「日本を代表するラガーマンからプロレスへ転向…阿修羅・原はこうして誕生した。」で触れたとおり、崩壊した国際プロレスから全日本プロレスへと移籍した阿修羅・原は全日本ではNo.4のポジションに付き、1981年と1982年の2年連続で天龍源一郎とのコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリー、優勝争いには加わることは出来なかったが、1982年には反則勝ちながらも公式戦で無敵の強さを誇ったスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの”超獣コンビ”から金星を挙げるなどまずまずの成績を残した。原もラクビーで日本代表に選ばれながらも、プロレスを転向してからは様々な挫折を経験したのに対し、天龍も大相撲からプロレスへ転向しても、なかなか馴染めなず、トップに出るまでに時間を要してしたこともあって、似たような境遇を経験した二人は共感し合っていた。

しかし1984年に入ると天龍と原の関係は大きく変わり、ブッカーだった佐藤昭雄は本格的に天龍をジャンボ鶴田と共にジャイアント馬場に次ぐ看板選手に押し上げるため、鶴田と天龍による鶴龍コンビを結成させ、また大仁田厚がNWAインタージュニアヘビー級王座を奪取して凱旋帰国したこともあって、原のポジションは下がり、国際プロレスの先輩であるマイティ井上や石川敬士とのタッグでアジアタッグ王座戦線が中心となっていったものの、馬場や元子夫人にも可愛がられていたこともあって、中堅ながらも安定したレスラー生活が送っていたはずだった。
1984年10月に原は突如失踪する。「84ジャイアントシリーズ」の長崎大会は原自身がプロモートする大会で、天龍の保持するUNヘビー級王座にマイケル・ヘイズが挑戦、原自身も石川とアジアタッグ王座を保持していたこともあって防衛戦がマッチメークされ、テレビ中継も入る予定だった。原はプロモート全般を知人に任せていて、全日本から預かった準備金を前渡ししていたが、その知人が金を持って失踪してしまい、原自身も全日本どころか馬場の面子を潰してしまったとして失踪してしまったのだ。大会当日に全日本の選手やスタッフが到着してもプロモーター不在どころか、ポスターも貼られず置きっぱなしで宣伝だけでなくチケットも販売されておらず、テレビ中継が入ることから大会を中止にすることは出来ないため、当日券を格安で売って強行開催したが、興行としては大赤字となり、原は全日本に損害を与えただけでなく、事情を説明もせず失踪してしまったことで、原は馬場から大きく信用を損なってしまったが、馬場は身内の恥を晒すことを嫌ったのか、原の失踪を公にすることをしなかった。
失踪していた間のことは何も語られていない、1985年4月3日の「’85鮮烈!スーパー・パワー・ウォーズ」の山形大会の長州力vs石川戦に突如原が乱入して長州を襲撃、対戦をアピールする。実は原のスポンサーで全日本のプロモーターの一人である人物から「自分が保証人になるから原を全日本に復帰させてほしい」とアプローチされており、馬場も本来なら全日本に損害を与えた人物を簡単に上げるわけがいかなかったが、ある人物の顔を立てて原を所属ではなくフリーという形となった。フリーとして扱ったのは全日本に戻るための最低条件だったのかもしれない。

4月23日の横浜文体で天龍と原はタッグを組んで長州、アニマル浜口組と対戦したが、試合前にもかかわらず話し合おうとしない原に天龍が苛立ったせいもあって、原が長州らに制裁されてもカットに入らない、そこで原は天龍にイスで一撃を加えて試合を放棄してしまうと、試合は大熊元司が原の代わりに入って長州がリキラリアットで大熊を降して成立させたものの、原はラッシャー木村率いる国際血盟団と共闘して全日本だけでなくジャパンプロレスも敵に回すが、国際血盟団から剛竜馬らが解雇されてしまうと、ユニット自体が形骸化されはじめ、原はカルガリーハリケーンズとして参戦していたスーパー・ストロング・マシンや外国人選手とタッグを組むなど、フリーということで次第に便利屋として扱われるようになっていった。
