プロレス夢のオールスター戦、対戦カードはどう決められたのか?


東京スポーツは創立20周年記念事業の一環として新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの三団体が揃う『プロレス夢のオールスター戦』は紆余曲折の末、ようやく開催が決まるも、一番難題だったのは対戦カード、マッチメークだった。

対戦カードは新日本プロレスのアントニオ猪木、全日本プロレスのジャイアント馬場の両巨頭がマッチメークすることになり、主催者側である東京スポーツからは桜井康雄が調整役に入ることになった。本来なら国際プロレスの吉原功社長もマッチメークに携わらなければならないのだが、馬場と猪木がマッチメークを決めることが絶対条件だったこともあって、吉原社長はマッチメークに加わることが出来なかった。新日本プロレスと全日本プロレスにしてみれば国際プロレスはオマケの存在であり、馬場と猪木にとって業界の先輩面してくる吉原社長は目障りな存在だった。

<第1試合 3団体参加バトルロイヤル>
参加選手 新日本=山本小鉄、魁勝司(北沢幹之)、小林邦昭、平田淳二、前田明(前田日明)、斎藤弘幸(ヒロ斎藤)、ジョージ高野、全日本=渕正信、薗田一治(ハル薗田)、大仁田厚、肥後宗典、百田光雄、伊藤正男、ミスター林、国際=鶴見五郎、高杉正彦、米村勉(米村天心)、デビル紫、若松市政

第1試合では東京スポーツ側は前田vs大仁田を提案していたが、マッチメークの基本ラインは新日本プロレスvs全日本プロレスはNGということから没になり。各団体の所属選手を全員オールスター戦に出場させたいという配慮からバトルロイヤルとなった。若手の中に山本小鉄を入れたのは桜井氏の提案で、山本を入れることで各選手の中和剤なると考えての起用だった。馬場からは全日本プロレスに参戦中のボボ・ブラジルを入れることを提案された。ブラジルは55歳となっており年齢的にも今回で最後の来日と見られていたから、馬場も力道山時代から来日していたブラジルに最後の花道をと考えたかもしれないが、最終的に参戦は見送られた。

<第2試合 20分1本勝負>
荒川真vsスネーク奄美
これは新日本プロレスvs国際プロレスで、全日本プロレスは関係ないことから、すんなり決まったが、奄美の起用は猪木から提案されたものだったという。

<第3試合 20分1本勝負>
星野勘太郎 マイティ井上vs木戸修 石川敬士
東京スポーツ側は星野vs井上を提案していたが、互いに気が強く引かないことから、変な試合になると考えたことで没になるも、星野と井上が組むことで落ち着き、馬場からも「タッグになるならウチからも誰か出さなきゃいけない」ということで全日本プロレスに入団したばかりの石川を出すことになり、石川のパートナーには猪木から木戸を推薦した。

<第4試合 30分1本勝負>
阿修羅・原 佐藤昭夫 木村健吾vs永源遥 寺西勇 藤原喜明
馬場は佐藤を売り出したいことから出したいと提案すると、桜井氏は対戦相手として藤原を提案したが、馬場は「昭雄を潰す気か!」と一発でNGになり、原、健吾、永源、寺西を入れる6人タッグ戦となったが、原は単なるおまけみたいなものだったという。国際プロレスとしてみれば原を売り出したかったが、馬場と猪木の評価はその程度だった。

<第5試合 30分1本勝負>
長州力 アニマル浜口vsグレート小鹿 大熊元司
桜井氏は長州vs浜口を提案したが、馬場がNGを出した。理由は小鹿&大熊の極道コンビをどうしても出したかったからだった。桜井氏は極道コンビの相手として星野&健吾を提案したが、星野と小鹿は犬猿の仲で、馬場と猪木もそのことを良く分かっていたからNGを出し、長州と浜口ならそういった因縁は関係ないとして、二人でタッグを組ませ極道コンビと対戦となった。のちに長州と浜口は新日本プロレスでタッグを組み維新軍団を結成するが、この二人がマット界を揺るがす名コンビになるとは馬場も猪木も予想しなかったのかもしれない。

<第6試合 45分1本勝負>
坂口征二vsロッキー羽田
当初は坂口の相手はグレート草津を考えていたが、草津が嫌がったことで没になった。基本的に新日本プロレスvs全日本プロレスはNGだったが、格が違えばいいということで坂口の相手に羽田を抜擢することを提案、馬場も羽田を売り出したいということでOKが出た。草津は結局出場することはなかったが、理由は馬場が草津の出場に関してはいい顔をしなかったからで、草津自身も出場する意志はなかった。草津はオールスター戦当日は三島の自宅に引きこもってしまい、付き人だった高杉政彦が無理やり連れだして武道館へ来たものの、バトルロイヤルすら参加することもなかった。草津はマスコミの前では馬場や猪木を呼び捨てにして大きな態度を取っていたことから、いざ本人らを前にするとバツが悪く、バトルロイヤルでも日本プロレス時代にはいつも袋叩きにされる対象だったことから、参加することを嫌がったのかもしれない

