アントニオ猪木、新間寿の野望から始まったIWGP


1980年12月13日、新日本プロレスの社長であるアントニオ猪木が「乱立する世界タイトルを統一し、真の世界一を決める」という字コンセプトの元、IWGP構想を発表した。

事のきっかけは1976年に行われたNWA総会の席上で、猪木が保持していたNWF世界ヘビー級王座から”世界”を削除するように勧告を受けたからだった。NWF王座は1973年に新日本プロレスに定着し、猪木が数々の激闘を繰り広げたことで権威を高めた王座だったが、NWAはNWA世界ヘビー級王座以外の世界王座は認めておらず、全日本プロレスもNWA入りした際にはPWFヘビー級王座から”世界”を削除していた。NWAの勧告には総会に出席していた新間寿氏も抵抗したが、同年に行われた猪木vsモハメド・アリ戦でも「打たれ強いはずのレスラーが、アリのパンチを怖れて寝て戦ったのでは、全レスラーの恥辱だ」と猪木に対してNWA会員から批判が噴出しており、新日本プロレスに対して風当たりが強かったこともあって、さすがの新日本プロレスも勧告を受け入れざる得ず、NWF王座から世界を削除した。

自身が権威を高めたNWF王座が、新日本内のローカルタイトルとして扱われたことで納得しない猪木は今後どうするかを新間氏に意見を求めると、「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と提案する。

新日本プロレスは1974年にNWAに加盟したものの、NWA世界ヘビー級王者のブッキング権は先にNWA入りを果たしていた全日本プロレスが独占しており、加盟の際に1年間は新日本プロレスのNWA王者の招聘は認めないという取り決めもされていたが反故にされていた。「チャンスが与えられないなら、作ればいい」それがIWGPの始まりだった。

新日本プロレスも全日本プロレスとの関係を重視するNWA主流派には嫌われていたが、その代わりビンス・マクマホン・シニアのWWF、マイク・ラベールのNWAロスアンゼルス地区などといった親しくなったことで反主流派に属し、アメリカからの外国人ルートもWWFやロスアンゼルス地区から送られるようになり、そのうちビンス・シニアを通じてカナダのトロント、メキシコUWA、NWAフロリダ地区など新日本プロレスと提携する団体も増え、新日本プロレスも独自でタイガー・ジェット・シンやローランド・ボックを発掘するなど、全日本プロレスと優るとも劣らぬ陣容を揃えた。またモハメド・アリ戦での多額の負債も猪木自身が体を張ったことで完済したことから、IWGP構想は新日本プロレスにとっても全米最大の組織であるNWAを越える最大のチャンスでもあった。

IWGPと名付けた理由は「日本国内で開幕戦を行い、以降、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦し、決勝戦をニューヨークMSGで行う」世界各地を転戦するF1 Grand-Prixから着想を得てIWGPと命名、発案者はモハメド・アリ戦では通訳として活躍したケン田島氏とも言われている。
新間氏は「現時点では、さまざま異なる「世界」王者がおり、各々をさまざまな同盟が認可しているが、これらの王者は実質特定の区域のみで、それ以外では認められていない。現行の世界王者(WWF=ボブ バックランド、AWA=ニック ボックウィンクル、NWA=リック フレアー)を蔑ろにするものではなく、北米地域のみではなく中東、中南米、アジア、カナダ、欧州でも認められる真の世界王者を生み出すこと」と世界が認める真の王者を決めるもので、実行委員には新間氏、ビンス・シニア、ラベール、トロントのフランク・タニー、メキシコUWAのフランシスコ・フローレンス、ロンドンのマックス・クラブトリー、ドイツのポール・パーカー、パキスタンのヌスラド・アジムが名を連ね、カール・ゴッチも名誉会員として名を連ねた。

出場選手に関しては上記6つの区域で予選を実施、それぞれの区域で3人のトップレスラーを選出、3人のトップレスラーは、次に6つの主要区域で開催される最終ラウンドに進出して、最終戦はMSGで行われるとされ、トーナメントには出場選手は日本からは猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力、谷津嘉章、モンゴルからキラー・カーン、カナダからビック・ジョン・クインにアブドーラ・ザ・ブッチャー、ドイツからローランド・ボック、ギリシャからスパイラル・アリオン、イギリスからはピート・ロバーツとジャイアント・ヘイスタック、フランスからはアンドレ・ザ・ジャイアント、メキシコからはエル・カネックが参加選手に入っていたがアメリカに関しては各州からの多くのトップ候補がトーナメントに参加表明にとどめた。理由は新日本プロレスも最低でもWWFから一人とスタン・ハンセンは出場することを視野に入れていたと思う、またカナダ代表としてブッチャーを入れていたのも、この時点で新日本プロレスはブッチャーと移籍に向けて交渉していたと見ていいのかもしれない。

