1991年8月9日、SWSが旗揚げ1周年記念興行「紀元一年」横浜アリーナ大会で1周年を記念してタッグトーナメントを開催することになり、提携しているWWF(WWE)からは、WWFではリージョン・オブ・ドゥーム(LOD)と名乗っていたザ・ロード・ウォリアーズ、SWSで猛威を振るっていた谷津嘉章&キング・ハクのナチュラルパワーズのエントリーが決定していたが、あと1か月を控えた郡山大会で天龍源一郎が「オレはベストなパートナーを探す。技術云々じゃなく、気持ち…ソウフルな部分でやりたいよ。魂が通い合うパートナーとやるっていうことだよ」と発言したが、マスコミは”阿修羅・原以外は考えられない”と察知していた。
前々回で阿修羅・原は「88最強タッグ決定リーグ戦」開幕直前で、原は自ら作った借金が原因となって、私生活の乱れを理由に全日本プロレスから解雇されて消息を絶ち、天龍自身も相棒である原を失った焦燥感を拭いさるために、原のことは一切触れず封印し、残った川田利明や冬木弘道らと共に全日本で戦い抜いてきたが、原のことは忘れたわけでなく龍原砲で活躍していたころを思い出して心の励みにしていた。
1990年4月に天龍が全日本を退団してSWSの設立に参加したが、週刊プロレスによるバッシングキャンペーンや、内部の派閥闘争もあって天龍自身も覇気を失いつつあった。そこで週刊ゴングの小佐野景浩を始めとする天龍番記者たちの中で「ひょっとしたらSWSでなら、龍原砲を復活できるんじゃないか?」という話が持ち上がった。全日本では馬場の一存で原は解雇されたが、天龍がエースを務めるSWSなら原を復活させることが出来る。またマスコミも龍原砲の試合をもう一度みたいだけでなく、覇気を失った天龍の元気を取り戻すには原の存在しかないと考えたからだった。
天龍番記者達は「お互い抜いた、抜かれたということはなしにして阿修羅・原を探そう」ということになり、原の行方を探したが、小佐野氏は全日本の営業から「北海道の琴似町にいるらしい」と情報を聴くと、札幌にいる知人に原の捜索を依頼、知人は琴似町を訪れて原が寝泊まりしているとしている鮨屋を訪れたが、店の主人が「昔はいたけど、今はいない」として原を会わせようとしなかった。小佐野氏は早速、天龍に報告したが「そうか…もしかしたら阿修羅はプロレスから解放されて、幸せに暮らしているのかもしれないね、それだったら、そっとしといてあげようよ」と寂しげに語ったが、天龍にしてみれば原は生きていることだけをわかっただけで充分だったのかもしれない。それでも小佐野氏は知人を通じて原が通っているとされるカラオケボックスの主人に連絡先を書いたメモを渡し、原からの連絡を待つことにした。
そんなある日の真夜中に小佐野氏の元へ電話がかかった。電話をかけた人間は「あんた、阿修羅・原を探しているんだって?いったい何の用事があるんだ?あいつはもうヤ〇ザになっているんだ」としゃべったが、小佐野氏は「原さんでしょ!電話くれたんですね?よかった!」と電話の主が原だとわかり、原も本人だと認めた。確かに鮨屋の二階に寝泊まりしていたが、借金取りに見つからないように夜活動していたという。2年間の間、抱えている借金を自力で返済したら必ずリングに戻るいう気持ちを糧にしてきたが、借金だけはどうしてもクリアすることが出来ず、”今、出て行ったら源ちゃんに迷惑をかけるだけだ”と思って隠遁生活を続けざる得なかった。その後、小佐野氏は原と連絡を取り続け、天龍にも原と連絡を取ったことを知らせた。天龍はすぐにでも原を復活させたかったが、SWSは派閥による内部抗争でまとまっておらず、天龍自身も絶対的権限を持たされていなかったこともあって、簡単に原を復帰させる状況ではなかった。

1991年に入るとSWSは北尾光司の暴言による”八百長発言”で内部対立が表面化すると、社長だった田中八郎氏が内部対立を収めるために天龍を社長に就任させ、SWS内部も旗揚げしたばかりで分裂するのはまずいとして、内部対立は棚上げされ、道場の枠にこだわらないマッチメークが編成されることになって、内部対立はとりあえず収束されることになったが、それに伴って誕生したのは谷津&ハクによるナチュラル・パワーズだった。
