全日本プロレスが旗揚げして5か月後の1973年3月17日、世田谷区民体育館で春の本場所「第1回チャンピオンカーニバル」が開催された。

「チャンピオンカーニバル」と名付けた理由は、日本テレビ的にはら力道山本流のプロレスを受け継いでいる印象を出すために「ワールド・リーグ戦」の名称を使いたかったが、崩壊寸前ながらもまだ日本プロレスが存続していたため使うことが出来なかったからだった。
この頃の全日本プロレスはNWAに加盟したばかりでNWA世界ヘビー級王者も呼べる状況であったことから、「チャンピオン・カーニバル」のタイトルに相応しく、当時のNWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアを始め、各地域の王者を揃えてNo1を決めようというのがコンセプトだったが、今考えると後に新日本プロレスが提唱するIWGP構想の原点的な発想が「第1回チャンピオンカーニバル」だったのかもしれない。
第1回のチャンピオンカーニバルに参加したのはPWF王者の馬場を始め、日本陣営に加わっていたUS王者のザ・デストロイヤー、南半球ヘビー級王者のマーク・ルーイン、太平洋岸ヘビー級王者のキング・イヤウケア、中南米ヘビー級王者のカリプス・ハリケーンに加え、ムース・モロウスキー、バロン・シクルナ、マッド・ラシアン、アントニオ・ブグリシーで、エース格と目されたルーインとイヤウケアは当時オーストラリアでプロモートしていたジム・バーネット、モロウスキーはドリー・ファンク・シニア、シクルナはブルーノ・サンマルチノからのブッキングされた常連外国人選手が中心となり、日本勢は助っ人として参戦しいたヒロ・マツダとマティ鈴木、所属からはサンダー杉山、マシオ駒、サムソン・クツワダ、大熊元司の15選手がエントリーを果たした。

ルーインは南半球ヘビー級王座、イヤウケアは太平洋岸ヘビー級王座、ハリケーンは中南米ヘビー級王座として参戦したが、その王座は存在したわけではなく、全て全日本プロレスが用意した王座だった。これらの王座は”各地域の王者を揃える”というために作られたもので、ベルトも粗末なものだった。


「第1回チャンピオンカーニバル」はトーナメント形式で行われ、馬場は1回戦はシードとなったが、場外カウントが10カウントになって反則やリングアウト裁定でも王座が移動するPWFルールを採用したのも、「第1回チャンピオンカーニバル」からだった、
開幕戦の世田谷ではイヤウケアが杉山と対戦し、フライングソーセージで3カウントを奪い2回戦に進出、翌日の群馬大会ではルーインが駒をスリーパーホールドで降し2回戦に進出する。
1回戦はデストロイヤーがラシアン、シクルナがクツワダ、モロウスキーは大熊を降しトーナメントが進行するが、全日本プロレスに想定外の事態が起きてしまう。NWA王者として特別参戦が決まっていたドリーが自宅牧場でトラクターを運転中に転落事故を起こして全治2ヶ月の重傷を負ったため来日が中止となってしまったのだ。
トーナメントはその間にも続き、マツダがプリクシー、ハリケーンが鈴木を降して1回戦が終わり、2回戦ではデストロイヤーがシクルナ、イヤウケアがモロウスキー、ルーインがマツダ、馬場がハリケーンを降してベスト4が揃うも、4・10福岡で行われた準決勝戦ではデストロイヤーとルーインが対戦した際には、イヤウケアが乱入してデストロイヤーに襲い掛かると、馬場ら日本勢がデストロイヤーを助けに入ったため、無効試合となり、後日再試合が行わることになった。
4・14山口で行われたルーインvsデストロイヤーの再戦は、またしてもイヤウケアが乱入してデストロイヤーをルーインと共に痛めつけ、ルーインが勝って決勝に進出、4・19長岡では馬場がイヤウケアを降して決勝に進出する。
決勝戦は4・21福井で行われ、試合形式は60分3本勝負となったが、1本目は馬場がランニングネックブリーカーで1本を先取、2本目はストレート勝ちを狙った馬場のランニングネックブリーカーを自爆させたルーインがパイルドライバーで3カウントを奪いタイスコアとなったが、決勝の3本目では馬場が16文キックで3カウントを奪い優勝を果たした。


第1回のチャンピオンカーニバルは総当たりリーグ戦ではなく、保持者が格下選手に敗れた場合、王座の権威が損なわれるという配慮があったからだったが、その配慮が番狂わせがないという”ハプニング”が起きなかったという結果を招いてしまった。また日本人同士の対戦もなく、それを考えると第1回のチャンピオンカーニバル”予定調和”要素が強くて面白みに欠けたものだったのかもしれない。
トーナメントが終わると、シリーズの追撃戦が行われたが、ファンク・シニアはドリー来日中止のお詫びとしてザ・シークを代役としてブッキングした。4・22富山ではハリケーンの保持する中南米ヘビー級王座にマツダが挑戦(試合は1-1の後で両者リングアウトとなり、ハリケーンが防衛)、4・22愛知ではデストロイヤーが保持するUSヘビー級王座とイヤウケアが保持する太平洋岸ヘビー級王座によるダブル選手権も行われ(試合は1-1の後で両者リングアウトとなり両王座共防衛)、4・23大阪ではシークが参戦して馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦し、場外戦の後で馬場がシークを鉄柱に叩きつけて王座を防衛し、デストロイヤーのUS王座とルーインの保持する南半球ヘビー級のダブル選手権も行われたが61分時間切れ、最終戦である4・25日大講堂大会では馬場vsシークの再戦がPWF王座をかけて行われ、馬場が32文ドロップキックで3カウントを奪い王座を防衛したことで、「第1回チャンピオンカーニバル」は今後への課題だけが多く残したまま幕を閉じた。


1974年、1975年も「チャンピオンカーニバル」はトーナメント形式で開催されたが、新日本プロレスが「ワールドリーグ戦」を開催し、総当たりリーグ戦を利用して日本人同士の対戦を頻繁に組んだことで話題を呼んだため、全日本プロレスも第4回から総当たりリーグ戦導入に踏み切らざる得なくなる。
第4回ではアブドーラ・ザ・ブッチャーが反則裁定ながら馬場を破り、悪役レスラー初の優勝を果たすという副産物を生んだ。ブッチャーは第7回でも優勝を果たし、第8回では馬場の愛弟子であるジャンボ鶴田も優勝する。


チャンピオンカーニバルは1982年の第10回目を最後に一旦終了となり、10回目もブルーザー・ブロディを破った馬場が7度目の優勝を果たしたが、馬場のチャンピオンカーニバル参戦はこれが最後となった。

1991年から総当たりリーグ戦形式での「チャンピオンカーニバル」が復活、現在に至るまで「世界最強タッグ決定リーグ戦」同様、全日本プロレスのロングセラーブランドまでなった。今年も「チャンピオンカーニバル」も開催される。果たしてどんなドラマが生まれるのか…
コメントを投稿するにはログインしてください。