理不尽一代記!冬木弘道


1994年3月2日、WAR両国国技館大会で天龍源一郎、阿修羅・原の龍原砲vs大仁田厚、ターザン後藤によるWARvsFMWのタッグ頂上対決が実現、試合は熱戦となったが、試合中に原が脇腹を負傷して戦線離脱、天龍が大仁田と後藤相手に孤軍奮闘するも、大仁田のサンダーファイヤーパワーボムの前に天龍が敗れ、これまでWARを引っ張ってきた龍原砲は敗れた。

 この状況を苦々しい思いで見ていたのはサムソン冬木だった。「みんなで死ぬ思いして天龍さん、原さんを支えてきたよ。俺たちは死んで来たんだよ、それが大仁田、後藤に負けて…冗談じゃねぇや!」と吐き捨てた。

 冬木弘道は1974年に国際プロレスに入門したが、入門テストには合格しておらず、アニマル浜口のアドバイスで押し掛けという形で入門し、最初はリングスタッフの一員となってリングを設営、その後練習生となって1980年にデビューを果たしたが、最初こそは無口で大人しいという印象だったものの、マイティ井上に誘われて選手らでマージャンをやるとたんに饒舌となるなど本性を出していたいう。1981年に国際プロレスが崩壊すると井上に誘われる形で全日本プロレスに移籍、ブッカーだった佐藤昭雄の指導で頭角を現したが、この頃から若手だった三沢光晴と知り合い、ウマが合ったのかプライベートでも一緒に遊びに行くほど仲が良かった。
 冬木は天龍の指名で付き人になり、天龍は外様で肩身の狭い冬木を弟分のように可愛がった。そして1983年に川田利明と共にテキサスへ海外武者修行に出され、1985年12月にウエートを増やして凱旋、リングネームもサムソン冬木に改め、ジャパンプロレスを中心とした日本人対決路線となっていた全日本マットで切り込み隊長的な役割を果たして活躍した。

 1987年に冬木はプエルトリコへ再び海外遠征に出され帰国すると、全日本は天龍と原の龍原砲を中心とした路線に変わっており、誰もが天龍の付き人だった冬木が天龍に合流するかと思われていた。

ところが1987年8月21日の仙台で、ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキvs龍原砲が組まれた際に、試合前に天龍がカブキの毒霧を食らって戦闘不能に陥る事態が起き、そこで冬木が助けに入ると思われていたが、同じく凱旋帰国しながらも前座に留められていた川田が入って鶴田組に襲い掛かってしまい、出遅れた冬木は凱旋帰国のインパクトを出すために鶴田組に着かざる得なくなってしまった。

川田と冬木の二人は抗争を繰り広げ、最終的には国際プロレスの先輩だった原の仲介で天龍同盟入りを果たして、川田とのタッグで「フットルース」が結成したが、リングアナのコールでも川田より冬木が先にコールされ、88年の世界最強タッグ開幕直前で原が解雇された際には、天龍のパートナーには冬木ではなく川田が抜擢されるなど、川田との差は開いていった。

 1990年に天龍が全日本を退団してSWSに参加、冬木も追随したが、選手層の厚さもあってSWSでも冬木は中堅として扱われたのに対し、天龍らが離脱した全日本では天龍に追随せず残留した川田が台頭、SWS分裂後の冬木は天龍に追随してWARに参加したが、中堅として燻る状態が続いていた。

 冬木は「川田がチャンピオンカーニバルに優勝したことも考えさせられたよ、あんなショッパイ奴がトップを取れるのかよ?オレに負ける要素は何もないよ。川田とやらせてくれるなら全日本に行ってやる。この会社で這い上がろうとしているのは邪道、外道だけ。あの二人と勝って勝って、勝ちまくって…高く買ってくれるところに行くから、この会社がオレをここまで追い込んだんだ!」とWARの体制を批判したが、WARの頂点だった龍原砲が敗れたことでの危機感、そして川田に対する劣等感…それ全てが冬木を突き動かすきっかけとなった。