ハクはかつてはプリンス・トンガと名乗って全日本プロレスに所属していたが、WWFと契約するとハーリー・レイスを破ってからはキング・ハクと名乗るようになり、一時はアンドレ・ザ・ジャイアントと組んでWWF世界タッグ王者になるなど活躍していたが、SWSとWWFが提携したことによって、SWSに頻繁に派遣されるようになっていた。谷津と組んだハクはナチュラル・パワーズを結成してSWSで猛威を振るい、天龍もジョージ高野だけでなくランディ・サベージとも組んでナチュラル・パワーズと対戦したが、圧倒的なパワーの前に勝てず、5月の後楽園大会ではハクにビール瓶攻撃まで受けてしまい、後遺症に悩まされるなど大ダメージを負っていた。

天龍は「最近、無性に阿修羅のことを思い出すんだよ。何もないところから2人で始めてさ・・・、今。オレはトンガ(ハク)や谷津にやられて体がガタガタだし、体がダメになった時は、潔く引退するつもりだけど・・・。できることなら最後もオレと阿修羅と2人で突っ走って、それでバタっといったら終わりというのが、オレの夢なんだよね」と発言した。おそらく天龍も”原を復活させるのは、今しかない!”と考えたのかもしれない。早速、天龍は原に直接電話を入れ、琴似町に出向いて原と会い、カンバックを要請、原も「同情だけだったら耐えられない。オレに価値がないんだったらやめてくれ。でも、オレで本当に助けになるんだったら、源ちゃんに命を預ける、これでいろいろな問題が出てきたなら横浜アリーナでレスラー人生を終えてもいい」とカンバックを決意した。
天龍は選手会に原の復帰を提案したが、SWSは天龍中心にまとまったとしても、まだ天龍への不満は根強く残り、レボリューション以外は反対を示したが、社長となった天龍は自身の権限で反対を押し切り、原をSWSの所属にすることを決め、原の抱えていた借金もメガネスーパーが全て肩代わりすることで落ち着いた。天龍は原の付き人を務めていた北原光騎に「阿修羅の道具を手入れしてほしい」と命じた。北原は原がいつでも戻ってこれるように、原の試合用の道具を全て保管していたのだ。
7月に上京した原はSWSと契約、入団会見が開かれ、レボリューションによる合宿が行われたが、初日は原の復帰を祝しての大宴会となり、ザ・グレート・カブキや石川敬士、冬木や北原も原の復帰を大歓迎した。8月4日の長岡で原の復帰戦が行われ、天龍は石川と組んで自ら原の復帰戦の相手を務めた(原のパートナーは冬木)、天龍が自ら復帰戦の相手を務めたのは原の復帰戦に反対したパライストラや道場・檄には原とやらせたくない、天龍自身が原を試したかったからだ。さすがの原も2年間のブランクに苦しんだが、天龍は原の胸板を真っ赤に変色するまで逆水平を打ち込み、受けきった原も頭突きで返し、独特のアッパーブローや雪崩式ブレーンバスターで叩きつけた。試合は天龍がパワーボムで冬木を降すも、「これぞ天龍同盟のプロレスだ!」というものを充分に見せつけて横浜アリーナに臨んだ。
横浜アリーナ大会当日は新日本プロレスのG1 CLIMAX両国三連戦初日とぶつかってしまったが、龍原砲復活という大きなインパクトを与えたせいもあって満員こそならなかったものの14650人を動員、タッグトーナメントには龍原砲、LOD、ナチュラルパワーズだけでなくジョージ&俊二の高野兄弟、石川&冬木、カブキ&ティト・サンタナ、ケンドー・ナガサキ&仲野信市の7チームがエントリー、龍原砲は1回戦でナガサキ&仲野と対戦するが、原が仲野のドロップキックを顔面にまともに食らってしまい、試合中に脳震盪を起こしてしまう。それでも龍原砲は仲野にサンドウィッチラリアットを浴びせて、天龍のパワーボムで勝利を収めるも、原は意識を飛ばしたままで準決勝に臨まざる得なくなった。
