武藤全日本から誕生した極悪ユニット、ブードゥー・マーダーズ誕生!


7月24日、WRESTLE-1からリリースが発表された。

WRESTLE-1 9月1日、横浜文化体育館大会にTARUが参戦し武藤敬司と遭遇するというのだ。

2005年1月2日、全日本プロレス「新春シャイニングシリーズ」開幕戦の後楽園ホール大会にある男が現れた、その男はTARU、前年度に偽者グレート・ムタとして新日本プロレスに参戦していたジョニー・スタンボリーのマネージャーとしてそのままセコンドに着き館内を驚かせた。

TARUは1996年に武輝道場の一員としてWARでデビュー、その後メキシコに渡ってウルティモ・ドラゴンの闘龍門に入り、CIMA、SUWA、スモー・フジ(ドン・フジイ)と知り合ってCRAZY MAXに合流、CRAZY MAXではマネージャーを兼務しつつ現役としてもリングに上がり、また”ハリウッド”ストーカー市川とお笑いプロレスもやるなど幅広い活動をしていた。ところが2004年に闘龍門がDRAGON GATEへと体制を変え、創始者であるウルティモから卒業したことで、新体制移行に疑問を持ったTARUは退団してフリーとなると、全日本プロレスの関係者がTARUに接触、全日本参戦に向けてオファーをかけた。

 この頃の全日本は武藤敬司体制となっていたが、武藤は全日本を自身のカラーに染め上げるために団体の方向性を模索していたが「どの団体を見渡して、悪者っていねぇんだな。 ベビーフェースマッチしかおこなわれていねぇんだ」と勧善懲悪的なヒールユニットがないことに疑問に思っていた。 
  全日本プロレスは四天王プロレス時代以降、ユニットはあってもベビーフェース同士の真っ向勝負が当たり前になっており、三沢光晴らが離脱して、馬場元子体制になってからもそれが続いていた。 
 全日本は外国人選手を活性化させるためにTAKAみちのくと太陽ケアが中心となってRODというヒールユニットが誕生させていたが、MCを行うTAKAの軽妙なトークでメンバーの素の人間性が伝ったことがきっかけとなって、 女性ファンから支持を集めてしまい、当初は外国人ヒールユニットとして売り出すはずがベビーフェースユニットへと変わってしまっていた。

 TARUは1月16日の大阪府立体育会館大会から本格参戦を果たし、スタンボリーと組んで武藤&本間朋晃組と対戦、勝利を収めた後で大の字の武藤にTARUが全日本の旗をかけて、その上に黒スプレーで「Voodo Muders ブードゥーマーダーズ」と書きなぐり、ヒールユニット”ブードゥー・マーダーズ”が誕生した。最初こそはTARUとスタンボリーだけで始めたユニットだったが、TAKAのRODに対抗して「世界中のマフィアが集まってくるねん!」と勢力を拡大させ、WWEで活躍していたチャック・バルンボが合流、この時点ではRODと同じ多国籍軍の様相を見せており、スタンボリーとバルンボだけでは戦力不足なのではと思われていた。

 2月16日、国立代々木第二競技場第二体育館大会でTARU&スタンボリー&バルンボvsTAKA&ブキャナン&リコとの6人タッグ戦で、RODがVMを圧倒して誰もがRODが勝利かと思われていたところで、近藤修司と”brother”YASSHIの二人が突如乱入してTAKAに合体技のバビロンを投下する。近藤とYASSHIは大鷲透、菅原拓也、高木”ジェット”省吾らとDRAGON GATEでヒールユニット”悪漢一色”を結成していたが、素行不良を理由に昨年末の大晦日で悪漢一色全員解雇されていた。
 試合はVMが勝利で近藤&YASSHIがVM入りを果たし、大鷲ら悪漢一色のメンバーも合流かと思われたが、全日本もさすがにそこまでの余裕もなく、TARUも近藤とYASSHIだけに留めた。TARUが二人を誘った理由はタッグチームとしてもコンビネーションがいいだけでなく、ジュニアのチームが出来ればマッチメークにバリエーションが増えるという考えた上で、DRAGON GATEから離れた二人を勧誘したのだ。近藤とYASSHIが合流してからはVMは他団体からもオファーを受けることもあり、他団体では外国人勢も使えないことから、TARU&近藤&YASSHIだけで参戦することもあった。そういった意味では近藤&YASSHIが加わってからVMは本格始動したと言ってもいいだろう。