 冬木は新ユニット結成へと動いてリングネームも冬木弘道に戻し、自身が口に出した邪道、外道を勧誘した。邪道、外道はたけしプロレス軍団(TPG)のオーディションに合格、FMWの旗揚げには参加したが、すぐ離脱し旗揚げしたばかりのユニバーサルプロレスリングに移籍、海外遠征の後で現在のリングネームとなったが、下火となったユニバーサルプロレスリングに見切りをつけてW☆INGに移籍したものの、W☆INGでも放漫経営が原因でギャラの未払いを受けたことで、W☆INGにも見切りをつけ、WARを主戦場にするようになっていた。

 WARは天龍率いるWAR軍、原率いる反WAR軍の図式となっており、邪道、外道は反WAR軍に属していたが、反WAR軍で新日本プロレスからレンタル移籍していたスーパー・ストロング・マシンが、新日本とWARの提携が一旦切れるにあたって、新日本に戻らざる得なくなり、反WAR軍のリーダーである原もレスラーとしても体力的に限界に差し掛かっていたことから、WARの勢力図自体が再編成の時期だった。WARには石川敬士がいたものの反体制側に立つ選手ではない、空家になりかけていた反体制のポジションに冬木が目をつけたのだ。

 4月21日のWAR大垣城ホール大会でWAR本隊を離脱した冬木は邪道、外道に「オレはもう本隊を出るから、オマエら一緒に来い!」と声をかけ、邪道、外道も成り行きで冬木に追随した。これが冬木軍の誕生だった。冬木が二人を指名した理由は、天龍が原を指名した理由の一つが全日本のカラーに染まっていなかったのように、二人は天龍のカラーに染まっておらず、インディーから這い上がってきた二人なら違ったカラーを打ち出せると考えたからだった。

 冬木は全日本プロレスが6人タッグで活性化されたように、6人タッグでWARを活性化させることを考えた。「あいつらはハイハイってオレの言うことを聞きながら試合を覚えりゃいいんだから、二人は体がないんだから、いろんな意味で試合を憶えないと食っていけないよ、だからオレをどんどん利用すればいい、オレもガンガン動ける二人を利用していくから」と答えていた通り、パワーはあるが体格のせいでスピードのない冬木と、パワーがないがスピードとテクニックのある邪道、外道、3人の唯一共通しているのはプロレス頭と言われた頭脳だけ、チームとしてはバランスが整っていた。

 冬木の要求でWARに6人タッグ王座が新設、6月30日の仙台大会で王座決定トーナメントが開催され、決勝では冬木軍が天龍、アニマル浜口、北原光騎組を破って優勝して初代王者となり、以降3度戴冠するなど、冬木軍の代名詞的な王座となった。また様々な合体技も編み出し、現在G.o.D(タマ・トンガ&タンガ・ロア)が使っているスーパーパワーボムも最初に使いだしたのは冬木軍だった。

 また冬木自身も話題を振りまくことも欠かせておらず、WARに対して「試合に勝ったらリムジンで会場入りさせろ!」など理不尽要求、また川田のストレッチプラムを使って冬木スペシャルと名付けた際には、川田のパクリと批判されたが「川田とは指の角度が違う!」と開き直り、お揃いの紫のロングガウンを作り、格闘技ブームでグレイシー一族が話題になった際には、グレイシートレインをパクって入場、WAR社長だった武井正智氏に試合出場を迫り、「理不尽音頭」というCDもリリースするなど、賛否は呼んだものの、冬木は「それは反響を呼んでいる証」として外へ話題を振りまくことでWARに観客を呼ぶことを常に考えていた。

 冬木軍はWAR内だけでなく、新日本プロレスでは越中詩郎率いる平成維震軍、蝶野正洋率いる狼群団、UWFインターでは安生洋二率いるゴールデンカップスとも対戦、安生との抗争では生卵や、生タコ、パンティーまで飛び交う乱戦となった。またメジャーだけでなくケンドー・ナガサキのNOW、若松市政が主宰する北海道のローカル団体「道産子プロレス道場 元気」にも参戦するなど、日本マットの隅々まで冬木軍の存在をアピールすることで他団体からもファンを引っ張ることを考え、当時ライオン・ハートと名乗っていたクリス・ジェリコも冬木軍に合流してリングネームもライオン道と改め、冬木の元でプロレスを学んでいった。