準決勝のナチュラルパワーズ戦では龍原砲は天龍の延髄斬り、原のヒットマンラリアットの新サンドウィッチ技でハクの動きを止めると、かつてスタン・ハンセンを失神させたサンドイッチ延髄斬りを浴びせ、原のヒットマンラリアット3連発から天龍のパワーボムで3カウントを奪い、今まで苦戦を強いられていたナチュラルパワーズに一矢報いるも、決勝の相手は全て秒殺勝利を収めて余力充分のLOD、龍原砲は1回戦での原のダメージだけでなく、ナチュラルパワーズ戦との激戦でスタミナを消耗しきっていた。それでも龍原砲は圧倒的不利な状況にも係わらず、LOD相手にダブルラリアットなどの合体技を連発していったが、原のスタミナが切れてしまうと、天龍が捕まってしまい、LODのダブルインパクトの前に力尽きた。だが、試合後に全力でトーナメントを戦い抜いた龍原砲に惜しみない拍手が送られ、原が「みんな、もう少し待ってくれ!レボリューションは死なんぞ!龍原砲は死なんぞ!」と叫べば、天龍は「みなさん、どうもありがとうございました」と深々と頭を下げた。週刊プロレスでのバッシングでファンに良いイメージを与えることが出来なかったSWSだったが、龍原砲は敗れたものの、初めてハッピーエンドで終われたというものを天龍は実感することが出来た。

その後、龍原砲は12月の東京ドームでハルク・ホーガンとの対戦を控える天龍が「龍魂五番勝負」の5戦目で天龍vs原の龍原対決が実現、二人は真っ向からぶつかり合って、試合は天龍がパワーボムで勝利も、二人にによる”痛みの伝わるプロレス”を体現出来た試合だった。
しかし年明けに開催されたSWS初のリーグ戦、SWSタッグ王座決定リーグ戦では、龍原砲は公式戦ではナチュラルパワーズに敗れたが、優勝決定戦にまで勝ち残り、決定戦の相手はとして再びナチュラルパワーズを迎え撃った。誰もが龍原砲のリベンジに期待したが、原がハクの前に3カウントを奪われて連敗を喫し、リーグ戦後に原は「今の状態では。源ちゃんと同じリングには立つのが恥ずかしい」と龍原砲の凍結を申し入れた。原は全日本解雇以前から慢性的に腰や膝を痛めており、原自身も衰えを痛感し始めていた。

ところが、SWSに内紛が起きると、天龍派と反天龍派の分けたマッチメークが編成されるようになり、原は窮地に立たされた天龍を助けるために龍原砲を解禁するも、キング・ハク&バーサーカーと対戦した際に肋骨を痛めてしまい、欠場に追いやられてしまった。
SWSは分裂となると、原は天龍に追随してWARに参加、新日本を含めた対抗戦では龍原砲として、また天龍と向かい合う立場となって天龍を支え続けた。1994年10月、原は引退、「真っ白な灰になれた。もう、満腹だよ、ありがとう」と完全燃焼しきった原は天龍に感謝しながらリングを去っていった。
その後の原は故郷の長崎・諫早へ戻り、農業高校のラクビー部のコーチとなったが、両親が倒れてしまうと介護に専念するためにコーチも退職、プロレスマスコミとの接触も一切絶っていたが、時折小佐野氏とは連絡を取り合っていた。2010年に天龍が天龍プロジェクトを立ち上げると、原は「源ちゃんがプロレスで最後の勝負をかけるなら、オレも最後の勝負をかけてみたい。年金を頼りに生きるのはオレの性に合わない。自分の納得のいく身体を作れたら源ちゃんに連絡するよ」と天龍の助けになればの一心でカンバックを決意、トレーニングに励んだものの、古傷だった腰や膝が言うこときかず、復帰を断念、そして久しぶりに週刊プロレスのインタビューに応じた後で、原は肺炎を起こし入院、この頃には両親も亡くなっており、介護疲れが原因となって原は体調を崩し始め入退院を繰り返すようになる。
2015年4月28日、午前5時15分、阿修羅・原は68歳で死去、天龍は原の死去の際には気丈にふるまっていたが、落胆の色は隠せず「オレは阿修羅とは最後まで目一杯付き合ったから、何も後悔はしていない」と涙を流すことはなく、それ以降原のことは口にしなかった。原の葬儀の際には天龍は出席しなかったが、祭壇の遺影の左右には「龍原砲 天龍源一郎」「天龍同盟・天龍源一郎」の花が飾られていた。それは龍原砲として二人で突っ走った絆の証でもあった。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.14 タッグチームの行方 Vol.22 夏の変革 辰巳出版「革命終焉」)
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