スーパー・ストロング・マシンヒストリー②カルガリー・ハリケーンズ結成も味合わされた現実


 1号~4号まで誕生させヒロ斎藤まで加わったマシン軍団だったが、その勢いは意外と短かった。1985年3月に新日本プロレスは全日本プロレスからブルーザー・ブロディを引き抜いたことで、猪木の相手はマシンからブロディに取って代わられてしまい、マシン軍団の相手は藤波辰己にとなる。

 4月16日の両国大会で行われた藤波vsマシン1号のシングル戦で、若松のパウダー攻撃がマシンに誤爆すると、藤波が長らく使用していなかったドラゴンスープレックスを解禁して勝利も、この誤爆をきっかけにマシンと若松の間に亀裂が生じ、1号はマシン軍団を離脱し現在のスーパー・ストロング・マシンへとリングネームを改めた。

 しかし新日本は”マシン軍団を”維新軍団よりインパクトがない””もう旬が過ぎた”と見なしマシンにマスクを脱がせようとするも、マスクマンとしてに愛着を持っていたマシンは当然拒否し、それでもマスクを脱がせようとする新日本に対して不信感を抱き始める。それが決定的になったのは5月17日熊本大会でおきた藤波辰己の「オマエは平田だろう!」のアピールだった。近年にあるテレビ番組にて藤波はマイクを向けられてつい喋ってしまったと真相を明かしたが、それからマシンには平田コールが起きるようになり、週刊プロレスまでも”マシンがいつマスクを取るのか”とキャンペーンを張るなど、マシンが素顔になることを煽ったが、マシンは「平田に戻ったら藤波さんの下で一生懸命やらされる」と思い、周囲が煽れば煽るほどマスクを取ることを拒否、正規軍入りすら拒否し新日本に都合よく利用されるのは嫌だと思い始めていく。

 その矢先にジャパンプロレスから「新日本から離脱して長州と闘うポジションに立ってみないか」と持ちかけられた。マシンはマスクを脱がないことでマシン軍残党である2~4号との抗争でお茶を濁されるようになり、藤波との再戦要求も通らなかったことで、新日本の主軸から外されようとしていた。

マシンは同じくマシン軍団を離脱し正規軍入りを持ちかけられたことで新日本に行き詰まりを感じていたヒロ斎藤と共に新日本から離脱することを決意、マシンは8月5日ジャパンプロレス大阪城ホール大会に来場、長州vs谷津嘉章戦を視察し「馬場、猪木の時代は終わった!これからは俺たちの時代だ!と谷津を降しアピールした長州に共鳴してリングに上がり握手をかわした。

長州と握手するまでは新日本を離脱することで葛藤を抱えていたが、長州の一言で吹っ切れたという。表向きはマシンを歓迎していた長州だったが本当は歓迎しておらず、実際は大塚氏からマシンが現れることを後になって知らされた長州はこれ以上新日本と揉めたくないだけでなく、ジャイアント馬場の承諾も得ていなかったこともあって、マシンをリングに上げることはギリギリまで反対していた。だが聴かされた時点でマシンが大阪に来ており、予定していた長州vsジャンボ鶴田戦が鶴田の負傷欠場で中止になっていたことから、観客の不満を解消させるためには大きなインパクトを与えるしかないと考えた大塚氏に押し切られる形でマシンの参戦を認めざる得なかったのだ。

最初はマシンとヒロだけで動き出すつもりだったが、同じく新日本での扱いに不満を抱いていた高野俊二も合流、芸能事務所の後押しを受けて日本初のフリーレスラーのプロダクション「カルガリーハリケーンズ」を結成、表向きはフリーとされていたが、実際はジャパンプロレスの後押しを受けていた。

ジャパンも独立団体と謳っても実質上は全日本の衛星団体として扱われていたが、いずれは全日本から独立する計画を立てており、TBSとのレギュラー放送開始計画も水面下で進め、ハリケーンズの結成もジャパン独立の布石だった。またハリケーンズもあくまで独立プロダクションとアピールするために、第1次UWF参戦も視野に入れ水面下で参戦へ向けて交渉するなど、あくまでフリーの立場として新日本を含めた各団体に上がるつもりだった。

 しかし長州の懸念が的中し、馬場からマシンらの引き抜きに待ったをかかった。新日本は長州ら維新軍を引き抜いた報復としてブロディに続いてメキシコ遠征中だった越中詩郎、ケンドー・ナガサキの獲得に成功するなど、全日本に籍を残したまま海外に出ている所属レスラーの引き抜きに動いており、ザ・グレート・カブキやプリンス・トンガまで魔の手が伸びていることを知った馬場は大阪城大会前にNWA総会に出席するために渡米し、ロスサンゼルスで引き抜きの陣頭指揮を取る坂口と緊急会談するも、その場でジャパンがマシンらを引き抜いたことを知らされたという。ジャパンが独断でマシンらを引き抜いたことを知った馬場は坂口に「マシンらの引き抜きには関与していないし、全日本に上げるつもりはない」と坂口と約束、新日本と一時休戦し、ハリケーンズは11月に開催されたジャパンの主催シリーズには参戦したが、参戦していた全日本勢とは対戦させてもらえず、また日本テレビの圧力でTBSとのレギュラー放送計画も白紙に終わり、全日本プロレスと新たな契約を結びジャパンの独立計画も頓挫、第1次UWFも活動休止になったことで、独立プロモーションと謳っていたハリケーンズの当初考えていたプランに綻びが生じ始める。

  せっかく引き抜いたハリケーンズを遊ばせるわけにはいかなくなったジャパン側は、活躍の場を与えようとして、86年1月1日の後楽園大会から全日本のシリーズに参戦することを大塚氏が発表するが、12月15日の池上本願寺における力道山23回忌法要で、力道山の墓前で馬場と猪木が握手を交わし、双方の弁護士の立会いの下で引き抜き防止協定を締結する。それは引き抜きのリストに載った選手は外国人選手であろうが引き抜いてはいけないもので、ハリケーンズの3人も新日本との契約が残っていたため、新日本側のリストに登録され、またジャパンの選手らも全日本のリストに登録されたため完全に独立の芽を絶たれてしまう。

 自分らが新日本側のリストに登録されていることを知らなかったハリケーンズは1月1日に後楽園大会に参戦するために会場入りするも、ハリケーンズのカードはなく、全日本側から出場できないと通達を受けた。この仕打ちにハリケーンズは怒り全日本だけでなく新日本をも非難して会場を後にしたが、完全に上がる場を失ったハリケーンズは干されてしまい、全日本から新日本へ移籍しながらもトラブルを起こしたブロディも新日本側のリストに登録されたことで日本マットから締め出されてしまった。事前通告もなくハリケーンズがカードを外されたことで大塚氏も面子が潰された形となったが、事前に報告しなかったのは、自分を通さずハリケーンズを引き抜いた大塚氏に対する馬場なりの報復だったのかもしれない。

  どうにかハリケーンズに活躍の場を与えたいジャパンはテレビ朝日に違約金を払い、新日本もハリケーンズの3人との所属契約が切れる3月31日をまって引き抜き防止協定の登録から外し、晴れて全日本に参戦することが出来た。

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