国技館最低の観客動員…どん底の新日本プロレスから生まれた名勝負、棚橋弘至vs後藤洋央紀


2007年11月11日、新日本プロレス両国国技館大会でIWGPヘビー級王者となった棚橋弘至が後藤洋央紀相手に初防衛戦を行った。

この頃の新日本プロレスはユークス体制を迎えて2年目を迎えていたが、3月には創始者だったアントニオ猪木が新日本を離脱、娘婿だったサイモン・ケリー氏と共にIGFを旗揚げ、旗揚げ戦では三代目のIWGPベルトを使ってカート・アングルとブロック・レスナーの間で選手権まがいの試合を行うなどして、外部から新日本プロレスに圧力をかけていた。

棚橋は2006年7月に、王者だったブロック・レスナーが棚橋との防衛戦をドタキャンしたことを受けて、王座決定トーナメントに勝ち抜いて王座を奪取、この日から新日本の棚橋エース路線が始まったが、レスナーが3代目ベルトを持ち逃げしたことで、用意されたベルトはかつて橋本真也が巻いていた2代目のベルト、ファンも「新日本の棚橋プッシュ」と皮肉り、これまでミスターIWGPとして新日本を支えていた永田裕志が支持されていたこともあって、棚橋はまだファンから支持される王者となっておらず、中には「棚橋が王者になったから新日本を見なくなった」と言い放つファンすらいた。

 2007年4月の大阪府立体育会館大会で棚橋は永田の挑戦を受け、バックドロップホールドの前に敗れて王座を明け渡し、一時は再び永田時代へと戻りかけていたが、この年のG1 CLIMAXでは永田を降して初優勝を果たして再浮上を果たし、10月の両国では永田を降し王座を奪還に成功、このときもファンも永田支持で棚橋にはブーイングを送ったが、棚橋は開き直って永田の声援を送るファンに唾を吐き捨てれば、中指を立てるなどヒールぶりを見せつけた。

 そういう状況の中で武者修行に出ていた後藤洋央紀が凱旋帰国する。後藤はメキシコではルード(悪役)として活躍、棚橋が永田を降してIWGPヘビー級王座を奪取した同じ日にかつて付き人を務めていた天山広吉相手に凱旋マッチを行い、メキシコで開発した牛殺しを披露して天山の首に決定的なダメージを与えてから昇天で3カウントを奪い、天山は牛殺しを受けた影響で長期欠場に追いやられてしまった。これまで新日本を支えてきた永田、天山を降した棚橋と後藤は11月11日の両国国技館でIWGPヘビー級王座をかけて対戦することになった。

 11月11日、国技館は観客動員は6000人と発表されていたと思うが、実数で2000人と過去最悪の観客動員数を記録、リングサイドは枡席すらセットされておらず、イスが並べられていただけだった。おそらくだが棚橋や後藤ではメインにすることに反発した人らが多かったと思う。空席だらけの観客席を見てレッドシューズ海野レフェリーは棚橋に「お客さんが入っていないときだからこそ頑張ろう、棚橋と後藤が凄い試合をしたらしいよ、しまった。観にいけばよかった。そう思ってもらえるような試合をしよう」と励ました。海野レフェリーはかつて天龍源一郎の下にいたこともあって「見に来なかったやつに悔しがらせるような試合をしよう」という姿勢を間近で見ていたこともあって言えた言葉でもあった。

試合開始からロックアップで組み合い、後藤がロープに押し込んで、棚橋が体を入れ替えると後藤の顔面にビンタをかまし、館内はブーイングを浴びせるも、棚橋は迷いはないように涼しい顔で受け流し、後藤がロープに押し込んだ際に、ビンタのお返しにエルボーを狙えば、いなした棚橋はまたビンタをかまして、再び館内は大ブーイングとなる。
怒った後藤はエルボーの連打でコーナーに押し込むも、体を入れ替えた棚橋はエルボースマッシュの連打で応戦、後藤がヒップトスを仕掛けても、棚橋はヘッドシザースで切り返すなど、早くもすざましい攻防を繰り広げる。
棚橋はヘッドロックからグラウンドを仕掛けると、後藤はヘッドシザースで切り返すが、ブリッジで逃れた棚橋はレッグロックで捕らえ、後藤はロープに逃れるも、棚橋は放さないためブーイングが飛び交う。今度はフィンガーロックの攻防では後藤が力で押し込むも、押し返した棚橋はスープレックスで投げ、手のクラッチを解かないままで後藤を押しつぶすかのように何度もストンピングを浴びせるなど、荒々しい攻めを見せる。
棚橋はヘッドロックで捕らえると、後藤はロープへ振って、棚橋はショルダータックルを浴びせるも、受けきった後藤にドロップキックを発射、しかし倒れない後藤はショルダータックルを浴びせ、ラリアットで場外へ追いやり、場外戦でもラリアットで鉄柵外へと叩き出して勢いを見せつける。
エプロンに戻った棚橋に後藤がロープ越しのブレーンバスターを狙うが、堪えた棚橋は後藤をエプロンに直撃させ、足をすくって倒して鉄柱を使った足攻めで動きを止めにかかり、リング内でも後藤の膝にエルボードロップ、ボディープレスを投下するなど、関節蹴りや低空ドロップキック、ドラゴンスクリューから足四の字固めと足攻めでリードする。
劣勢の後藤は串刺しラリアットで反撃、サッカーボールキックからPK、エルボードロップと流れを変え、逆水平の連打、スリングブレイドを狙う棚橋をスリーパーで切り返してドラゴンスリーパーで捕らえれば、棚橋はアサイDDTの要領でドラゴンスリーパーで切り返し、フライングフォアアーム、青天井エルボー、サマーソルトドロップと畳みかけ、セカンドロープからのサマーソルトドロップからエプロンへ蹴り出し、コーナーの金具へと叩きつけてからジャーマンを狙うが、逃れた後藤はラリアットでリングに無理やり戻すも、リングに戻ろうとしてロープを跨いだところで、棚橋はロープ越しのドラゴンスクリューを敢行、場外へ逃れた後藤にウルトラタイガードロップを命中させるが、後藤も負けじと鉄柱攻撃から、鉄柵に持たれた棚橋に村正で浴びせてから、三角飛びのトペコンヒーロを命中させる。
リングに戻ると後藤はダイビングエルボードロップを投下、時間差の後頭部ラリアットを放つも、倒れなかった棚橋はスリングブレイドで応戦して両者はダウン、立ち上がった両者はエルボーのラリー、ジャーマンの応酬、ビンタのラリーを繰り広げ、互いに一歩も引かない。
後藤はナックルの連発で殴りつけると、これまで後藤寄りだった声援がブーイングへと変わるが、後藤は構わずレフェリーを突き飛してからコーナーナックルを浴びせるも、棚橋は目には目をとばかりに急所蹴りで返し、スリングブレイドからダルマ式ジャーマンで投げてからグラウンド式ドラゴンスクリューを連発、テキサスクローバーホールドで後藤を追い詰めにかかる。
後藤はロープに逃れるが、棚橋はレッグブリーカーから足めがけてハイフライフローを投下、しかし起き上がった後藤はバックドロップで投げ、昇天を決めて勝負あったかに見えたが、棚橋はカウント2でキックアウト、後藤はもう一度昇天を狙うが、棚橋は首固め、逆さ押さえ込みで丸め込み、後藤がバックを奪うと、棚橋はサムソンクラッチを狙ったが、回転途中で堪えた後藤はDRAGON GATEの土井成樹の技であるマスキュラーボムの要領で棚橋を脳天から突き刺す。

