ジャイアント馬場が日本人初のNWA世界ヘビー級王座奪取!偉業達成の裏側…


1973年2月4日、ミズーリ州セントルイスにてNWA緊急総会が開かれ、全日本プロレスがNWAに加盟することが出来た。旗揚げしたばかりの全日本プロレスがNWAに加盟出来たのも、旗揚げに協力したドリー・ファンク・シニアの尽力によるものであり、全日本プロレスはNWAの各エリアから外国人選手を呼ぶことが出来るようになった。

1974年1月には念願だったNWA世界ヘビー級王者が全日本プロレスに来日することになり、シリーズ名も「’74新春NWAチャンピオン・シリーズ」と銘打たれ、現王者だったジャック・ブリスコ、前王者のハーリー・レイス、元王者のドリー・ファンク・ジュニアだけでなく、NWA会長だったサム・マソニックも来日するなど豪華さをアピールした。

全日本プロレス旗揚げ時のNWA世界ヘビー級王者はドリーだったが、1973年にレイスに明け渡し、そのレイスをブリスコが破って王者となっていた。1月23日の長崎で全日本プロレス初のNWA世界ヘビー級選手権試合がジャイアント馬場が自身のPWFヘビー級王座をかけてのダブルタイトルという形で行われるも、1-1のタイスコアの後で両者リングアウトとなって王座を奪取できず、全日本プロレスからはザ・デストロイヤーやジャンボ鶴田も挑戦したが、ブリスコを破ることが出来なかった。
だが「’74新春NWAチャンピオン・シリーズ」はブリスコvsドリーというNWA屈指のドル箱カードも実現させたにもかかわらず、思ったより話題を呼ばなかった、理由はまだ大物外国人招聘ルートを確保していなかった新日本プロレスが巨漢双子コンビであるマクガイヤー兄弟を招聘して、話題をかっさらってしまったからで、のちに馬場は山本小鉄と会った際に「あれはないよな」と双子の化け物に話題をさらわれたことで愚痴ってしまったという。

全日本プロレスは年末シリーズとして「’74NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」を開催され、12月2日~12日の日程でブリスコがNWA世界ヘビー級王座として参戦し、馬場が2日の鹿児島で挑戦することになった。この頃の馬場はアントニオ猪木から執拗に挑戦を要求をされており、その度に馬場は黙殺していたが、豊登、芳の里、大坪清隆、九州山ら日本プロレスOBが馬場に対してタイトル乱立を危惧したことして、10月10日の新日本プロレス蔵前国技館大会で行わる猪木vs大木金太郎の勝者に挑戦するように勧告書を提出して返答を要求する。勧告書は新間寿氏が豊登らOB達に金を渡して名前を借りて出させたもので、馬場は「今は私と猪木と戦っている場合ではない、お互いに自分の団体の土台を固めて、理想としている団体に育てる時期だ」と黙殺するも、日本プロレスOB達まで使っての姑息な手段にさすがの馬場も激怒していた。
馬場も勧告書を黙らせるために材料を求めていた。それがNWA世界ヘビー級王座だった。だがNWA王座を移動させるためには、NWAの許可を得なければならない。そこで馬場はNWAへボンド金(保証金)を支払うことで王座移動を認めさせた。このシステムは王者がボンド金を預ける代わりに、提示されたスケジュールはしっかりこなさなければならないというルールで、ボンド金はおそらく日本テレビが出したと見ていいだろう。

なぜ地方都市の鹿児島での挑戦になったのかというと、NWA世界ヘビー級王者を送り込むのは亡くなったファンク・シニアの後を受けて外国人ブッカーとなったドリーとテリー・ファンクのザ・ファンクスの役目だったが、ファンクスはNWA世界王者の日程を入れる時期をわかっておらず、鹿児島から最終戦である川崎までのスケジュールでしか押さえることが出来なかったためで、馬場もファンクスを通じて日程を変えて欲しいと依頼は出来たものの、馬場もまだプロモーターになってからキャリアもないことからファンクスの指示通り、その日程を受け入れてしまったのだが、馬場もNWAをどうしても欲しかったため敢えてその日程を受け入れたのかもしれない。

鹿児島で行われたNWA世界ヘビー級選手権は3本勝負で行われ、NWAからは立会人として元王者のパット・オコーナーが試合を見守ることになった。1本目は馬場が32文キックから河津掛けで3カウントを奪い先制するが、2本目はブリスコがバックドロップからの足四の字固めで捕らえてギブアップを奪いタイスコアに持ち込む。3本目も足を痛めた馬場にブリスコが足攻めでリードを奪うが、馬場はカウンターで大試合用での必殺技であるランニングネックブリーカードロップを決め3カウントを奪いNWA世界ヘビー級王座を奪取、試合後も馬場は「とにかくプロレスラーになって14年、本当にこのタイトルを取る事だけが夢だったんですよ。世界のトップランクと人にいわれるようになってからは、とりわけこのタイトルを意識してきた。それだけに嬉しいというより、本当に俺はチャンピオンになったのかなという、ほっぺたをつねってみたいような不思議な気持ち、喜びが大きすぎるのでこんな気持ちなのかもしれませんね。一晩眠ったら本当にうれしさがわいてくるかもしれない。」とアメリカ武者修行時代からの念願だったNWA世界王座を奪取したことで喜びを露わにした。

12月5日には東京・日大講堂で馬場がブリスコと初防衛戦を行ったが、この試合では馬場の保持していたPWF王座もかけることでPWFの権威を高めることが目的だった。防衛戦も1-1の後でブリスコがバックドロップを狙った際に、馬場がロープを蹴って崩して3カウントを奪い、NWAだけでなくPWFも防衛する。

