NWAを牛耳った男、ジム・バーネット


1974年10月、NWAは緊急役員会を招集、NWA会長だったサム・マソニックが来年のNWA総会をもって辞任、会長特権であるNWA王者のスケジュールの優先権を副会長に起用されるジム・バーネットに委ねられれることになった。NWA王者のスケジュールの優先権を握るということはNWAを牛耳ったのと同じで、副会長に起用されたバーネットは事実上NWAを牛耳った。

NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)は第2次世界大戦が終わってからの1948年7月に発足、 最初はアメリカ中西部地区に限った統一世界王座に過ぎなかったが、王者にルー・テーズを要したことで加盟するプロモーターが増え、全米を代表するプロレス談合組織となっていった。1950年にマソニックがNWA会長に就任、派閥闘争で一時的に会長から失脚したが、会長に復権してからは長きに渡りNWAの首領として君臨した。

1953年にはミネアポリスでAWA、ロスアンゼルスでWWA、ニューヨークでWWWF (WWE)が旗揚げされ、NWAによる全米独占が崩れるも、日本の日本プロレス、オーストラリアのIWA、メキシコのEMLL(CMLL)が加入、NWAの規模も世界的に広がり、1968年にはWWA。1971年にはWWWFが再加入し、NWAは全米を代表するプロレス組織から世界最高峰の組織として昇りつめていったが、オーストラリアのIWAを取り仕切っていたのがバーネットだった。

1972年にNWAを揺るがせる大事件が起きた。ジョージア州アトランタ地区である「ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング」のブッカー兼任レスラーであるレイ・ガイケルがオックス・ベイカーとの試合中に心臓麻痺を起こして急死した。ジョージア地区はポール・ジョーンズがプロモーターだったが、実質上取り仕切っていたのがガイケルだった。 ジョージア地区はガイケルの後継者を巡ってもめ始め、ガイケルの妻であるアンが持ち株を引き継いだことで、誰もが引き継ぐものとされていたが、NWAが待ったをかけてジョーンズに引き継がせようとしていた。アンは収益配分を巡ってNWAに不満を持っており、他のNWA会員プロモーターらとも折り合いが悪かった。そして持ち株が安値で売却させられたアンはNWAに反旗を翻してASWAを旗揚げ、NWA側と興行戦争が勃発したことで、ジョージアマットは分裂状態となった。

 地元レスラーのほとんどはアン側に着いたのに対し、NWAはヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニア、ジュニアヘビー級王者だったダニー・ホッジが送り込まれ、NWAも各地区からスター選手が派遣されるなど、物量作戦でアン側を潰しにかかる。しかし、ジョージアは地元のヒーローが愛される気質もあり、また後にWCWのオーナーとなるテッド・ターナーがアンを支援したこともあって、NWAは苦戦を強いられ、戦況は五分五分のままで泥沼化していく。

 マソニックもジョージア州を空白地区にしないために、会員たちに選手を送り込んでほしいと打電する、NWAにとってもジョージアは重要地区であり、もし空白地区になるか、AWAに乗っ取られるようなことがあれば、NWA崩壊に繋がると考えていた。だが興行戦争が長期化していったことで、次第に各地区のプロモーターも選手を派遣することを渋りだし、マソニックもNWAのために動いてくれるプロモーターがいないことに嘆き始める。

 興行戦争が2年が経過したころに、ジョーンズとアン双方の持ち株を買収したいと持ち掛けるプロモーターがいた、それがバーネットだった。バーネットはかつてバディ・ロジャースを要したプロモーターであるフレッド・コーラーの下で働いていたおり、独立してインディアナポリス、デトロイト、コロンバスのプロモーターになったものの、ディック・ザ・ブルーザーやザ・シークなど抱えていたレスラーたちが相次いで離脱、対抗勢力を作ったことで、オーストラリアに転出してIWAを旗揚げ、大成功を収めたことで莫大な富を手に入れていたが、アメリカに戻ることを諦めているわけではなかった。

