日本を代表するラガーマンからプロレスへ転向…阿修羅・原はこうして誕生した。

1977年11月29日、一般スポーツ紙でラクビーで全日本代表にも選ばれ、76年には世界選抜にも選ばれた原進が国際プロレスに入団することが報じられた。

原は長崎県諫早の出身で高校時代は相撲に打ち込んでいたが、2年生になってからラクビー部に入部してからラクビーの魅力に取りつかれ、東洋大学に進学してからはラクビー一本に絞り専念、卒業後はラクビーの名門である近鉄に入社、駅係員の業務をこなしながらラクビー部に所属、1974年の全国社会人ラグビーフットボール大会や日本選手権でも右プロップとして活躍して優勝に貢献、世界選抜にも選ばれ、日本を代表するラガーマンとなった。

 しかし、ラガーマンの寿命は短く、30歳近くなると日本代表になった選手たちは次々と引退、原も近鉄職員の業務もこなさなければいけないこともあってラクビーの携わる時間が削られていった。原はラクビー選手から引退して近鉄を退社、ラクビー好きの作家である野坂昭如氏と知り合いだったこともあって、野坂氏の率いる草ラクビーチームのコーチを務めていた。

 その原を国際プロレスのグレート草津がスカウトした、草津もかつてはラクビーで全日本代表として活躍しており、原もラクビー界の大先輩である同じ九州出身の草津と話し合っているうちにプロレスに興味を持ち始める。同じ時期に新日本プロレスも原が近鉄を退社したことを聴きつけて獲得を狙ったが、原は草津の誘いを優先して国際プロレス入りを選んだ。

 この当時の国際プロレスは旗揚げから中継していたTBSに放送を打ち切られ、東京ローカルのUHF局である東京12チャンネル(テレビ東京)で中継を再開するも、カリスマ性をもったスター選手はいないせいもあって、視聴率は思うように稼ぐことも出来ず、また観客動員も低調で経営状態も悪化しつつあり、ジャイアント馬場の全日本プロレスと提携していたが、全国ネットの日本テレビをバックに持つ全日本との力関係は歴然としており、衛星団体のような扱いを受けていた。日本を代表する原の入団は、国際プロレスにとっても救世主、起死回生の一打で、原を将来のスター選手として育成しようとしていたのだ。

 原は既に体格が出来上がっていたこともあって、国際プロレス側は早期にデビューさせるためにアニマル浜口をコーチとして特訓を開始、時にはエースであるラッシャー木村も指導することがあった。そして原に覆面を被せてテスト形式で試合を行わせた後で、入団してから7ヶ月目の1978年6月26日の大阪府立体育会館大会で寺西勇相手にデビュー、試合は15分1本勝負だったが寺西のリードもあって、どうにか15分間戦い抜いて引き分けに持ち込むことが出来た。そして7月には国際プロレスと提携していたカナダ・カルガリーに武者修行に出され、大剛鉄之助や桜田一男(ケンドー・ナガサキ)の下で指導を受けつつ実戦をこなし、カルガリーでは2戦目で英連邦ジュニアヘビー級王座を奪取するなど活躍、西ドイツへ転戦してから、12月6日に凱旋帰国、原が武者修行に出ている間に国際プロレスの状況は変わり、全日本との提携を打ち切り、アントニオ猪木の新日本プロレスに乗り換えていた。新日本は藤波辰巳(藤波辰爾)がニューヨークMSGの大舞台でWWFジュニアヘビー級を奪取し、藤波人気もあって日本にジュニアヘビー級が人気が呼ぶようになったことから、国際プロレスも原を売り出すために、ジュニア人気に目をつけて、原をジュニアヘビー級の選手に仕立てて売り出そうとする。

 原は新日本プロレス12月16日の蔵前国技館に木村と共に来場、リング上から挨拶し、藤波に挑戦を表明、また26日に後楽園ホールで行われた藤波のファンの集いにも来場して、新日本のファンにも原の存在を大きくアピールする。この当時は日本テレビの「全日本プロレス中継」よりも、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」のほうが高視聴率を稼いでいたことから、原の存在を「ワールドプロレスリング」を利用して大きくアピールしたかったのかもしれない。27日の国際プロレスの納会には野坂氏も出席し、リングネームも野坂氏が名付け親になって阿修羅・原と命名された。

