馬場vsエリックから始まった日本武道館におけるプロレス興行

1966年12月3日 日本プロレスが初の日本武道館興行を開催した。日本武道館は東京オリンピックの1年前である1964年9月に日本テレビの社長である正力松太郎の主導で柔道会場として設立されたが、建設費用40億もかけたこともあって大半を借金で賄ったことから、柔道だけでなくプロスポーツ、またコンサートなどイベントなど多目的会場として使用されることになり、1965年11月30日のファイティング原田vsアラン・ラトギスのボクシングを皮切りにプロスポーツが武道館に進出、1966年6月30日にはビートルズが来日して武道館での日本公演が実現し、これらは全て日本テレビで放送された。

プロボクシングが解禁されたことを受けて、プロレスも武道館に進出ムードが高まり、当然日本テレビも日本プロレス側に打診したが、日本プロレスは武道館どころではなかった。1965年から日本プロレスはジャイアント馬場がディック・ザ・ブルーザーを破りインターナショナルヘビー級王座を奪取したことをきっかけに馬場路線がスタートしたが、その代わりに力道山死去後に社長兼エースだった豊登が馬場の台頭でエースの地位すら危うくなるだけでなく、ギャンブル好きから来る数々の横領も発覚したことで社長の座も追われて日本プロレスから離脱、海外武者修行を終え日本プロレスに戻ろうとしたアントニオ猪木をハワイで口説き落としてから東京プロレスを設立していた。

 日本プロレスは馬場路線をスタートさせたものの、これまでエースを張っていた豊登の離脱の影響は大きく、また馬場がエースとしてファンからまだ認知されていなかったこともあって観客動員も低下、日本プロレスとしても馬場路線確立のために、敢えて冒険はせず、都内のビックマッチは蔵前国技館か東京体育館で留めており、これらの会場より集客力がある武道館を満員にする自信はなかったた。ところが豊登&猪木の東京プロレスが蔵前国技館で旗揚げ興行を開催することが発表されると、日本プロレスも東京プロレスに対して「老舗の貫禄」を見せつけるため武道館に進出せざる得なくなった

通常のカードでは武道館の満員に出来ないと判断した日本プロレスは、まだ見ぬ未来日の強豪を呼び寄せることになり、テキサス州ダラスを主戦場にしていた”鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックに白羽の矢を立てた。外国人ブッカーであるミスター・モトを動かして交渉を開始したが、エリックは北米エリアから海外には出たことのない多忙な大スターでだけでなく、ダラスではプロモーターとしても活躍していたこともあって、スケジュール調整に難航していたが、11月28日~12月3日の特別参戦扱いで来日交渉がまとまり、エリックの初来日と共に日本武道館に進出が発表されたが、馬場にしても自身が保持するインターナショナル王座の権威を高めるためには、更なる大物との対戦を臨んでいたことから、エリックの来日は願ってもないことだった。

11月27日にエリックが羽田空港に到着、税関をパスして詰め掛けた報道陣を前にして日本プロレス側の指示もあって「アイ・キル・ユー、ババ」を連呼、11月28日からシリーズに合流して大阪府立体育会館大会ではいきなり馬場の保持するインター王座に挑戦、この選手権は武道館決戦に向けて前哨戦の意味合いもこめてくまれたものだったが、3本勝負の1本目は馬場が16文キックからの逆水平チョップで先取したものの、2本目は遂にエリックのアイアンクローを喰らって2本目を奪われてしまい、3本目は馬場がエリック対策でセコンドに買って出てくれたゴリラ・モンスーンがエリックの足を引っ張って場外に引きずり出したためリングアウト勝ちで辛うじて王座を防衛したものの、内容的には大苦戦するも、前哨戦で大きなインパクトを残し、またエリックみたさもあって武道館は前夜から当日券目当てで徹夜組が並ぶほど大盛況となり、チケットは全て完売となった。

カードは馬場の返上したアジアタッグ王座の決定戦と馬場vsエリックのインター選手権の二大タイトルマッチだった、新間寿氏が「興行で勝負に出るときはメイン一本で勝負に出て、セミ以下はアンダーカード」と述べていたとおり、武道館は馬場vsエリック一本で勝負に出ていた。

 試合は1本目から大阪大会同様、馬場が16文キックから逆水平チョップで3カウントを奪い1本を先取したが、カウント3が入った瞬間、エリックがカバーする馬場の頭部をアイアンクローで捕らえ、沖識名レフェリーが慌てて制止するが、アイアンクローは馬場の顔面に吸い付いたように離れず、馬場の額からは鮮血が落ちて流血となってしまう。吉村道明や星野勘太郎によってやっとアイアンクローから逃れることが出来た馬場だったが大ダメージを負ってしまい、2本目はエリックが場外に逃れた馬場をアイアンクローで連れ戻す荒業も披露して、馬場を半失神状態まで追い詰め、女性ファンからも悲鳴が起きる。遂に沖レフェリーは脱出不可能と判断して試合をストップ、レフェリーストップでエリックが1-1の対スコアに持ち込む。

 決戦ラウンドの3本目は馬場がエリックの左耳めがけて耳そぎチョップを乱打して、さすがのエリックは怯んで場外に逃れて場外戦へと持ち込み、エリックはイスを馬場の脳天めがけて殴打すると、沖レフェリーはエリックの反則負けを宣告、馬場は辛うじて防衛したが、エリックのアイアンクローのインパクトもあって反則決着にも納得するファンも多かったこともあって、興行的には大成功を収めた。

 しかし日本プロレスの武道館進出は1度だけに終わった。理由は東京プロレスは旗揚げし、旗揚げ戦は大成功を収めたとしても、後は観客動員が低下してジリ貧となり、猪木と豊登が経営上のトラブルから内紛が起きて、東京プロレスは崩壊、猪木は1部の選手と共に日本プロレスへ復帰したことで、当面上の脅威が去っただけでなく、武道館の使用料がまだこの当時が高額だったこともあって、日本プロレスにとってメイン会場として使うのにはリスクが多かったこともあって、使用されることはなく、全日本プロレスと国際プロレス合同で1975年12月11日に「力道山追善興行」開催されるまでは、9年間使用されることはなかった。

 その後、新日本や全日本などが武道館をメイン会場として使用し、UWFや全日本女子プロレスなども使用することがあったが、90年代後半からは全日本がジャンボ鶴田&天龍源一郎による鶴龍時代からメイン会場として定着させ、その後NOAHが後を引き継ぐようにして武道館興行を定着させていたが、NOAHが撤退してからはDDTが使用するも、2013年に開催された 小橋建太引退興行からプロレス興行から使用されることはなくなった。

 2018年に新日本プロレスが「G1 CLIMAX28」から3連戦という形で武道館興行を復活させ、2019年も3連戦で開催されることになったが、G1終了と同時に武道館は来年の東京オリンピックに向けて改修工事に入るため、現状での武道館での興行は新日本でラストになる。

 来年は武道館もおそらく改築されるだろう、果たしてプロレスは再び進出するのだろうか・・・

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.18 会場・戦場・血闘場」)

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。