キラー・カーン


新日本プロレス、ジャパンプロレス、WWF(WWE)などで活躍したキラー・カーンさん(本名=小澤正志)が死去した、享年76。カーンさん店の経営する居酒屋で勤務中に倒れ、救急搬送されたが、意識を失ったまま動脈破裂で死去したという、

カーンさんは大相撲出身で春日野部屋に所属だったが、北沢幹之に誘われたことがきっかけとなって、日本プロレス入り、1971年11月20日に木戸修戦でデビュー、最初は吉村道明の付き人となっていたが、引退後は坂口征二に付き人になった。そして、坂口が日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスの合併を画策すると、大木金太郎らの猛反対にあって孤立、大木が一方的に坂口を退団することを発表したことで、カーンさんも坂口に追随せざくなり、新日本プロレスへ移籍、カーンさんはジャイアント馬場さんを慕っており、全日本プロレス入りを希望していたこともあって、坂口を恨み続けていたという。新日本プロレスでは同期の藤波辰爾もいたこともあってしのぎを削り合い、1974年のカール・ゴッチ杯では藤波と優勝を争った。

1978年に念願だったアメリカ武者修行に出ると、メキシコでモンゴル人レスラーに変身したことがきっかけになり、アメリカに進出するとリングネームをキラー・カーンに改め、フロリダを始め、アメリカの各エリアで活躍、1980年にはWWFに進出し、MSGのではボブ・バックランドの保持するWWFヘビー級王座にも挑戦、1981年5月にはアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦した際にハプニングで右脚を骨折、これがカーンが脚を折ったことにされたことから、アンドレとの抗争が勃発、アンドレvsカーンはアメリカでドル箱カードとされた。

同年に日本に帰国して新日本プロレスにさん参戦、1982年に行われた「第5回MSシリーズ」では負傷のアントニオ猪木に代わって3位だったカーンが優勝決定戦に進出、優勝決定戦ではアメリカで抗争していたアンドレと対戦し、敗れはしたが準優勝となり、また年末の「第3回MSGタッグリーグ戦」でもタイガー戸口とのコンビで猪木&ハルク・ホーガン組と優勝争いもして、準優勝に終わった。

1983年に入ると長州力率いる革命軍に合流、ユニットが維新軍団に発展すると、カーンさんも日米を往復しながらも維新軍団の一員として活躍するが、カーンさん本人は日本でのギャラが低いとしていたことから、日本に戻ることは乗り気でなかった。

1984年にはジャパンプロレスに参加するが、長州に追随したわけでなく、社長だった大塚直樹氏を慕っての参加で、ジャパンプロレス軍の一員として全日本プロレスに参戦、ジャイアント馬場との一騎打ちも実現させた。ジャパンプロレスから造反すると、外国人側に立って長州と抗争を繰り広げ、最強タッグではテキサスでタッグを組んだテリー・ゴーディとのコンビで参戦した。

1987年にWWFに再び参戦、WWF世界ヘビー王者となっていたホーガンと抗争を繰り広げヒールとして活躍するが、ジャパンプロレスが分裂したニュースを聞くと、人間関係に嫌気をさして、ビンス・マクマホンやホーガンが止めたにもかかわらず引退した

引退後はタレントとして活躍しつつ、スナックや居酒屋や経営し、2017年には自伝も出版するが、近年はS状結腸がんを患っていることを公表、また著書でもアントニオ猪木、坂口征二、新間寿、そして長州力を批判、それが原因となって新日本プロレスとは絶縁状態となり、自身のYoutubeチャンネルでの発言や自転車事故で“ひき逃げ”と報道されるなどトラブルも抱えていた。

ご冥福をお祈りいたします

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