NETが日本テレビに追いつき追い越せと企画したタッグリーグの原点「NWAタッグリーグ」


1970年9月25日に日本で初のタッグリーグ戦である「NWAタッグリーグ」が開幕、これまで日本プロレスは初代アジアタッグ王座を決めるリーグ戦は開催したものの、本格的なタッグリーグを開催するのはこれが初めてだった。

1969年7月2日、NET(テレビ朝日)水曜夜9時から日本プロレスを中継する「NETワールドプロレスリング」の放送を開始、これによって日本プロレスは日本テレビ、NETによる二局放送時代となるが、日本プロレスのエースだったジャイアント馬場は日本テレビが独占していたため、NETはアントニオ猪木を中心とした番組編成となった。

しかし放送開始した「NETワールドプロレスリング」は高視聴率を稼いでいたわけでなかった。理由は水曜日夜9時という枠では生中継が出来ないどころか、放送するカードもタイトルマッチではなく、地方で開催する興行で行う通常の試合ばかりだった。理由は重要なタイトルマッチが絡む試合を放送することは日本テレビが独占してしまっており、NETのスタッフが収録に入ってもカードは当日に知らされることもあった。だがNETは日本テレビに出来ないような試合を放送しようと心掛け、猪木だけでなく星野勘太郎や山本小鉄など中堅の試合を放送するなど苦心していた。

そのかいがあって8月からアジアヘビー級選手権、アジアタッグ選手権の放送が出来るようになり、会場も愛知県体育館と大会場とあって実況アナウンサーだった舟橋慶一などは燃えに燃えたが、大物外国人が絡むカードは日本テレビが独占してしまっており、シリーズ展開も日本テレビに中心に進んでいるため、NETは前哨戦やストーリー展開が出来ない細切ればかりの放送をせざる得なかった。
11月にはNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアが初来日を果たすと、日本テレビとの取り決めで”NETはNWA世界選手権は放送することができない”という条項が入っていないことを大いに利用して、ドリーvs猪木のNWA世界ヘビー級選手権を放送するこちに漕ぎつけ、試合もすぐ放送することはなく、大晦日の紅白歌合戦の裏番組にぶつけるなど、ワールドプロレスリングや猪木という存在を大きくアピールしてきた。

しかし1970年に入っても、いい対戦カードは日本テレビが持っていく状況が続き、なかにはNETのミスで日本テレビとバッティングしてしまい、リングサイドに双方のテレビ局の実況席が設けられる大会もあるなど悪戦苦闘していた。その「ワールドプロレスリング」も4月から月曜夜8時に放送枠を移動し、念願だった生中継を実現、日本プロレスが独占していた坂口征二の試合、春の本場所である「ワールドリーグ戦」の公式戦も放送出来るようになったが、公式戦でもいいカードは全て日本テレビが独占して、NETは消化試合のようなカードばかり放送していた。

そこで企画されたのが「NWAタッグリーグ」だったが、発案は「ワールドプロレスリング」の放送を強く推していた遠藤幸吉でNETも開催へ向けて日本プロレスに訴え実現したものだった。当初は「ダイヤモンドタッグリーグ」と命名されたものの、ダイヤモンドは日本プロレスの大スポンサーである三菱電機のシンボルマークだったため、加入していたNWAを冠にした名称に変更となった。日本プロレスもゆくゆくは春の本場所である「ワールドリーグ戦」に次いで、「NWAタッグリーグ」を秋の本場所として成長させるつもりだったという。
そしてチーム編成は外国人側はアニー・ラッド&ロッキー・ジョンソン、ニック・ボックウインクル&ジョニー・クイン、ラーズ・アンダーソン&ボブ・ループ、フランキー・レイン&バット・ラテールの4チームで、ラッドはアメリカンフットボールとプロレスで掛け持ちでデビューしており、アメフトのオフシーズンを利用してリングに上がっていたが1969年からはプロレス一本に専念するようになり、NWA、AWA、WWWFなど各王座を挑戦するなど売れっ子だった。またジョンソンはロスアンゼルス中心に活躍しており、両者のサイズとファイトスタイルの相違点がBI砲と通じていたことから、優勝候補の筆頭と目されていた。
注目の日本陣営は「馬場の試合は日本テレビの独占」というの取り決めによりNETで放映できないという事情もあり主力選手が個別に若手選手とタッグチームを編成することになり、マスコミの公開で厳選な抽選が行われ、馬場はミツ・ヒライ、猪木は星野勘太郎、大木金太郎は山本小鉄、吉村道明はグレート小鹿と組むことになった。

リーグ戦の形式は45分3本勝負、日本チームvs外国人チームの2回ずつ対戦する総当たり戦形式で行われたが、いざリーグ戦の蓋を開けてみると外国人チームの本命とされていたラッド&ジョンソンのチームワークが悪く思うような星を稼げない、その代わり外国人側のトップに立ったのはニック&クインだった、ニックはNWA世界ヘビー級王座候補の一人に挙げられおり、クインは国際プロレスに来日しIWAタッグ王者にもなるなど、シングルだけでなくタッグにも長けた選手だった。
日本陣営は猪木&星野組がラッド&ジョンソン組と1回戦には負けたが、2回戦では勝利を収めるなど好成績を収め、2敗を喫した馬場&ヒライ組を押さえて優勝決定戦に進出する。猪木と星野のコンビ、星野はプライベートでも猪木を兄として慕い、猪木も星野のケンカ強さを大いに買うなど、信頼関係が強かった。優勝決定戦の相手は下馬評を覆してラッド&ジョンソンを押さえて進出したニック&クインで2回行われた公式戦でも全て引き分けに終わるなど、3度目の正直での決着戦となった。