 VMには上井文彦氏のブッキングで参戦していたジャイアント・バーナードも加わり、大会前のMCでTAKAのRODタイムに対抗して、VMタイムも行われ、また時には互いのユニット同士がMCに乱入してやりとりするなど、双方のユニットによるMCタイムは武藤全日本の名物となった。しかしバーナードが新日本に移籍、スタンボリーも全日本から離脱してしまい、VMはメンバー不足に陥ってしまってしまう。VMが誕生してから1年目がまもなく経過する2006年の1月8日の大阪府立体育会館大会で、TARUが小島聡が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦し、TARUは悪の限りを尽くして善戦したが小島のラリアットの前に敗れ、小島の防衛でハッピーエンドと誰もが思っていたところで、諏訪間幸平が小島をジャーマンで投げKOし、VM入りを果たす。諏訪間は2004年にデビューして全日本が大きく期待していた新人だったが、スランプで伸び悩んでいただけでなく、小島に対して面白くない感情もあってVM入りを選択、リングネームも諏訪間の”間”を”魔”にして諏訪魔と改めた。

 諏訪魔、そして元WWEのRO’Zも加わったことでVMも息を吹き返し、諏訪魔自身もTARUの下でヒール修行したことで、自身のプロレスの幅を広げ、成長の糧とした。2月17日の後楽園大会ではRODとユニット解散をかけた8人タッグ戦では、RODの一員だったディーロウ・ブラウンとブキャナンがRODを裏切ってVM入りとなり、総崩れになったRODは敗れて解散に追いやられ、勢力拡大に成功したVMが名実共に全日本のNo.1ユニットとなった。

そのVMの晴れの舞台となったのは2006年8月27日、両国国技館で行われた馳浩引退試合の相手としてTARU、諏訪魔、YASSHIのVMが抜擢され、大会には来賓として森喜郎前総理大臣が招かれていたが、YASSHIが森全総理に「おい!森!オマエ悪そうな顔しとるね!それとお腹に何が詰まっとるね!お金か!オマエがそんなやから日本は悪巧みしとるんや!」とマイクで挑発してしまうと、試合中の場外乱闘ではTARUが森前総理に掴みかかり、森前総理もイスを持って応戦しようとする。この事態に慌てた馳がTARUを制止するが、これには森氏の事務所から全日本側は散々怒られてしまうも、これがテレビのスポーツ紙に掲載されるだけでなく、ワイドショーでも放送されてしまい。VMのヒールとしてのステータスを高める結果となった。

 諏訪魔は後年「先輩も後輩もないしVMでは伸び伸びプロレスをやることが出来ましたね。それにTARUのオジキも、近藤君も、ブラザーも…みんなプロレスのことを本当に考えていた。プロレスは考えるものなんだというものを教えていただきましたよ、プロレス頭があれば会場の空気を支配できる。あれは快感でしたね、試合を引っ張っていけるしね、あと、悪いことやるのがすげ面白かった」と語った。天龍源一郎は「ベビーフェースは技を浅く知っているだけで試合は成り立つ、でも観客の空気を理解して、試合の流れをいろんな方向へ持っていくのはバットガイ(ヒール)だから」と語っていたが、VMはまさしく考えるプロレスの集団だったのだ。

2007年には三冠王座から転落し、新しい路線を模索していた小島も加わるが、小島と折り合いが悪かった諏訪魔が面白くなく、世界最強タッグに優勝を逃したことで小島と諏訪魔か仲間割れしてVMを離脱、本隊へ戻り、また小島もヒールに馴染めなかったのか、新日本時代の相棒だった天山広吉とのテンコジタッグを再結成し、近藤も全日本の所属、YASSHIも家業を手伝うために離脱していった。TARUは「ブードゥの関係は横一線、いつ抜けてもいいし、いつ辞めてもええ、ただ、ここを利用して自分らで上がることを考えろっちゅうのが、オレの考えだった」と言っていたとおり、小島やYASSHIはともかく、諏訪魔と近藤はVMから学ぶべきものは全て学んだと考えた上の離脱で、TARU自身も二人はVMから卒業して巣立っていったと受け止めていたのかもしれない。VMもメンバーを入れ替えて存続、小島が全日本内ユニットであるF4、フリーで参戦してきた鈴木みのるのGURENTAIが誕生しても、VMは本隊を含めてそれらのユニットと渡り合い、F4との解散マッチではTARU自身が白装束となって臨み、TARUドリラーで小島から3カウントを奪ってF4を解散に追い込み、自ら体を張ってVMを守り抜いた。