しかし12月8日の豊橋大会で馬場はNWA王座のみをかけてブリスコの挑戦を受け、1-1のタイスコアの後の3本目で馬場がランニングネックブリーカーを狙った際に、ブリスコは2度同じ技は食らわないと避けて自爆させると、すかさずバックドロップを決め3カウントを奪い王座奪還に成功、馬場の天下は一週間で終わった。その後ブリスコは12日、最終戦の川崎で鶴田の挑戦を受け2-1で破り王座を防衛、王者のままでアメリカに戻ることになり、オコーナーが預かっていた保証金も馬場の手元に戻ることになった。

1974年東スポ制定プロレス大賞の式典が12月25日に行われ、猪木はMVP、馬場は殊勲選手賞を受賞したことで二人は出席することになったが、猪木は12月12日にストロング小林と再戦し卍固めで降した後、再び馬場に対して挑戦を表明し内容証明付きの公開挑戦状を提出しており、馬場が「逃げているわけじゃないし、やれないとは言いません。しかしもっと根本的な気持ちの接点がなくては難しいですね。猪木君も私も日本のプロレスをより良くしようと努力しているのは共通しているのですが、互いに所有している団体も違うし、手段、方法も違う訳です。私自身はあくまでも自分自身が考える理想のプロレスの実現、そしてプロレスを日本に根強く残すために努力していきます。」と対戦を拒否したことから、猪木が馬場に襲い掛かるのではという憶測が流れ周囲は緊張していた。だがいざ並び立った両雄は和気あいあいとしたことで、式典は盛大となったものの、馬場は”主役は猪木だ”と考えたのか所用があるためとして授賞式を中座した。

馬場は翌年の1975年8月8日にNWAの総本山ミズーリ州セントルイス・キール・オーデトリアムに乗り込んでブリスコに挑戦、1-1の後の3本目でブリスコのバックドロップを食らって3カウントを奪われ、王座奪還に失敗するが、その間に開催されたNWA総会でこれまでNWAを取り仕切っていたマソニックが勇退し、ジャック・アドキッセンことフリッツ・フォン・エリックが会長に就任する。

マソニックの勇退はNWAにとって大きな影響を及ぼすものだった。これまで認められなかった新日本プロレスの加盟申請が条件付きで認められると、NWA王座も12月10日にブリスコがテリー・ファンクに敗れ王座から転落、テリーの王座も長くはなく、1977年2月にテリーからレイスに王座が移り、レイス時代が到来する。
1979年10月30日の愛知県体育館で馬場はレイスを破って再びNWA世界ヘビー級王者となったが、この頃にはボンド金制度はなくなっており、NWA傘下のローカル団体も衰退を始めていたことから、王者はギャラの高いエリアへ優先的に派遣されるようになっていた。レイスも全日本プロレスの常連外国人だったこともあって、ギャラの高い全日本プロレスへ頻繁に参戦していたことから、馬場にとって以前よりNWA王座を奪取しやすい状況だった。

本来ならNWAの許可なしに王座移動は許されなかったのだが、レイスの独断で馬場へと移動させたものだった。王座は11月7日の尼崎でレイスが奪還したが、NWAはレイスを問い詰め、レイスは「試合中に頭を打って…」とハプニングだったととぼけきり、またレイスのバックにはNWAの実力者であるボブ・ガイゲルが着いていたため、NWAもレイスを深く追求できなかった。レイスは後にダスティ・ローデス、そして再び馬場へと王座を奪取させ、短期間ですぐ奪還したが、それを考えるとマソニックの勇退とレイス、そして馬場がNWA王座の権威を下げるきっかけを作ってしまったのかもしれない。

1981年2月15日、後楽園ホールで馬場は3000試合連続出場突破記念試合の一環としてNWA王者のレイスに挑み、1-1のタイスコアの後で、馬場がスリーパーで捕らえるも、レイスが急所打ちを浴びせたため反則負けになり、馬場は王座奪取が出来なかったが、馬場のNWA王座への挑戦はこれが最後となった。この頃には全日本プロレスも世代交代を図っており、馬場は1980年9月4日の佐賀でレイスを破って3たびNWA王者になっていたことから、全日本プロレス内から”馬場がNWA王座に挑戦するのはもういいのでは”という声が出ていた、こうして馬場はNWA王座取りから退き、挑戦は鶴田に譲り渡すことになった。

1981年4月27日、ジョージア州オーガスタでレイスがトミー・リッチに敗れ再び王座から転落する事態が起きる。NWA内部でもリッチの評価は低かったが、副会長で実質上NWAを取り仕切っていたジム・バーネットの後押しもあって実現させた。日本で知らされた馬場やファンクスも「品位のかけらのないリッチが王者なんて・・」と驚くしかなかったが、リッチの戴冠は3日間だけでベルトはすぐレイスに戻った。

そのレイスもその一か月後にローデスに王座から転落、3か月後にはNWA会長となったジム・クロケット・ジュニアの後押しを受けてリック・フレアーが王者となり、フレアー時代が到来した。

後にNWAを脱退したビンス・マクマホンのWWEが全米侵攻を開始し、NWAも瓦礫のように崩壊するが、馬場の王座奪取は日本プロレス界にとって大偉業なれど、NWA崩壊の始まりだったのかもしれない。

(参考資料 辰巳出版 GスピリッツVol.35「特集ザ・ファンクス」竹内宏介著「防御は最大の攻撃なり!! 」NIPPON SPORTS MOOK 39)

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