<第7試合 45分1本勝負>
藤波辰己 ミル・マスカラス ジャンボ鶴田vs高千穂明久 タイガー戸口 マサ斎藤
マッチメークで一番難航した一つがこのカードで、東京スポーツ側は藤波vs鶴田を希望しており、本人らも了承していたが、馬場がNGを出し、それなら藤波と鶴田のタッグを提案したが、これも馬場が首を縦に振らなかった。馬場にしてみれば鶴田とジュニアの藤波を同格に扱って欲しくないという意図があったのかもしれない。そこで桜井氏はちょうど全日本プロレスに参戦中だったミル・マスカラスを入れることを提案したことで、馬場もようやく納得した。国際プロレスの顔を立てて原を入れるという案は全くなかったという。提案しても馬場や猪木にしても、まだキャリアの浅い原と鶴田&藤波と同格に扱っては困るということでNGを出していたかもしれない。
対戦相手に斎藤、戸口に高千穂(ザ・グレート・カブキ)を入れたのは馬場の提案で、この時の高千穂はアメリカに長期にわたって遠征していて、馬場の要請でオールスター戦のために一時帰国していた。馬場は高千穂の指導力を高く評価しており、帰国させてこのまま日本に引き止めて置こうという意図があったのだろうが、高千穂本人は日本に定着する気はなく、盟友だったマサ斎藤と組むことと、馬場への義理立てのために一時帰国したに過ぎなかった。

<第8試合 60分1本勝負>
ラッシャー木村vsストロング小林
東スポ側は坂口vs草津がダメなら、坂口vs木村を提案するつもりだったが、カードとしては今一つ魅力に欠けるということで、国際プロレスから新日本プロレスへ引き抜かれた経緯を考えて木村vs小林となり、吉原社長も了承した。この頃の小林はレスラーとしてのピークは過ぎており、吉原社長にしても木村だったら小林に完勝することが出来ると考えていたのかもしれない。

<第9試合 時間無制限1本勝負>
ジャイアント馬場 アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー タイガー・ジェット・シン
最後の難題はBI砲絡みのカードで対戦相手だったが、東京スポーツ側はブッチャーvsシンのシングルマッチを提案していた。だがこれには馬場がNGを出して没となった。理由はヒール同士は試合にならないと考えていたからと、馬場は桜井氏だけ「桜井さん、わかるだろう、オレは木村政彦になりたくないんだよ」と力道山vs木村政彦戦を引き合いに出して本音を漏らしていた。それはどんなマッチメークでも猪木はどうしても信用できないという意味だった。オールスター戦へ向けて”過去のいきさつはクリア”したとしても、猪木は馬場自身や全日本プロレスを潰しにかかってくるのではという疑念だけは根深く残っていた。
BI砲の対戦相手はファン投票となり、中間発表の段階ではドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスがトップだったが、最終結果はブッチャー&シンがトップとなった。そこで桜井氏がブッチャー&シンがトップに選ばれたとして対戦相手として提案したが、馬場は乗り気ではなく2位のザ・ファンクスを推した。理由は「ブッチャーはシンが嫌いだから、おそらくNOというよ」といった通り、二人が了承するわけがないと考えていたからだったが、猪木はファンクスは二人とも全日本プロレス側だとして了承しなかった。猪木にしても、馬場とは表向きは過去のいきさつをクリアしたとしても、どこか馬場を信用できないものがあったのかもしれない。そこで桜井氏がシンに直接会って打診したところOKが出て、ブッチャーも特別ボーナスを条件にしたことでOKが出たことで、馬場も仕方ないとして了承し、BI砲の相手はブッチャー&シンの最凶悪コンビとなった。

マッチメークは絶対的な権力者が独断で作るカードが面白いと言われるが、その例が新日本プロレスで現場監督を務めていた長州力で、90年代の新日本プロレスが好例となったが、長州が降板してマッチメーク委員会なる複数の人間がマッチメークするようになると、カドが立たない折衷案に落ち着くことから、刺激的なカードが生まれることはなかった。オールスター戦のカードはまさに後者で思惑の異なる馬場と猪木に桜井氏が間に入ったカードは、まさに両団体による折衷案のカードだったのではないだろうか…

マッチメークが終わると、会見で馬場と猪木は今までとは一転してお互いを尊重するコメントを連発。猪木に至っては「雰囲気を掴むためにオールスター戦前に全日本プロレスのリングに上がろうかな」とコメントし、馬場も「次のシリーズからでもどうぞ」と応えるなど、和気藹々だった。それは難題であるマッチメークが終わったことでの安堵の証でだった。

『プロレス夢のオールスター戦』は1万6500人(超満員札止め・主催者発表)の大観衆を集め、すさまじい盛り上がりとなり、メインのBI砲vsブッチャー&シンは数々の名シーンを呼び、後年語り継がれるほどのベストマッチとなった。しかしその名シーンを生み出して裏側で、マッチメークに苦心した馬場、猪木、桜井氏の苦心は知る者はなかったのかもしれない。

(参考資料=GスピリッツVol.20『90年代の全日本プロレス』)

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