をレッグロックで捕らえ、剛はなんとか脱出するも、藤波はドロップキックからボディースラム、パイルドライバーと一気に攻勢に出る。
 藤波はコーナーへ昇るが、剛はデットリードライブで落とすと、ドロップキックから起死回生のジャーマンスープレックスホールドであわやの場面を作ったが、藤波の足がロープにかかっており、ロープブレークで逃げられてしまう。
 リングに戻った藤波に剛はサイドスープレックス、ネックブリーカーと攻勢をかけるがボディープレスが自爆となると、藤波がバックの奪い合いからジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い王座を防衛、終盤で剛も追い上げたが藤波の横綱相撲の試合だった。

 その後の剛はフリーとして日米を往復しながら新日本に参戦を続け、11月30日の広島で藤波とWWFジュニア王座をかけて再戦するがドラゴンスープレックスホールドの前に敗れ、同じ時期に開催されたプレ日本選手権の公式戦でも逆さ押さえ込みに敗れて3連敗を喫してしまう。
 もう後のない剛は1979年10月2日の大阪で藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、開始前に藤波の握手に応じようとしたところでビンタを入れられた剛だったが、今回もグラウンドでリードを奪われ、エプロンに立ったところでドロップキックを喰らい、プランチャを浴びるなどリードを奪われる。
 剛はコーナーからのプランチャを発射してから流れを変え、バックの奪い合いからジャーマンスープレックスホールドを決めると、キックアウトした藤波のジャパニーズレッグロールクラッチを切り返してから逆さ押さえ込みでカウントを奪い、念願だった打倒・藤波を果たして王座を奪取する。

 しかし、剛の新日本での頂点はここまでで2日後の10月4日の蔵前国技館大会での再戦では藤波のジャパニーズレッグロールクラッチで3カウントを奪われて防衛に失敗して2日天下に終わると、剛は藤波を生涯のライバルと定め、新日本に正式入団するが、それ以降は藤波の日本人ライバルの座は木村健悟に取って代わられ、1980年3月31日には古巣の国際プロレスに参戦して阿修羅・原の保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦したが、試合を無視して剛が原を痛めつけたため反則負けとなり、4月2日での大阪でWWFジュニア王座をかけてやっと藤波との再戦の機会を得るもリングアウトで敗れ、第3回MSGシリーズでは決勝リーグにまで勝ち残り、猪木やアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ダスティ・ローデスなどトップ外国人選手との対戦する機会を得るも全て敗れるだけでなく、公式戦でも藤波に敗れ、打倒・藤波はますます遠のくどころか、MSGシリーズを最後に藤波との対戦は1990年12月まで組まれることはなく、井上の忠告通り新日本の中堅として埋没していった。

 剛が新日本で藤波のライバルというポジションから、その先がなかった理由は剛自身が国際プロレスより莫大なギャラを手に入れるだけでなく、安定したポジションも手にしてしまったことで、剛自身の向上心が薄らいでしまったのが原因ではなかっただろうか、新間氏も現場側にもっと剛に良いポジションを与えて欲しいと訴えても、肝心の本人がその気がなかったら、そう扱うしかなかったのではないだろうか…

 翌年には国際プロレスも崩壊し、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇が”はぐれ国際軍団”として参戦、剛も国際軍団として扱われそうになったが、国際軍団入りはならず、国際軍団も参戦当初は猪木との抗争を繰り広げたが、長州が台頭すると、たちまち国際軍団も埋没していく、浜口と寺西は長州率いる維新軍に合流したが、木村は剛と組んで先に新日本プロレスを退社していた新間寿氏が設立したUWFに参加するも、新間氏が退社すると、剛もUWFを離脱。その後の剛は『平成元年に旗揚げしたインディー団体「パイオニア戦志」』にて触れているが、パイオニア戦志旗揚げや新日本再参戦にあたっては藤波がライバルだったよしみで便宜を図り、剛も「打倒・藤波」を掲げていたものの、1990年12月の最後の一騎打ちで敗れて以降は接点が消えた。おそらく剛の悪い噂を藤波も聞きつけたことから、剛との関係を見直しだしたのかもしれない。1995年10月、大阪ATCで藤波が新日本内ブランド「無我」を旗揚げすると、ミスター・ポーゴだけでなく剛も来場、剛はその場でも「打倒・藤波」をアピールしたが、藤波は相手にすることもなかった。剛がインディーで再ブレイクを果たすが、それも長くは続かず凋落すると、2003年に剛が窃盗の疑いで逮捕されるが、その際には藤波から「ライバルとか言われたら気分悪いですよ」と言い放たれてしまった。

 2009年10月18日、打倒・藤波を果たしてから30年目を迎えたところで剛は死去した。晩年は藤波に冷たくされたが、剛にしてみればライバルとして藤波と戦い、1度だけ勝ったことが勲章であり、誇りでもあった。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.23「最強決定戦!」 新日本プロレスワールド 藤波vs剛は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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