1993年11月、週刊プロレスの表紙で「1994年11月、全女がドーム到達!」という見出しを出し、全日本女子プロレスが東京ドームに進出することを報じた。

1992年から始まった全日本女子プロレスを中心にJWP女子プロレス、LLPW、FMW女子を巻き込んだ対抗戦ブームは女子プロレス全体を挙げてのムーブメントとなり、大阪府立体育会館や日本武道館も満員を記録するようになった。そして大阪、武道館を超満員にしたことで、次は松永高司会長は東京ドームしかないという機運が高まり、早い時期から週刊プロレスの編集長だった山本隆司氏に相談する。当時の週刊プロレスは週刊ゴングに対して女子プロレスに大きく誌面を割いており、全日本女子プロレス側も週刊プロレスに独自のネタを提供するなど、いわば癒着関係だった。全日本女子プロレスは山本編集長にパブリシティの協力を要請、当時の広報企画部長で数々のビックマッチを任せられていたロッシー小川氏に大会プロデュースを任せられることになった。東京ドームは新日本プロレス以外は第2次UWF、SWS、藤原組などが進出していたが、これらの三団体が活動休止したことで、新日本プロレスが独占して興行を打っていた。ここで全日本女子プロレスが東京ドームに進出することは、業界の最大手である新日本プロレスに並び立つ大きなチャンスでもあった。
1993年12月6日の両国国技館大会でも超満員を記録したが、北斗晶がLLPWの神取忍に敗れたことで自らの引退に言及する。北斗は対抗戦ブームを牽引してきた中心人物で、北斗の引退は全日本女子プロレスにとっては大きな痛手だが、それを逆手にとって東京ドーム大会は「デンジャラスクイーン最後の大舞台」という大きなテーマを作り、北斗は年明けからマスクウーマンのレイナ・フブキとしてメキシコCMLLに主戦場を移し、全日本女子プロレスには「デンジャラス・クイーンFINALカウントダウン」としてスポット参戦することで、ドーム大会本番までの”タメ”を作る。

北斗という主役が不在でも各団体による対抗戦ブームはJWP女子が有明コロシアム、LLPWも東京体育館に進出するなど変わりなく活況を呈しドームへの道筋は幸先よいスタートを切った。ところが松永高司会長が空手の指導などで全女とは馴染みが深く東京中日スポーツの記者だった山崎照朝の取材を受けた際に、リレハンメル冬季五輪「ナンシー・ケリガン襲撃事件」でスキャンダラスな話題を振りまいたトーニャ・ハーディングを「ああいう気性の強い子がレスラーで欲しいね」ろ発言すると、「全女がハーディングを獲得!?」とワイドショーが取り上げたことで、東京ドーム大会が一般にまで知れ渡ってしまう。この事態に松永会長は副社長で五男だった俊国をアメリカへ急遽送り込み、ハーディングと交渉したが。法外なギャラを請求されたため見事に断られるも、それは松永会長もわかりきっていたことで、辻褄合わせに交渉したに過ぎず、最初からハーディングを獲得する気はなかった。

6月3日に全女が会見を開き、大会名を「BIG EGG Wrestling UNIVERSE~憧夢超女大戦~」とし、大会の中で賞金総額3000万円(優勝1500万円)をかけた「V☆TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」の開催と、WWF(WWE)に参戦していたブル中野が王者であるアランドラ・ブレイズ(メドゥーサ)が挑戦するWWF世界女子選手権、井上京子と女子キックボクサーであるルシア・ライカとの異種格闘技が主要カードとしてラインナップされ、約20試合7時間興行を想定していることから、大会のコンセプトも「闘いのトライアスロン」とした。

「V☆TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」は山本編集長の提案によるもので、この企画が出た理由は1993年4月30日に立ち技格闘技であるK-1で『K-1 GRAND PRIX ’93』が初開催され、格闘技だけでなくプロレスファンにも大きな影響を与えたことから、女子プロレスが男子プロレスより対抗戦が活発だったこともあって最強を決めるトーナメントが開催しやすい状況だったことが大きな決め手になったと思う。
ドーム興行に向けて幸先良いスタートを切ったかに見えたが、トーナメント特別推薦選手に北斗の出場することが決まると、LLPWとFMW女子がエース格の選手を出し惜しみし始める。理由はドーム大会での引退を決めていた北斗がトーナメントで負けると、その試合が引退試合となることから、トーナメントに出て引退する北斗に負けたら損になり、勝ったとしても主役は負けた北斗が主役になるだけ、誰も得しないと考えていたからだった。LLPWはトーナメント出場者決定戦で神取に勝ったイーグル沢井をエントリーさせることを決め、FMW女子も対抗戦から距離を取り始めていた工藤めぐみではなく、トーナメント出場に乗り気になっていたコンバット豊田の出場を決めてしまった。元々LLPWは対抗戦には消極的だったが、全女サイドに騙し討ちみたいな形で対抗戦に参加させられていたことから全女サイドに対して根強い不信感があり、ドーム大会を契機に対抗戦から手を引くことを考えていた。
JWPは「損して得を取れ」ということでエースだったダイナマイト・関西をエントリーさせたものの、LLPWとFMW女子がエース格を出し惜しみしたことで、トーナメントの本来のテーマである日本最強は大ききかけ離れてしまい、引退する北斗を主役にせざる得ない状況となってしまったが、LLPWとFMW女子が対抗戦から距離を取り始めたことで、対抗戦ブームに大きな影が差し込もうとしていた。


また6月29日に目黒にあった全女事務所でドーム大会のチケット先行発売が行われ、3000人のファンが押し寄せ1日で4500万円を売り上げ、当日は北斗も松永会長とのトークショーを開催して全面協力するなど盛況で、週刊プロレスもチケット販売や誌面を使ったキャンペーン展開するなど全面バックアップしたが、チケットが売れたのは最初だけで、その後は頭打ちとなってチケットの売り上げは伸び悩んでいた。
また「V☆TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」も残り3枠のうち2人は『ジャパングランプリ1994』を優勝した堀田祐美子と準優勝の豊田真奈美エントリーが決まったが、残り1枠は未定のままだった。
表向きは盛況でも、裏側では不安要素を抱えた状況のまま、ドーム大会当日を迎えてしまった(続く)
(参考資料 彩図社『憧夢超女大戦25年目の真実』小島和宏著、ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.4 球場・ドーム進出」)
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