 首を押さえてうずくまる棚橋に林リングドクターが駆けつけ、試合は中断かと思われたが、後藤はそれらを払いのけて棚橋に牛殺しを敢行、それでも起き上がれない棚橋の後頭部にエルボードロップを連発してから、ダイビングエルボードロップ、エメラルドフロウジョン風の垂直落下式リバースDDTで今度は棚橋を追い詰める。
 後藤はコーナーへ昇るが、棚橋が追いかけると、後藤は雪崩式回天を敢行、再び昇天を狙うが、棚橋はスリングブレイドで切り返し、ジャーマンスープレックスで投げるも、後藤はラリアットで応戦、しかし連発を狙ったところで避けた棚橋はドラゴンスープレックスで投げ、トゥエルブ・シックスから両膝めがけてハイフライフローを投下、そしてテキサスクローバーホールドで捕らえ、後藤は懸命にプッシュアップしたが、力尽きて崩れてしまい無念のギブアップ、棚橋が31分24秒の死闘を制して初防衛を果たした。試合後にはG1で左肩を負傷し、この大会から復帰を果たした中邑真輔が挑戦を表明すれば、GBHでヒールとなっていた真壁刀義も挑戦を表明する。後藤だけでなく中邑、真壁が退場した後で、棚橋は立会人を務めていた山本小鉄氏からベルトを授与されると、テレビ朝日による勝利者インタビューを受けるが、さすがの棚橋もいつもの「愛してまーす」は叫ぶことが出来ず、若手に担がれて退場していったが、棚橋にはブーイングではなく大声援が送られた。

 棚橋は「僕は特別かっこいい技も持ってないし、動きだけで観客を驚かせるようなムーブもない、自分自身で光れないのなら、相手に光ってもらえればいい、お客さんが相手に大声援を送るなら、試合は盛り上がっていく、チャンピオンが声援を受ける必要はない、最後は勝てばいいんです。残念ながらプロレス大賞の年間最高試合は獲れなかったけど、新日本プロレスが復活の狼煙を上げた試合だったと想います」の語ったように、この試合は後日、ターザン山本氏が試合結果を見ただけで、フィニッシュ技がテキサスクローバーホールドだったことを理由に試合を酷評すれば、観客動員が不入りだったことだけを見て「長くやっただけで、つまらない試合だったに決まっている」と批判するファンもいた。確かに2000人しかいなかったのかもしれないが、その2000人を沸かせることが出来た。棚橋vs後藤戦はどん底だった新日本にとってまさしく復活のきっかけを掴んだ試合でもあった。

 棚橋は2008年1月4日の東京ドームで中邑に敗れ、王座を明け渡すも、5月の大阪では中邑が武藤敬司に敗れてしまい王座を奪われてしまう。武藤の天下が続いている間は棚橋はTNA(インパクトレスリング)へ長期遠征に出ていたが、菅林直樹社長の要請を受けて帰国、2009年の1月4日の東京ドームで武藤を破りIWGPヘビー級王座を奪還、棚橋時代が到来した。

 その後新日本はユークスからブシロード体制に代わり、V字回復に成功したが、そのきっかけを作ったのが国技館の最低観客動員から生まれた棚橋vs後藤の一戦だったと今でも思っている。

 最後に棚橋弘至のデビュー20周年ということで、棚橋のベストバウトはと思い浮かべたら、真っ先にこの試合が浮かび、振り返ってみた。

 棚橋弘至選手、デビュー20周年おめでとうございます

(参考資料 柳澤健「2011年の棚橋弘至と中邑真輔」 後藤洋央紀 柴田勝頼「同級生」 新日本プロレスワールド 棚橋vs後藤戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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