1986年3月に長州らが古巣だった新日本プロレスにUターンしてしまうと、全日本は長州の穴を埋めるべく鶴田や輪島大士を中心としてvs外国人路線に転換を図ったが、天龍は燃えられる相手だった長州が去ったことで長州ロス症候群を起こしてスランプとなり覇気を失ってはいたものの、試合を淡々とこなす鶴田、キャリアの浅さを露呈し始めた輪島を見て危機感を抱いていた。そこで天龍は鶴田との鶴龍コンビを解散を申しいれ、正規軍を離脱し独自に動き始めたが、一人で戦うには限界がある。そこで目を付けたのはかつてのパートナーだった原だった。天龍が原を選んだ理由は、パートナーを全日本から選んだら、全日本のカラーに出てしまう。また原をこのまま埋もれさせたくないと考えていたからだった。原も長州らがいなくなり、共闘していた木村も馬場とのタッグを考え始めていたことから立場が中途半端となり、一匹狼で戦うことに限界を感じていただけでなく、敵ではありながらも覇気のない天龍を気にかけていた。
天龍と原はシングルでも何度も闘い、1984年4月11日の大分ではUNヘビー級王座をかけて対戦、観客もまばらの中で二人は”真っ白な灰”になるまでガンガンぶつかり合い、試合は両者リングアウトとなったものの、UN史上に残る死闘を繰り広げたことがあった。二人はあの時の感覚をもう一度だけでなく、原自身も腰や膝を悪くし始めていたこともあってレスラー人生は長くないと悟っていたことから、レスラーを引退するなら完全燃焼したいという思いが強くなった。天龍が行動を起こすと、原も「天龍、オマエがやるというなら、オレもやるぞ!」と意気投合、天龍は「原と組みたい」と馬場に申し入れ、龍原砲が誕生した。
1987年6月6日の山口県長門で龍原砲は始動、相手は輪島と大熊でノーテレビだったが、龍原砲は地方のノーテレビの会場ながらもエンジンを全開させ、サンドウィッチラリアットから天龍の延髄斬り、原のバックドロップと畳みかけて大熊から3カウントを奪い勝利、始動し始めた頃の龍原砲は馬場も二人がどこまでやれるのかわからないことから本格的に売り出すつもりはなく、馬場vsラジャ・ライオンの異種格闘技戦が行われた6月9日の武道館では前座の第4試合に留められた。

それでも龍原砲はプロレスに没頭し、正規軍から離れてからは移動バスも用意されていなかったこともあって、レンタカーを借り、時には時刻表を片手に電車、またリングスタッフのトラックに同乗して移動、またマスコミと酒宴を開いて自分らの試合の意見を聴くなど、自分らのプロレスをどう盛り上げていくかを考えつつ、試合を終えた後の生ビールの美味しさを味合っていた。生ビール一杯の喜び、龍原砲が常に完全燃焼するまでプロレスに没頭していた証だった。
龍原砲の試合はテレビがあろうがなかろうか、30分近い激闘を繰り広げることで、マスコミだけでなくファンから注目をされ、次第にメインで扱われるようになり、7月には馬場自身も2代目タイガーマスクと組んで龍原砲と対戦、馬場相手にも熱いファイトを見せ始めるなど、全日本内でも龍原砲の存在は次第に認められるようになっていった。
