全ては座談会から始まった…第1回SUPER-J-CUP開催!


1993年暮れ、日刊スポーツ出版社から「爆闘プロレス」という雑誌が出版され、当時のジュニアヘビー級選手による座談会が実現、座談会には新日本プロレスから獣神サンダー・ライガー、エル・サムライ、大谷晋二郎、三代目タイガーマスク(金本浩二)、WARからウルティモ・ドラゴン、折原昌夫、FMWからリッキー・フジ、超電戦士バトレンジャー、みちのくプロレスからザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィンが参加した。この座談会からライガーが「ジュニア選手によるオールスター戦開催」を発案すると、参加した選手らは「やりたいですよね!」と返答したが、ライガー以外の全員は社交辞令のつもりで返答したに過ぎなかった。だが、このライガーは本気でこのプランを大きく進行させた。これが「SUPER-J- CUP」の始まりだった。

ライガーは少年時代、1979年8月に開催された「プロレス夢のオールスター戦」を生で観戦していた一人で、ヘビー級だと各団体は慎重になることから、ジュニアヘビー級でオールスター戦が出来ないかどうか、かねてから構想を練っていた。早速ライガーは新日本プロレスにプランを持ち込み、特に現場監督の長州力の側近だった永島勝司氏が乗り気となって、二人三脚で「SUPER-J- CUP」開催へ向けて動きだしたが、ライガーはまず新日本に相談せず、千景夫人に相談しており、千景夫人はインディー好きで、”あの選手が凄いわよ”と紹介することがあり、ライガーも千景夫人をアンテナにして選手をピックアップした。

開催日も4月16日で会場も両国国技館に決定し、ライガーも永島氏と共に各団体を奔走して参加選手にオファーをかけ、新日本プロレスからはホスト役のライガーを含め、サムライ、大谷、提携していたWCWからはワイルド・ペガサス(クリス・ベノワ)、ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、ディーン・マレンコ、EMLLからはネグロ・カサス、、みちのくプロレスからはサスケ、デルフィン、そしてTAKAみちのく、SPWFからは茂木正淑が決定。座談会に参加していたウルティモはWCWに参戦していたこともあってエントリーできず、折原一人がエントリーする予定だったが、折原も負傷で参加を辞退したため、代わりに冬木軍の一員だった外道がエントリーした。そしてFMWからはフジ、ハヤブサがエントリーされたが、ハヤブサはまだこの時点では日本では無名で永島氏も乗り気ではなかった。しかしメキシコでのハヤブサの活躍を知っていたライガーがハヤブサを強力にプッシュして押し切り、大仁田厚にオファーをかけると、大仁田は”1回戦でライガーと当ててくれるなら”という条件でOKを出して決定となった。ライバル団体の全日本プロレスにもオファーを出したが、同日に日本武道館大会があり、「ウチの選手はそういったものは興味はない」と丁重に断られた。この時の全日本は鎖国状態で他団体に門出を開いていなかったこともあって、参戦する可能性はゼロに近いぐらい低かったのかもしれない。だが「SUPER-J- CUP」を意識したのか、小川良成vs菊地毅のシングルマッチが組まれたという。

組み合わせも1回戦はペガサス、サスケはシードとされ、ブラックvsTAKA、大谷vsデルフィン、マレンコvs外道、ライガーvsハヤブサ、カサスvsフジ、サムライvs茂木と組まれ、1回戦第1試合に出たTAKAは当時入場テーマ曲で使用されていた山本譲二の「みちのくひとり旅」で入場して、スワンダイブプランチャも披露するなど、ファンのド肝を抜き、控室のモニターで見ていた長州力すら「こいつは宇宙人か!」と言わしめたが、長州の発言がきっかけとなってTAKAのスワンダイブプランチャは宇宙人プランチャと命名された。

ライガーvsハヤブサとなると、入場コスチュームを脱いだライガーをハヤブサがドロップキックで奇襲をかけ、ソバットでライガーを場外に追いやると、トペコンヒーロを発射、試合はライガーが当時開発したばかりのフィッシャーマンズバスターでハヤブサは玉砕するも、ライガーとの一戦でハヤブサの存在はファンに大きく認められた。