 バーネットはマソニックに興行戦争を終わらせる条件として、自身をNWA副会長に就任させ、会長特権である王者のスケジュール優先権を譲渡することを要求、NWA王者のスケジュール優先権をバーネットに渡すことは、NWAを牛耳ったのも等しい話だったが、マソニックはこれ以上NWAの首領として率いていくことは無理と判断し、バーネットの条件を飲んだ。

 マソニックの決断にNWA会員たちは猛反発する。バーネットは同性愛者であり”男くささを売り”にしているプロレス界のイメージダウンに繋がると考えていたからだった。しかしマソニックは興行戦争を終わらせるつもりはない会員たちに怒り、最後の切り札としてマソニック自身が次回のNWA総会をもって会長を辞任することで反対を押し切った。

 早速バーネットはIWAを売却してオーストラリアを引き払い、ジョーンズとアンの持ち株を買収に動き、ジョーンズだけでなくアンも2年も続く興行戦争に疲れていたことから、バーネットに株を売却してマット界から撤退、ジョージアはバーネットが独占することになった。

 NWAはマソニックが会長から降りた後は、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックことジャック・アドキッセン、フロリダ州のエディ・グラハム、カンザス州のボブ・ガイゲルが会長となったが、王者のスケジュール優先権を握った副会長のバーネットが絶対権力を握り、全日本プロレスを旗揚げしてNWA会員となったジャイアント馬場もオーストラリア時代からバーネットに接近していたことから擦り寄り始め、そのせいもあってか、NWA王者は全日本に最優先で送られるようになった。後にアントニオ猪木の新日本プロレスも会員となったが、反主流派だったこともあって新日本には派遣されることはなかった。馬場も主流派である”バーネットが副会長でいる限り新日本にNWA王者は送られることはないだろう”と安心していたのかもしれない。

 しかし、バーネットの権勢に陰りが見え始めた。1981年4月ジョージアでトミー・リッチがNWA王者だったハーリー・レイスを破り王者となる事態が起きる。本来ならNWAの許可なく王座が移動することはあり得ないことだったが、リッチはバーネットが最もプッシュしていた選手だったこともあって、自身の権限で王座移動を認めさせたのだ。王座は4日後にレイスが奪還してリッチは4日天下に終わったものの、バーネットの行為はNWAの会員からヒンシュクを買ってしまう。

 1982年には会長辞任後もセントルイスを取り仕切っていたマソニックも高齢でプロモーターから引退、1984年にバーネットはジョージアでブッカーを務めていたオレイ・アンダーソンと対立、同じくオレイと対立していたジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコらと共に、NWAを脱退して全米侵攻を始めたWWFのビンス・マクマホンに持ち株を売却、これによりジョージアはWWFに牛耳られ、バーネット自身もWWFの幹部となったが、NWAを牛耳っていた男が自ら崩壊への引き金を引くことになった。

 WWFの幹部となったバーネットだったが、NWAを取り仕切ってWWFに対抗していたミッドアトランティックのプロモーターであるジム・クロケット・ジュニアに接近していたことがビンスに知れると、WWFから解雇されてクロケットの元へ走ってNWAに復帰するも、クロケットもビンスに対抗して各エリアに侵攻を始めたが資金に行き詰まってしまい事業を売却することを余儀なくされ、バーネットはターナーに売却することを進言、これがWCW誕生へと繋がったが、アンを後押ししていたターナーに売却することはバーネットにとっても皮肉だったと思う。

 1998年にマソニックは老衰で死去、バーネットは相談役としてWCWに携わったが、2004年にガンで死去、マソニックとバーネットは2005年にNWA殿堂入りを果たし、バーネットは2019年にレガシー部門としてWWE殿堂入りを果たした。

(参考資料=日本プロレス事件史Vol.13「マスクマンの栄光と悲劇」Vol.15「引退の余波」)

 

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