優勝決定戦は60分3本勝負で行われ、1本目は33分という長期戦となってニックのスープレックスで星野が3カウントを奪われ選手となるが、インターバルになるとセコンドの佐藤昭雄が星野に水を差し出そうとすると、猪木は「飲むな!絶対飲んじゃいかん!」とたしなめる、猪木は星野に水を飲ませると、星野はスタミナ切れだと相手に察せられてしまうということで水を飲ませなかったというが、後年になって星野本人によると「絶対飲んだと思うよ、それはマスコミのつくり話だよ、あんな長い試合になって、インターバルに水を補給しなかったら死んでしまうよ」と全面否定していた。

2本目は星野が捕まる展開になるも、星野がサマーソルトドロップをクインに連発して3カウントを奪って、1-1のタイスコアとなり、残り時間は11分10秒、3本目も決着がつかずに時間切れ引き分けとなり、ルールの則って時間無制限1本勝負へ延長戦をへと突入する。
延長戦はニックが猪木を攻め込んだが、猪木はコブラツイストからの卍固めでニックを捕らえ、星野もクインをフライングヘッドバットで排除するアシストぶりを披露、ニックがギブアップとなって猪木&星野組が優勝を果たし、星野にとっても「プロレスラー人生で一番思い出深いのはあの試合だよ。猪木さんと一緒にやっていこうと決意が固まったのも、あの試合だった」と答えるなど、星野にとってレスラー人生を左右する試合となった。

だがNET的には面白くなかった。理由は「NWAタッグリーグ」はNETが最も推していた企画だったにもかかわらず、好カードは全て日本テレビにもっていかれ、猪木&星野組の公式戦を放送したのもたった2回のみで、優勝決定戦に至っては日本テレビが放送したからだった。さすがにNET側も日本プロレスに抗議したものの、「馬場&ヒライが優勝決定戦に進出したら、NETは撮れないでしょ」と逃げられてしまい、美味しいところは日本テレビに持ってかれる結果となって、また全体的にも視聴率もイマイチで、観客動員も今一つに終わるなど、まだまだ猪木単独では数字が稼げず、「タッグリーグ」は根付かないことを現わしてしまった。

1971年には「第2回NWAタッグリーグ」も開催したが、この頃には猪木は念願のシングル王座であるUNヘビー級王座を奪取するだけでなく、女優である倍賞美津子と婚約するなど、存在感が大きくなっており、それと共にNETも発言力を大きくさせていた。この年の猪木は後に黄金コンビを組むことになる坂口と組み、星野は本来のパートナーである山本小鉄とのヤマハブラザーズでエントリーしていたが、NETの期待通りに猪木&坂口が優勝決定戦に進出し、キラー・コワルスキー&バディ・オースチン組を破って優勝、優勝決定戦はNETが放送し、実況席のゲストに翌日に猪木との結婚式を控えた婚約者の倍賞美津子を招くなど、猪木優勝に花を添えた。これで「NETワールドプロレスリング」も上昇気流に乗るかと思われたが、とんでもない事態が起きる。

12月に猪木が「会社乗っ取りを企てた」として日本プロレスから追放されるというクーデター事件が起きてしまう。番組の主役を失った「NETワールドプロレスリング」は坂口や大木などで穴埋めしようとしたが、視聴率が下がったことを受けて、日本テレビとの取り決めを破って馬場を登場させるも、日本テレビが激怒して日本プロレスの中継を打ち切り、日本プロレスの中継はNETが独占となるが、今度は馬場が日本テレビからの誘いを受けて独立してしまい、日本プロレスから離脱してしまう。
そういう状況の中で「第3回NWAタッグリーグ」が開催され、前年度覇者である坂口がアメリカから呼び戻された高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)と組み、ラリー&ジョー・ハミルトン兄弟を破って優勝を果たすが、「NWAタッグリーグ」はこれが最後となり、翌年には日本プロレスは崩壊する。

星野は「第3回NWAタッグリーグ」にはエントリーせず、翌年に人員削減をするために海外へ出されたが、海外で日本プロレスの崩壊を迎えた。星野はしばらく海外でフリーとして活動した後、1974年1月に新日本プロレスへ入団、以降は選手だけでなくプロモーターとしても猪木だけでなく新日本プロレスを支えた。ニックはAWAへ転戦するとレイ・スティーンブンスとタッグを組んでAWAタッグ王座を奪取、またAWA世界ヘビー級王座を奪取するなど活躍、クインは1980年に国際プロレスに参戦、1984年「第2回IWGP」にエントリーするために新日本プロレスに参戦、猪木ともシングルで対戦したが、既にピークが過ぎていたためいたためかあっさり敗れ、リーグ戦の戦績も芳しくなく、2度と日本に来日することはなかった。

タッグリーグ戦は5年間開催されなかったが、1972年12月に全日本プロレスが「世界オープンタッグ選手権」として開催、爆発的な人気を呼んだことで翌年から「世界最強タッグ決定リーグ戦」にシリーズ名を改め、現在も続くロングセラーブランドとなった。その後、新日本プロレスを含めた各団体がタッグリーグ戦を開催したが、その原点はNETが日本テレビに追いつき追い越せと企画した「NWAタッグリーグ」であることは永遠に記される。
(参考資料=辰巳出版 Gスピリッツ Vol.55 特集UWF Vol.57 特集BI 馬場と猪木 Vol.58 特集 武藤敬司&グレート・ムタ ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史 Vol.14 タッグの行方)

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