 邪道、外道は「24時間のうち、寝るとき以外はずっと三人一緒だった・でも冬木さんは上下関係みたいなが嫌いみたいで、先輩面しなかったし、普通に過ごせた」とコメントした通り、3人はかつて天龍と原がプライベートでも一緒で常々プロレスを考えていたように、一緒に行動しながらも試合を常に盛り上げるか考えていた。

 しかし、冬木の存在が大きくなったことで、あくまで天龍を主役とするWAR側との意見の相違がみられるようになり、天龍自身も体力の衰えから「年間20試合しか出ない」と発言したことで、冬木が「それはファンに対する裏切りだ。天龍おまえはもう出てくるな。俺がやるからいい」と激怒、それがきっかけになって天龍とWAR双方と亀裂が生じ始めるようになる。そこで冬木は全日本プロレス時代に指導を受けた佐藤昭雄の誘いを受けて、WARを離脱することを決意、さすがの天龍も引き止めようがなく離脱を認めた。この時の天龍は「俺に去られた馬場さんはこんな気持だったのかな……」と落ち込んでいたという。1996年12月に冬木は天龍との6人タッグを最後にWARを離脱したが、天龍がパワーボムを決めた際に冬木に「……下手、打つんじゃないぞ」と声をかけた。それが冬木にしてやれる精いっぱいのことだった。

 邪道、外道、リングアナの中村吉佐氏と共にWARを離脱した冬木はインディー統一機構であるFFFに参加するも、旗揚げ直前でオーナーが夜逃げする事態が起きて、冬木は独自で旗揚げをせざる得なくなってしまい、冬木軍プロモーションを設立し、1997年3月29日にHARUMIドームで旗揚げしたが、来場者には当時大人気で入手不可能と言われた携帯ゲーム「たまごっち」をプレゼントすると発言してしまったため、冬木は大慌てで「たまごっち」をかき集める羽目になってしまったという。

 冬木軍はフリーであることを利点にしてFMW、FMWと敵対関係だったIWA JAPANにも参戦、FMWから世界ストリートファイト6人タッグ王座を奪取、女子プロレスのライオネス飛鳥、イーグル沢井、シャーク土屋の平成裁恐猛毒GUREN隊の挑戦を受けるなど話題を呼んだが、次第にFMWに戦いの軸を置くようになり、冬木軍プロモーションはFMWに吸収されて3人とも所属となる。

 FMWは大仁田厚のデスマッチ路線からエンターテイメント路線へと転換を図り、冬木はFMWのコミッショナーに就任してヒールの立場から現場を取り仕切るも、ディレクTVという大きなバックがついていながらも、エンターテイメント路線は莫大な経費がかかってしまい、FMWも自転車操業で常に火の車で経営も安定しなかったこともあって、エンターテイメント路線も軌道を乗せるまでには至らなかった。

 そしてディレクTVが撤退してしまうと、FMWはたちまち経営危機に陥り、冬木と社長だった荒井昌一氏は選手らをリストラせざる得なくなった。そこで希望退団者を募ると、冬木の下で長年頑張ってきた邪道、外道が田中将斗と共に退団を希望した。邪道、外道はギャラも遅配になったことでFMWに見切りをつけており、また冬木の考えるエンターテイメント路線に反発していた。冬木軍は事実上の解散となり、邪道、外道は何も挨拶せずに冬木の下を去っていったが、冬木は「あいつらはインディーのヒーローになるタイプじゃねえよ、メジャーに行って、買われて、金を稼いだ方がアイツらのためだよ」と冬木自身は二人は自分の下で充分にプロレスを学んだことで、そろそろ巣立つべきだと考えており、二人が冬木の真意を知ったのは後になってからだった。

 一人だけとなった冬木はFMWで悪戦苦闘し、外からFMWを発信しようとして、全日本を離脱してNOAH旗揚げへと動いていた三沢と接触、三沢も冬木の窮状を察して井上雅央、金丸義信、本田多聞、丸藤正道をFMWに派遣、WARを開店休業にしていて古巣の全日本に参戦していた天龍とも和解を果たし、2001年には冬木も古巣の全日本に参戦して川田と対戦、2001年世界最強タッグ決定リーグ戦では天龍とのタッグで参戦したが、しかしFMWは10月にハヤブサがラ・ブファドーラの失敗で頸椎損傷という選手生命に係わる重傷を負ってしまうと、ミスター雁之助が足を骨折するなど、次々と主力選手が負傷欠場する事態が起き、冬木は天龍を参戦させるなどして乗り切ろうとしたが、FMWは2002年2月に2度目の不渡りを出して倒産、崩壊する。