1981年3月18日には新日本プロレスが、猪木の保持していたNWFヘビー、坂口征二が保持していた北米ヘビー、坂口&長州力が保持していた北米タッグの返上を宣言するが、それはNWAとの決別を意味するもので、NWFと北米王座は既にNWA認可の冠が入っていたことから、IWGPを始動するにあたり、NWAの冠は全て捨てることになった。

3月30日と31日、京王プラザホテルでIWGP組織委員会が開催され、ビンス・シニア、ラベール、など世界各国のプロモーターが出席、4月1日に記念式典が行われ、新間氏も「山口良一のオールナイトニッポン」のワンコーナーである「闘魂スペシャル」に出演、「WWFだけじゃなくNWAもAWAも参加する、もし猪木とニック、フレアーが戦えば…自明の理でどちらが強いかは明らか」と演説するなど、IWGPが真の世界一を決める壮大な計画であることをアピールした。

だが一見壮大そうに見えた計画だが、ラベールはロスアンゼルスマットがエースだったチャボ・ゲレロが離脱したことで、いつ閉鎖してもおかしくない状況に陥っており、ドイツやイギリスマットに至っても不況で強豪レスラーは次々とアメリカに流出、パキスタンにしてもプロモーターとしての活動しているか怪しく、NWA会長にもなったタニーに至っては高齢なことから、実行委員会を動かしていたのは新間氏、ビンス・シニア、フローレンスが中心だったのが実情で、NWAもIWGPに関しては副会長でアジア地区を取り仕切るジャイアント馬場を通じて「IWGP王者は新日本プロレスのローカルチャンピオンである」として黙殺する態度を示していた。

4月17日の鹿児島大会での藤波辰巳vs木村健悟戦からIWGPアジア予選リーグが開幕、予選リーグには猪木、坂口、藤波、長州、木村健、ストロング小林が6選手がエントリー、4月23日の蔵前国技館で猪木がスタン・ハンセンを破った後でIWGP出場のためNWF王座を返上すると坂口と長州が北米ヘビー、タッグ王座を正式に返上、その後はアジア予選リーグは”春の本場所”第4回MSGリーグ戦の公式戦も兼ねて行われた。

5月8日には参戦リストに入っていたアブドーラ・ザ・ブッチャーがIWGP参加を名目に全日本プロレスから新日本プロレスに移籍、同じく全日本プロレスから移籍したタイガー戸口もIWGPに参加を表明し、韓国代表ということで9月23日の田園コロシアム大会からアジア予選リーグに参加、新間氏も当初はジャンボ鶴田をターゲットにして交渉していたが、断られたことで全日本プロレスのNo.3だった戸口をターゲットに変えて引き抜きに成功、1982年に入ると崩壊した国際プロレスからラッシャー木村もアジア予選リーグに加わり、これで全日本プロレス、国際プロレスのトップだった選手が加わったことでアジア予選リーグも日本代表決定戦としての伯が着けることが出来た。IWGPに向けて幸先よいスタートを切ったかに見えたが、ブッチャーの引き抜きを発端に全日本プロレスと外国人引き抜き戦争が勃発、IWGPに参戦を期待されていたハンセンが引き抜かれたことで、計画に狂いが生じ始める。

