チャンピオンカーニバル番外編で起きた凶行事件!果たして死んでもマイクは離さなかったのか?


1980年3月28日から「第8回チャンピオンカーニバル」が熊谷市民体育館から開幕した。「チャンピオンカーニバル」は第4回でアブドーラ・サ・ブッチャーが優勝を果たしてから、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の3人が優勝争いを繰り広げるようになりも、マンネリが生じ始めたことから、この年から軍団抗争の要素を加え、ブッチャーと抗争していたテリー・ファンクがエントリーを果たし、ブッチャー率いるブッチャー軍団(レイ・キャンディ、ミステリアス・アサシン、カール・ファジー)と、テリー率いるファンク一家(ディック・スレーター、テッド・デビアス)、馬場&鶴田率いる全日本プロレス軍がの3軍による抗争がリーグ戦の中心となった。

この頃の「全日本プロレス中継」は前年から土曜夜8時からのゴールデンタイムから撤退し土曜夕方5時半枠で放送されるようになっていた。ゴールデンタイムからの降格はいいイメージを与えなかったものの、土曜夜8時の枠が野球シーズンに入ると、深夜へ放送されることから、また全日本プロレスで起きている「ストーリー」が伝わり辛かったことを考えると、土曜夕方5時半の枠は生中継が出来ないというデメリットはあったが、毎週同じ時間帯で放送されるメリットがあったおかげでビックマッチへ向けてのストーリー展開が伝えることが出来るようになり、そのせいか土曜夜8時ではありえなかった高視聴率を稼げるようになっていた。

話は戻って「第8回チャンピオンカーニバル」の優勝争いは馬場、鶴田、テリー、スレーター、ブッチャーを中心に進み、リーグ戦も後半に入る4月24日の滋賀県大津大会では馬場とテリーが公式戦で対戦し、試合はブッチャーとキャンディが乱入すれば、テリー側もスレーターが乱入するなど大乱戦となって、馬場がリングアウトでテリーを降したものの、試合後に突如ザ・シークが乱入して馬場に襲い掛かるハプニングが起きてしまう。

シークは前年度の1979年まではブッチャーとの最凶悪コンビでザ・ファンクスと抗争を繰り広げていたが、「1979世界最強タッグリーグ戦」の最終戦でファンクスと対戦した際に、ブッチャーの凶器攻撃がシークに誤爆したことでファンクスに敗れ、試合後に誤爆に怒ったシークがブッチャーの顔面に火を放って仲間割れとなっていた。シークの来日目的はブッチャーとの対戦で、終盤戦に参戦の予定だったが、シークは予定を繰り上げて24日の滋賀大会に現われ、25日の高知大会から急遽参戦、4月30日長崎では公式戦で馬場とスレーターが対戦するも、シークが乱入して馬場に襲い掛かっている間にスレーターが戻ってリングアウト勝ちを収め、馬場の優勝決定戦進出を阻むなど、リーグ戦を荒らしまわる存在となった。

「第8回チャンピオンカーニバル」優勝決定戦は鶴田とスレーターの間で5月1日福岡で行われ、鶴田がジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い優勝を果たすも、翌日後楽園ホールのメインでブッチャーvsシークのシングルマッチが実現、館内もヒール同士の対戦とあって3400人超満員になるも、この頃のブッチャーはシークとの仲間割れを契機に、試合によってはベビーフェース扱いされるようになっていった。

試合の実況を務めていたのは倉持隆夫、解説は東京スポーツの馬場番記者である山田隆が務めた。倉持アナ1964年にアナウンサーとして日本テレビに入社、日本プロレス中継からプロレス実況アナウンサーを務めていた徳光和夫に可愛がられていたが、徳光がプロレス中継から卒業することになると、後継として倉持アナを推薦し、倉持アナはそのまま全日本プロレス中継のメイン実況を任されていた。

シークはイスを持って登場しカメラマンを振り払ってリングインするなり、原軍治リングアナを掴んで倒し、これを見た花束嬢も恐怖のあまり逃げ出してしまう。続いてブッチャーが入場しリングインをしようとするが、いきなりシークがイスで殴打して襲い掛かり、鋭利な凶器でブッチャーの額を刺しまくる。

ここで開始のゴングが鳴るが、シークはブッチャーの額を凶器で刺しつつ噛みつき、また後頭部までも刺し、ブッチャーの頭部は血だらけとなり、ジョー樋口レフェリーも制止するが、シークはいうことを聞かず、凶器攻撃をやめようとしない。
シークの凶器攻撃にブッチャーが懸命に耐えると、後楽園ホールの館内からはブッチャーコールが巻き起こり、これに応えたブッチャーは地獄突きや頭突きでやっと反撃し、シークの耳に噛みつく。これに怯んだシークにブッチャーが手刀を落とすと、再び地獄突きを浴びせ、頭突きからシークの眼に噛みつく。

