新日本プロレスvsK-1① 橋本真也の異種格闘技路線!


 1997年9月7日、K-1 GRAND PRIX 97開幕戦」大阪城ホール大会でピーター・アーツがジェームス・ウェーリングと対戦した際に、nWo Tシャツを着用して登場し、館内からどよめきが起こった。ウェーリングをハイキックでKOしたアーツは「これはチームとして、お揃いのTシャツを着ているだけですが…」と説明し、nWoの意味すらわかっていなかったが、大会後に石井和義館長が「11月9日の東京ドームで行われる決勝戦には蝶野正洋、グレート・ムタにアーツのセコンドに付いてもらいたい、この世界を変えたい、新日本を引っ張り出したい」と発言したことをきっかけに、K-1と新日本が急接近し始めた。

 当時の新日本プロレスは長州力が現役引退を控え、蝶野とムタがnWoを率いて一大ムーブメントを起こし、後に暴走王となる小川直也がデビュー戦でいきなり橋本真也を降し、また東京、名古屋、大阪、福岡と4大ドームツアーを行うなど、絶頂期に差し掛かってはいたものの、93年4月に石井館長が「K-1 GRAND PRIX ’93 〜10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント〜」を開催して大成功を収め、また11月にはホイス・グレイシーが第1回UFCでウェイン・シャムロック、ジェラルド・ゴルドーを破って優勝、ホイスより10倍強いと言われるヒクソン・グレイシーも初来日して圧倒的な強さを見せ、UWFインターの安生洋二が道場破りを敢行した際にも返り討ちにし、1995年5月にはリングスの山本宜久を破るなど、次第に格闘技の波がプロレス界に押し寄せようとしていた。

 石井館長のアピールに新日本プロレスは早速反応し、長州と共に現場を取り仕切っていた永島勝司企画部長が「新日本としては受けて立ちます、K-1が誰かを送り込んでくるなら、ウチは橋本が受けて立ちます」と発言した。この頃の橋本は佐々木健介に敗れてIWGPヘビー級王座から転落したばかりだったが、まだトップを明け渡すつもりはなく、新しい路線を模索していたタイミングでK-1との対抗戦の話が舞い込んできた。橋本は柔道家であるアレクセイ・チューリン 、ボクサーとして新日本のリングに上がっていたトニー・ホームと対戦するなど異種格闘技戦の経験があり、また橋本自身も「僕は師匠である猪木さんに勝ちたい、超えなければいけないという気持ちが強くあります。いまだに猪木さんが現役でバリバリであるかのように、僕らが比べられたり、同じ目線で見られることは僕にとって最大の屈辱、言い方は悪いかもしれないけど、早く誌面から猪木さんの名前を少なくしなければならない」と新日本から猪木カラーを薄め、橋本カラーに染め上げたい野心を持っていたことから、K-1との対抗戦で自身の存在を大きくアピールしたかったのかもしれない。

9月23日、新日本プロレス「格闘CLIMAX」日本武道館大会でK-1から橋本への刺客としてがジーン・フレジャーが送り込まれ、異種格闘技戦で対戦した。フレジャーは空手の経験があるだけでなく、95年9月に行われた「バーリトゥード・バーセプション」で大日本プロレスの所属だったケンドー・ナガサキを36秒でKOするなど、プロレスファンからも知名度があった格闘家だった。試合ルールはMMAではなく異種格闘技戦ルールで行われたが、第1Rでは橋本はフレジャーのパンチを不用意に食ってダウンしてしまい、タックルからヒールホールドを極められてしまう。2Rも橋本の爆殺ミドルをフレジャーにキャッチされて、右ストレートを食らってダウンする。3Rで橋本はローキックで活路を見出し、一本背負いで投げると、受身を知らないフレジャーは大ダメージを負い、最後はフレジャーのキックをキャッチした橋本がツバメ返しから、三角絞めで捕らえてギブアップを奪い勝利も、内容的にも大苦戦で、橋本も「勝手が違う」と満足せず、戸惑いを隠せなかった。

それでも橋本は異種格闘技路線を継続し、11月には「K-1 GRAND PRIX95開幕戦」でアーネスト・ホーストと対戦したキックボクサー、フーベルト・ヌムリッヒと対戦、1ヶ月前の10月11日「PRIDE1」で高田延彦がヒクソンに惨敗して、プロレス最強神話が崩れ始めていたこともあり、橋本も大きなプレッシャーがかかったが1Rでヌムリッヒの打撃に3度もダウンし、2Rで橋本がアキレス腱固めから膝十字、フレジャー戦で決め手になった一本背負いから腕極め袈裟固めでギブアップを奪い勝利を収めるも、フレジャー戦同様大苦戦、それでも橋本は「もっともっと、強いヤツとやらせろ!強いヤツを呼んで来い!」と異種格闘技路線の継続をアピールする。

 橋本は98年1月4日の東京ドーム大会でデニス”ハリケーン”レーンと対戦、レーンは佐竹雅昭とも対戦しており、佐竹自身も橋本戦に興味を抱いていたことから注目の一戦となり、また橋本もこの大会を持って長州が”引退”することもあって、”猪木や長州ではなくオレの時代だ!”と示すためには負けられないだけでなく内容も残さなければいけない試合だったが、橋本が胴タックルを仕掛けたところで橋本の135キロの体重がレーンの膝にかかってしまい、膝前十字靭帯を断裂したレーンはそのまま動けなくなって試合はストップ、94秒で橋本はTKOで勝ったものの、不完全燃焼に終わってしまい、橋本は異種格闘技路線から撤退してしまった。

 K-1も橋本相手にアーツやホーストと比べて格落ちする相手を刺客として差し向けたのは、橋本にK-1のトップクラスの選手と渡り合えるかという力量を試したという部分はあったと思う。レスラーの打たれ強さを過信したのか、相手の打撃の防御に橋本は対応しきれていなかった。3戦とも勝ってこられたのは柔道の引き出しのおかげでもあったが、トップクラス相手にそれが通用していたかどうか…

 異種格闘技路線から撤退した橋本だったが、引退したはずの長州が引き続き現場監督として仕切り続けたことで、長州だけでなく新日本プロレスとも対立し始め、1999年1月4日の東京ドームでの「ドーム事変」で小川にセメントマッチを仕掛けられ、以降は転落の一途をたどったが、橋本の転落は異種格闘技路線の失敗から既に始まっていたのではないだろうか…、

 (参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.26 「格闘技の波」新日本プロレスワールド、橋本vsレーン戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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