2回戦にはブラック、デルフィン、外道、ライガー、フジ、サムライが進出し、2回戦ではシードのペガサスがブラックと対戦して破り、外道もデルフィン、ライガーがフジ、シードのサスケがサムライを破って準決勝に進出したが、冬木軍でタッグ屋のイメージがあった外道が準決勝にまで勝ち残るとは誰もが予想しておらず、当時社長だった坂口征二は外道の試合ぶりを絶賛していたという。外道は後に新日本でブッカーとなるが、外道自身が新日本の現場を取り仕切る立場になるとは思ってもみなかったかもしれない。

準決勝ではライガーvsサスケ、ペガサスvs外道となり、ライガーvsサスケはサスケのセントーンアトミコを自爆させたライガーが掌底を浴びせ、フィッシャーマンズバスターで勝負に出るも、サスケがカウント2でキックアウトしてライガーがフィニッシュをアピールすると、その隙を突いたサスケがウラカンラナで3カウントを奪い逆転勝利で決勝へ進出、しかし決勝の相手はダイビングヘッドバットで外道を降したペガサスで、ライガー戦のダメージが残っていたサスケにペガサスはドラゴンスープレックスホールド、ダイビングヘッドバットを繰り出してサスケを追い詰めていくが、サスケは旋回式クロスボディーで反撃して、ソバットで場外へ出すとサスケスペシャルを発射、リングに戻ってもラウディングボディープレスを繰り出していく、サスケはもう1度コーナーへ昇るが、追いかけたペガサスが雪崩式サイドスープレックスを決め3カウントを奪い、サスケは敗れて準優勝となったが、みちのくプロレスの存在を大きくアピールすることが出来た。

後年、サスケは「本当は東京から出たくなかった、新日本プロレスに出て名前を売るという全然なかった。結果的にはそれで全国区になりましたけど、純粋に力試しをしてみたいなと思っていただけなんですよね、他団体が出場したとしても、新日本さんの戦いが中心になるだろうから、みちのく勢がどのくらいの位置なのかというものを知る上で、たぶんデルフィンも同じ気持ちだったと思いますよ」と答えていたが、SUPER-J-CUPがきっかけとなってサスケだけでなくデルフィン、ハヤブサ、外道の存在が大きくアピール出来た。ライガーは「僕は本当に楽しければいい人間なので”共存共栄でいいじゃないですか、”みんなが盛り上げればいいじゃないですか”と長州さんに言ったら、オマエ本気でそんなことを言っているのか!”と怒られたことがあった」と答えていたが、ライガーが新日本の威信、メンツを考えていたら、サスケらの活躍はなかった。”みんなが盛り上げればいいじゃないですか”と考えたライガーから出来たイベントだった。

SUPER-J-CUPは新日本が独占せず、第2回がWAR、第3回はみちのくプロレス、第4回は大阪プロレス、第5回はユークス体制となった新日本が持ち回りで主催し、第3回からは闘龍門JAPAN、第4回から武藤敬司体制となった全日本、NOAH、第5回からはDDTが参戦するなど出場する選手の幅が広がり、「SUPER-J- CUP」はまさに団体の枠を超えた一大ブランドと化していった。ライガーは長州から「なぜ新日本にSUPER-J- CUPを独占させなかったんだ!」と怒られたが、ライガーは「みんなが潤えばいいじゃないですか」と押し切り、永島氏もライガーに賛同したため、長州は口出ししなくなった。

 ところが2013年の第6回大会は新日本とNOAHが主催となったが、新日本主導で行われ、新日本と交流する団体のみが参加するだけとなり、昨年の第7回からは日本の他団体からの参戦はなくなって、外国人選手が主に参戦するようになって、「SUPER-J- CUP」はジュニアのオールスター戦から新日本の独自ブランドと化してしまった。

今では選手より、団体オンリーになった時代、選手主導で開催された「SUPER-J- CUP」のようなイベントはもう出てこないのかもしれない。
(参考資料 GスピリッツVol.39 90年代の新日本ジュニア)

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