ハーリー・レイス


 ”美獣””ミスタープロレス”の異名を取りNWA世界ヘビー級王座にも8度戴冠したハーリー・レイスさんが肺ガンで1日、死去した。享年76歳

 レイスさんは世界ヘビー級王者だったスタニスラウス・スビスコのコーチを受け、15歳でデビュー、観客から挑戦者を募って勝負するカーニバル・レスリングにおいてシュートの実戦経験を積んだ後で1960年に通常のプロレスに進出、ドリー・ファンク・シニアに招かれてテキサス州アマリロに転戦した際には20歳でブッカー業も務めシニアをサポート、1964年には海外武者修行中だったアントニオ猪木とも対戦した。

 AWAに転戦した後で、1968年2月に日本プロレスに初来日、ディック・ザ・ブルーザーとのコンビでジャイアント馬場&猪木のB・I砲の保持するインターナショナルタッグ王座に挑戦、その後ファンク一家の一員としてNWA王者だったドリー・ファンク・ジュニアの初来日に帯同、1973年にはそのドリーを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取、その後テリー・ファンク、ダスティ・ローデス、リック・フレアーからも奪取して8度戴冠した(8度目はNWA本部が認めなかった選手権だったため王座移動は認められなかった。)

 その後は全日本を主戦場として馬場だけでなく、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラス、ディック・マードックとNWA王座をかけて対戦し、馬場には2度明け渡したが、1週間後にすぐ奪還。ブッチャーとは路上で乱闘を繰り広げるストリートファイト事件を引き起こした。またリック・フレアーが王者となってNWA王座戦線から一歩後退した後は全日本に度々参戦し、鶴田からUNヘビー級王座、馬場からはPWFヘビー級王座を奪取、世界最強タッグ決定リーグ戦にも4度エントリーし、AWA世界ヘビー級王座だったニック・ボックウインクルとのタッグも実現させ、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビとも対戦した。

 アメリカではミズーリ州セントルイスやカンザスを主戦場にしており、NWAミズーリ州ヘビー級王座を7度奪取したが、1986年からは凋落するNWAに見切りをつけてWWFに移籍、”キング”ハーリー・レイスを名乗り、ハルク・ホーガンにも再三挑戦した。

 WWF退団後に1989年4月に全日本に参戦の後はWCWでベイダーのマネージャーを担当したが、1995年に交通事故で正式に引退、主戦場にしていたミズーリ州でWLWを主宰して後進の指導に当たり、三沢光晴のプロレスリングNOAHと定型して選手を派遣、また自らもGHC管理委員長にも就任、2004年にはWWE殿堂入りを果たした。

 2014年には新日本プロレス1月4日の東京ドーム大会に招かれ、NWA世界ヘビー級選手権試合の特別立会人を務め、レイスを挑発したブリース・サープ会長を殴るなど見せ場を作ったが、これが最後の来日となった。

その後介護施設に入所していたが、近年ではプロレスイベントには参加して武藤敬司と写真に納まっていた。しかし7月になってイベント出演をキャンセルして闘病に専念していた。

 自分がプロレスファンを始めた頃にはフレアーが王者となっており、レイスがNWA世界ヘビー級王者となって防衛戦をTVで見たのは1982年の鶴田戦とテッド・デビアス戦で、生で初めてみたのは1986年3月4日の大阪城ホール大会でワンマン・ギャングと組んで馬場&大熊元司と対戦した。受身がキレイで、また時には荒々しい試合もするなどまさしく”ミスタープロレス”だった。

ご冥福をお祈りします

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