シークは凶器攻撃で反撃を狙うと、ブッチャーは地獄突きで応戦してシークの凶器を奪って額を刺すが、その際に制止に入っていたジョー樋口レフェリーの頭部を刺してしまい、樋口レフェリーはダウンしてしまう。
樋口レフェリーがダウンしている間も、シークはブッチャーの額に噛みつき、ブッチャーも凶器攻撃を浴びせたところで、サブレフェリーに入った和田京平レフェリーがこれ以上の試合続行は不可能と判断して、試合終了のゴングが要請するが、試合が終わっても二人の乱闘は続き、ブッチャーは制止する和田京平にも頭突きを浴びせ、ここから二人の乱闘は場外へと雪崩込んで、観客は総立ちとなり、二人はクローで首を絞め合う。そこで和田京平レフェリーがグレート小鹿や大仁田厚を始めとするセコンド勢に二人を分けるように指示するも、セコンド勢でも二人の乱闘を止めることが出来ず、意識を取り戻したジョー樋口レフェリーが両者反則の裁定を出すも、リングサイドに取り囲んでいたカメラマンも乱闘に巻き込まれるのを怖れてリング内に避難しつつ、試合の撮影を続ける。

二人は一旦セコンド勢に分けられるも、今度はブッチャーがシークに襲いかかり再び乱闘となって客席へと雪崩込んでいくが、そこで放送席へが破壊され南側へと逃げ込んでいた倉持アナウンサーが突然シークに捕まりネクタイを掴まれて客席へと引きずり込まれてしまい、着ていたスーツもイスに引っかかりズタズタとなってしまう。倉持アナは途中までマイクを離さなかったが、客席までが限界で、そこでマイクを放り投げた。客席の中段まで来た時、シークはバンテージに隠し持っていたガラスの破片を見せ、倉持アナに「動くと痛い目に遭うぞ」と英語でささやいた。その時、倉持アナは『オレは切られるんだ…』と観念したという。
そこでブッチャーも割り込んで、セコンド勢も必死で制止する中、リングサイドレポートしていた松永二三男アナによって倉持アナがシークに襲われ流血したことが報告され、倉持アナが血だらけになった姿を見た観客らは凍り付いてしまったという。
倉持アナは大仁田によって担がれてバックステージへ引き上げると、代わりに松永アナが試合の実況を続行、その間にもブッチャーとシークの乱闘は続き、シークは逃げ惑うファンをかき分けながらバックステージへと引き上げ、リングに一人残ったブッチャーは館内からブッチャーコールが巻き起こる中、大混乱の遺恨マッチが幕となった。

バックステージへ駈け込まれた倉持アナは看護士からの応急処置を受け、心配で駆けつけた馬場も「動脈まで行っているぞ」と傷口を確認、馬場の声を聴いた倉持アナは思わず失神しそうになるも、直ちに救急車で病院へ搬送され、額を13針縫う重傷を負った。シークがなぜこのような凶行を働いたのか、松永アナによると、アメリカのプロレス番組は団体側が作って完全パッケージでテレビ局に納入することから、シークは倉持アナを団体が用意したアナウンサーだと思い込んでおり、日米のプロレス番組の違いから起きたことだったという。

ところがこの事件が思わぬ形で波紋が広がりそうになり、報道部が局アナが刺されたということで殺傷事件として取り上げ23:00から放送するニュース番組「きょうの出来事」でトップニュースにしようする。さすがのこの事態に包帯を巻いて局に戻ってきた倉持アナは「勘弁してください」と報道部にストップをかけるも、今度は倉持アナの父が局に乗り込み「息子の顔に傷がついた!どうしてくれるんだ!」と抗議し表沙汰にしようよする。この騒ぎも倉持アナの説得でなんとか収まったものの、翌日には馬場が局に訪れ、スポーツ局長とアナウンス部長に謝罪すると、倉持アナには「元子から預かってたクリーニング代だから」と封筒を差し出したが、封筒の中には20万も入っていた。実際のところ治療代もクリーニング代も20万もかからなかったのだが、馬場も日本テレビ内でも大騒ぎになったことを知ったことから、騒ぎがこれ以上大きくならないように慰謝料込みで口止め料の意味で20万も支払ったのかもしれない、倉持アナは余ったお金は飲み代としてあてるも、倉持アナが命がけで実況したブッチャーvsシークは局側の判断で放送されず、お蔵入りとなり、長い間表に出ることはなかった。

後日、倉持アナはシークから謝罪を受けた際に「あの時、オマエは顔を止めたな、動いていたら、オレは本当にザクっと切らなければならなかったと」と言われたが、確かに下手に動いていたら倉持アナの顔はもっとひどい状況になっていた。それを聞いた倉持アナは何とも言えない気持ちになったという。

ブッチャーvsシークは12月1日の札幌で再び実現し、この時も倉持アナが実況を務め、二人は客席まで雪崩れ込む乱闘を繰り広げたが、倉持アナには襲うことなく、試合はブッチャーの反則勝ちとなるも、ブッチャーは翌年に新日本プロレスへ移籍、シークも1981年の最強タッグを最後に全日本プロレスからフェードアウトしたことで日本では2度と対戦することはなかった。

そして倉持アナも1989年4月13日、東京ドームで開催された「日米レスリングサミット」を最後に全日本プロレス中継から卒業、事業部へ移動するが、日本テレビで関連するケーブルテレビでジャパン女子プロレスが放送された際には実況を務めた。倉持アナはシーク襲撃事件を現在でも武勇伝のように語っているが、本人にとってもプロレス中継で実況をしてきた証なのかもしれない。

(参考資料=イースト・プレス社 福留崇広著「テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち、辰巳出版 GスピリッツVol.58 『80年代の全日本プロレス』)

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