 2011年3月11日、このときのVMのメンバーはKONO(河野真幸)、ジョー・ドーリング、レネ・デュプリ、稔(田中稔)、MAZADA、スーパー・ヘイトに代わっており、宮城県石巻市体育館に向かうために東北自動車を移動バスで走っていたが、移動中に東日本大震災が発生する。移動バスも高速を降りると、街中にいた負傷者を乗せ、多賀城市内の病院へと搬送、そして会場へ向かうが津波警報が鳴り響き、移動バスは高台へ移動するも、展望台のある休憩エリアにも津波が押し寄せて水位が増してきたため、山道へと非難しそこで遭遇した自衛隊のアドバイスを受けて、深夜に仙台に辿り着いたが、TARUが目の当たりにしたのは震災に遭遇した被災者達の姿だった。
 TARU自身も1995年1月17日、阪神淡路大震災に遭遇したことがきっかけとなって「好きなことをやろう」とプロレスラーになったことから「プロとして、精一杯、悪をやってきたけど、やっぱり人間としてやらなあかんと。ヒールはリング上のことであって、リングを降りたら人が困っていたら手助けせえへんのかというのは、”オマエの親が困ったらどうするねん?ちゅうことや」と考え、ヒールの顔を捨てて「やらぬ善より、やる偽善」をキャッチフレーズにTARU基金を立ち上げ、義援金を募り、電力事情の厳しい中で強行開催された3月21日の全日本プロレス両国大会ではVMの初のチャリティーサイン会を開催、また休業中だったYASSHIも駆けつけ「ご機嫌ちゃんを東北に送ろう!」とパフォーマンスすれば、TARUも「東日本、元気になれよ!まあそういうこっちゃ!」と締めくくり、震災にうちしがれた東日本にエールを送った。

 しかしそのVMが唐突に終わる事件が起きた。5月11日にヘイトがKENSOとの試合後に急性硬膜下血種で倒れる事態が発生、試合前の控室でTARUが口論からヘイトを殴打したことが明らかになる。事件の原因はヘイトこと平井伸和はTARUにとってWAR参戦時からの先輩で、同じ神戸の出身だったこともあり、TARUは先輩を自身の子分として平井を起用することに気を使っていたが、気を使えば使うほど双方に鬱憤が溜まりだし、TARUが平井の態度の悪さを叱り、反省の色が見られなかったことがきっかけになって口論となり、トラブルに発展したという。
 TARUは無期限謹慎を自ら申し出て、全日本もVMの強制解散を決定、全日本から追われたTARUは事件に関わったMAZADAと共に傷害容疑で逮捕され、裁判の結果、平井が倒れたこととの因果関係が不明であるため、傷害罪には問えず、罰金30万円の略式命令を受けた。事件は対応に仕方を巡って会長である武藤の責任を問われ、またこの事件がきっかけになって武藤と和田京平レフェリーの対立も表面化して、武藤が京平レフェリーを解雇するなど、武藤全日本にとっても今後の行方を左右する事件となってしまった。そしてそれ以降TARUはマット界から姿を消し、VMというユニットは消滅した。

 TARUは後年「事件に関係なく、もう解散するしかなかった。あるいは他の団体に殴りこむという形にした考えられなかった。VMを始めた時から”ヒールユニットは3年で終わり”と思っていたのが、倍の6年以上もやっているうちにファンの支持を受けるようになって、ベビー扱いされるのと俺らのしごとにならんのでね」と告白していたが、VMはヒールでありながらも全日本に長く活躍したことでファンから支持を受けるユニットになってしまっていた。TARU自身も戸惑い、また今後のあり方にも悩んでいたと思う、そういった意味では東日本大震災や暴行事件はVMやTARU自身のあり方を考えさせられた出来事だったのかもしれない。

 2013年1月に佐々木健介の団体であるダイヤモンドリングに突如乱入したYASSHIはリング復帰を宣言すると、アパッチプロレス軍を離脱していた拳剛が加わってVM再興を宣言、これをきっかけになったのか休業していたTARUも復帰を決意し、VMは再興され、ダイヤモンドリングでは宮原健斗を引き入れ暴れまわったが、後の全日本の不動のエースとなった宮原も諏訪魔と同じ、TARUの下で修行することで、今後の土台をしっかり作り上げていった。
 VMはZERO1へ転戦したが、YASSHIが再び離脱したことを契機に、拳剛もみちのくプロレスの所属になり、VMの看板はTARU一人が背負うことになるも、現在クリス・ヴァイス、横山佳和、将軍岡本を率いてVMを存続させ活躍中、また暴行事件意向疎遠となっていた武藤敬司とも2017年11月の信州プロレスでグレートムタとのタッグという形で再会した。TARUにとってVMは育ての親であり、自身が背負っているもの、まさしくTARUの人生そのものなのかもしれない。

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