最初は二人だけで始まった龍原砲も、海外武者修行から帰国しても前座で留められていた川田利明、サムソン冬木が合流、天龍の付き人だった小川良成を巻き込んだことで天龍同盟というユニットの発展、それを受けて全日本も天龍同盟用に移動バスが設けられるようになった。川田と冬木はタッグチーム”フットルース”を結成して井上&石川からアジアタッグ王座を奪取、これまで中堅ベテラン選手が中心だったアジアタッグ戦線はフットルースを軸にに若返り、また天龍同盟に対して2代目タイガー、高野俊二、仲野信市、高木功、田上明ら次世代の選手らが中心となった決起軍が結成され、天龍同盟に立ち向かっていったが、龍原砲は燻っている高野を原が「いつまでもしょっぱい試合をしているんじゃねえ!」と挑発して高野を怒らせた上で、徹底的に痛めつけ、田上に至っては流血に追い込んだ上に、原がヒットマンラリアットで血反吐を吐かせるなど熱い戦いでかわいがったが、龍原砲の戦いは天龍に共鳴しながらも、敢えて敵に回っていたザ・グレート・カブキが「相手が潰すようなファイトでありながら、受けに回るタイミングも絶妙で、最終的にはちゃんと相手の持ち味を引き出す。あれが本当のアメリカンスタイルだよ」と絶賛するほどであり、また原も馬場から所属に戻るように命じられたことで、馬場からの信頼も再び勝ち取ることが出来た。
龍原砲の熱い戦いは日本人だけでなく外国人相手にも繰り広げ、スタン・ハンセン&テリー・ゴーディ組と対戦した際にはハンセンにサンドイッチ延髄斬りを浴びせるも、天龍の延髄斬りがハンセンの顔面に直撃してKOしてしまう。試合中に失神したハンセンは息を吹き返したもののブチ切れてしまい、場外の天龍に襲い掛かって大乱闘、試合は両者リングアウトとなったが、二人がバックステージに下がっても、完全に激怒したハンセンが追いかけてくるため、さすがに危険と判断した二人はリングトラックに乗って一足早く次の会場へ向かって逃げたこともあった。
龍原砲は1987年にハンセン&オースティン・アイドル組を降してPWFタッグ王座を奪取、王座は鶴田&谷津嘉章の五輪コンビに明け渡し、五輪コンビがザ・ロードウォリアーズを破ってインタータッグ王座を奪取したことで、二つのベルトが統一されて世界タッグ王座が誕生、世界タッグベルトを巡って五輪コンビと龍原砲が激闘を繰り広げ、1988年8月の大阪では龍原砲が五輪コンビを破って世界タッグ王座を奪取も、翌日の武道館では五輪コンビが奪還するなど、五輪コンビvs龍原砲はノンタイトルでも何度も組まれたことから、全日本での名物カードとなっていった。
全日本プロレスを活性化させた龍原砲だったが、その終わりは唐突に訪れた。1988年11月の世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕直前で、馬場が私生活上の問題を理由に原の解雇を発表した。原はギャンブルはしないが、宵越しの金を持たない主義で金遣いが荒く、そのためいろんなところから借金をしていて、中には反体制勢力絡みの金融機関からも金を借りてしまうこともあり、会場まで借金取りが押し掛けてくることがあったという。天龍は原を助けなかった馬場に不信感を抱いたが、馬場にしても他の選手に示しがつかないと考えた上での苦渋の決断だった。天龍は原の代役として川田を起用して最強タッグにエントリーして乗り切り、原を失ったロス状態を払拭するために、1989年にはジャンボ鶴田を降して三冠ヘビー級王座を奪取し、ハンセンと組んで世界タッグ王座を奪取して5冠王となり、1989年の最強タッグでも馬場から3カウントを奪うなど、ガムシャラに突っ走って全日本の頂点にまで到達したが、原を失った喪失感は拭い去るまでには至っていなかった。天龍は1990年に全日本を退団してSWSへ移籍したが、天龍革命に陰りを見せ始めたのは原を失ってからかもしれない。
後にSWSで龍原砲は復活するが、それはまた別の話として、龍原砲の戦い方は後の三沢光晴ら四天王プロレスにも大きな影響を与えたことは言うまでもない。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.14「タッグチームの行方」Vol.29「襲撃・乱入」)