 1979年から原は本格参戦を果たし、5月6日の後楽園大会ではミレ・ツルノを破りWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取、WWUジュニア王座は、WWUという団体は西ドイツには存在するもジュニアヘビー級はなく、団体の名義だけを借りただけで、ベルトも国際プロレスも東京12チャンネルが用意されたもので、王者のツルノも新日本からブッキングされた選手だったこともあって、原の売出しには新日本も一役買っていた。

 原はツルノ、ダイナマイト・キッド、後にブラックタイガーとなるマーク・ロコ相手に防衛戦を行い、ジプシー・ジョー相手に金網デスマッチで防衛戦も行ったが、ツルノとの再戦やロコとの試合では大苦戦を強いられたこともあって、次第にキャリアの浅さも露呈し始める。やっと1980年4月3日にやっと藤波への挑戦にこぎつけるが、その直前の3月31日の後楽園ホール大会で元国際プロレスで新日本の所属となった剛竜馬の挑戦を受けると、剛が原の攻撃を一切受けずに一方的に痛めつけ、場外戦で剛がテーブルめがけてアトミックドロップを決めたところで、山本小鉄レフェリーが試合をストップ、裁定は剛の反則負けとなってしまい、山本レフェリーも剛のKYぶりに怒って剛にビンタを浴びせれば、原をバックアップしていた草津も自分の顔を潰されたのか、一方的にやられた原にビンタを浴びせ、肝心な藤波との一戦もバックフリップを駆使して善戦をしたものの、キャリアの浅さを露呈して三角絞めでギブアップ負けを喫してしまい、原の売り出しに大失敗してしまうどころか、国際プロレスのイメージダウンにも繋がってしまった。

 原のジュニアヘビー級路線も見直しを余儀なくされ、WWUジュニア王座は返上(封印)、ヘビー級へと転向したが、もともと105キロとジュニアのリミットギリギリだったことから、ジュニアヘビー級として売り出すこと自体無理があった。原はビル・ワットのエリアであるMSWAへ再修業に出るが、その間にも国際プロレスは観客動員でも後楽園ホールは300人程度しか集まらないなど状況は更に悪化するだけでなく、テレビ中継の視聴率も低下、原は4月に凱旋したが、この頃には東京12チャンネルのレギュラー放送も打ち切りとなり、国際プロレスの崩壊は秒読み段階となっていた。原はマイティ井上とのコンビでIWAタッグ王座を奪取するが、8月9日の北海道羅臼町大会をもって国際プロレスは活動停止、崩壊した。

 所属選手らは木村、浜口、寺西が吉原功社長の斡旋で新日本、アンチ新日本の急先鋒だった井上は若手の冬木弘道らと共に全日本、フリーとなって海外へ出る選手もいるなど身の振り方を決める中で、吉原社長は原も新日本へと考えたが、原は新日本には藤波戦で苦い思いをしたこともあって乗り気になれず、引退して長崎へ戻ることを考えていたが、国際プロレス中継で解説を務めていた門馬忠雄氏の元へ馬場から自宅へ連絡が入り「原を引き止めて欲しい」と依頼を受ける。門馬氏もただちに原と連絡を取って、馬場と引き合わせ、馬場から「ジャンボ鶴田、天龍源一郎に次ぐNo.4として売り出したい」ともちかけられると、原はうなずくだけだったが、全日本プロレス入りを決め、最初はフリーとして参戦して天龍と対戦を表明して、1981年10月2日の全日本プロレス後楽園大会で天龍と対戦、試合は両者リングアウトとなるも、激しい死闘を繰り広げたことで、二人は認め合い、後に龍原砲が誕生する のきっかけにもなった。

 龍原砲はいずれまた振り返るとして、国際プロレスは原を藤波のようなアイドル、鶴田のようなエリートみたいな形で売り出したかったと思う。だが、根本的なことがあって売り出しに失敗してしまったが、それだけ早急に客を呼べて、視聴率を稼ぐ必要があって焦っていた、その焦りのせいもあって、せっかくの起死回生の一打となる素材も国際プロレス側が生かすことが出来なかった。

 現在ラクビーのワールドカップが開催され、日本代表が大活躍しているが、原はあの世でどう見ているのだろうか…
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.3「年末年始の大波乱」Vol.11「対抗戦、天国と地獄」)

 

 

 

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