 冬木はFMWの選手の受け皿としてWEWを設立、FMWとして開催予定だった川崎球場大会を開催するために奔走、三沢のNOAHにも協力も得られることになったが、この頃から冬木の体調に異変が起き始め、医師に診察を受けると大腸がんと診断されて「翌週にも手術を受けなければならない」とドクターストップを受けてしまう。2002年4月7日のNOAH有明コロシアム大会で三沢との一騎打ちを実現させた後、9日の冬木軍興行後楽園大会の試合後に引退を発表、冬木はこれまで何度も引退を公言してネタにしてきたことから周囲は信憑性を疑ったが、立会人として三沢が現れたことで信憑性が高まった、冬木は天龍同盟時代に仲の良かったNOAHの仲田龍氏に病気のことを明かすと、仲田氏はすぐ三沢に伝え、冬木が断ったのにも関わらず三沢は駆けつけたのだ。三沢の配慮で4月14日にディファ有明を押さえ、NOAH主催で引退試合を行い、引退興行には新日本の所属となっていた邪道、外道だけでなく天龍や永田裕志も駆けつけて、冬木を労い、手術を受けた後の5月5日に川崎球場大会で引退セレモニーで、冬木は現役生活に別れを告げた。

 WEW川崎球場大会はNOAHから三沢、天龍同盟時代の後輩だった小川良成、田上明やベイダーなど主力選手、ZERO-ONEから橋本真也や大谷晋二郎、みちのくプロレスからザ・グレート・サスケが参戦するなどして乗り切ったが、9月に肝臓にガンが転移していることがわかると、冬木は死期を悟ったのか治療を辞め、12月のZERO-ONE後楽園大会に現れた冬木はガンが再発したことを公表して、2003年5月3日のWEW川崎球場大会で橋本に電流爆破デスマッチでの対戦を要求、この時も誰もが信憑性を疑ったが、冬木は2月に腸閉塞で入院してしまう。
 3月11日、病院を抜け出した冬木はZERO-ONE後楽園大会に現れ、金村キンタローが「すべてをさらけだすのがプロレスラーですけど、これはやりすぎです。冬木さんもうやめましょう」と引き止めるのを聞かずにリングに上がって、橋本に対戦を迫り、橋本も「挑戦を受けます。5月5日、あなたがリングに立っていたらあなたの勝ちですから」と了承した。冬木はバックステージで小佐野景浩氏から「橋本さんが対戦を受けます。冬木さん、どう思いますか?」と質問されると、「……ああ、俺はやっぱり死ぬんだなと思った」とニヤリと笑ったという。だが、冬木がリングに上がったのがこれが最後となった。

 病院に戻った冬木は14日に膀胱と腸に管を通す手術を受けた。手術は冬木本人は5月5日には間に合わないと拒否し、三沢が駆けつけ冬木を説得して手術を受けさせたが、手術を行っても手の施しようがないぐらい病状は悪化していた。三沢や小川、天龍、邪道、外道も見舞いに駆け付けたが、家族からもう長くはないことから最後のお別れをしてほしいというものだった。冬木は意識が朦朧としながらも、5月5日の川崎球場大会のリングに上がる意志だけは変わらなかったが、19日に冬木はがん性腹膜炎のために死去、最後までレスラーであることを貫いた生涯にピリオドを打った。5月5日の川崎大会には金村が電流爆破のリングにあがり、橋本と対戦、橋本の位牌を共に電流爆破に被弾した。

  その後、冬木からプロレスを叩きこまれた邪道と外道は新日本プロレスでブッカーに就任、現在はヒールとして視点で現場責任者として取り仕切るだけでなく、オカダ・カズチカやジェイ・ホワイトをプロデュースしてトップ選手に押し上げ、また冬木が6人タッグ王座にこだわりがあったように、新日本でもNEVER6人タッグ王座を新設させた。冬木の考えるプロレスは邪道、外道によって受け継がれていく…

(参考資料、ベースボールマガジン社「To Be THE 外道」週刊ゴング増刊号 「冬木弘道追悼号」)

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