1982年1月18日、新間氏はビンス・シニア、タニーの仲介でNWA会長だったジム・クロケット・ジュニアと会談、ニューヨークMSGで新間寿氏とクロケットが握手を交わし「IWGPにNWAとAWAが協力をすることを約束したくれた。NWA、AWAの両世界王者がIWGPに参加する可能性がある」と発言する。これを受けて馬場はクロケットに抗議した上で会見を開き「IWGPは新日本プロレス、その関連団体が創作する新日本プロレスのローカルタイトルに過ぎない」と改めてNWAとしての公式見解を示した。
それを受けて帰国した新間氏は「NWAが全面協力という事実はありません、クロケット会長にIWGPの主旨を説明し、”プロレス界にとって良い計画だから、ぜひ成功させてほしい、私もNWAという枠にとらわれず協力させてもらう”という好意的な言葉で、即全面協力というようなニュアンスではない、私はIWGP開催の主旨に理解してもらえたと判断している。」と見解を示した上で、「クロケット会長から、あくまでNWAが認めている王者だから、くれぐれもワールド、あるいはリアルワールドという名称は使わないでほしい」と反論し、馬場もこれ以上追及する気はなかった。
新日本プロレスもIWGPに向けてNWAに絡むベルトは全て返上して、表向きはNWAと決別をアピールしていたが、新日本プロレスはまだ正式にはNWAから脱会してはいなかった。ここにきて新間氏がIWGPに向けてNWAから了承を得たかったのは、ハンセンが全日本プロレスに引き抜かれたことで、計画に狂いが生じ始めたことから、これ以上横槍を受けたくないためNWAの了解を得ておこうと考え、また馬場も新日本プロレスとの外国人引き抜き戦争終結へ向けて手打ち寸前だったことから、これ以上追及する気はなかったのかもしれない。

しかし今度はヨーロッパ代表の目玉だったボックが1982年1月1日の後楽園で行われた猪木とのシングル戦を最後に消息を絶ってしまう。ボックは猪木戦の時点で心臓が弱って体調を崩しており、IWGPに参加するどころではなく、猪木戦を最後に引退してしまったのだ。また猪木自身も「第5回MSGシリーズ」中に猪木が右足の半月板損傷の重傷を負い欠場、アジア予選リーグも一旦中断せざる得なくなり、猪木は7月から復帰したものの、今度は糖尿病で再び欠場するなど体調面で不安が見られたことで衰えが目立つようになり、それと同時に事業にものめり込み始める。その影響でアジア予選リーグも結局1982年は1戦行われただけになり、またラベールのロスアンゼルス地区も新日本プロレスがラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田、小林邦昭を送り込んでテコ入れはしたものの閉鎖に追いやられ、ラベールは実行委員会から脱落してしまった。

1983年にキラー・カーンが加わってアジア予選リーグが再開されたが、長州力の台頭から起きた日本人抗争が勃発したことで、予選リーグの存在が薄れ、結局は猪木、坂口、藤波、長州、カーン、ラッシャー木村の6人によるリーグ戦の戦績でアジア代表が決められることになり、猪木とカーンが代表になったものの、リーグ戦にエントリーしていたはずの木村健吾は3戦こなしただけで、戸口に至っては猪木とのシングルのみ、ストロング小林は腰痛で欠場して1戦だけしかこなしていないなど、予選リーグはは中途半端な形で終わってしまった。

また海外でも予選リーグを行ったのはメキシコのUWAだけで、アメリカのWWFは予選リーグを行った形跡がなく、ヨーロッパに至ってはオットー・ワンツが代表になったが、あと一つの枠はなかなか人選が決まらないところで、イギリスに武者修行中だった前田明(日明)が選ばれた。前田も海外武者修行に出されてまだ半年しか経っていなかったことで帰国する気はなかったが、新間氏は猪木の体調不良の事を出し泣き落としで前田を説得、前田も仕方なく帰国することにしたが、その時に箔をつかせるために奪取させてもらったのがヨーロッパヘビー級王座だった。

それでIWGPは日本代表は猪木、カーン、アメリカ代表でハンセンの代わりにトップ外国人として台頭したハルク・ホーガン、WWFからビック・ジョン・スダット、カナダ代表でアンドレ、ディノ・ブラボー、メキシコ代表でエル・カネック、エンリキ・ベラ、ヨーロッパ代表でワンツ、前田と計10選手が選ばれたが、結局蓋を開けてみれば参加選手新日本プロレスの選手中心になり、当初は6か国をサーキットしてリーグ、またトーナメントを行い、優勝決定戦はMSGとされていたが、総当たりリーグ戦に変更され、全戦は全て日本で開催するなど、形だけは整えたものの、当初描いた計画よりもスケールの小さいものになった。

「IWGP」は5月6日の福岡から開幕したが、今度はブラボーが家庭のトラブルで試合をしないまま緊急帰国してしまい、代役としてラッシャー木村がエントリー、また前夜祭に出席したタニーが、その後で旅先の香港で急死してしまう。それでも「IWGP」は昭和56年から始まったプロレスブームもあって連日超満員となり、猪木、ホーガン、アンドレが中心となって優勝争いを繰り広げたが、アンドレが前日の6月1日の愛知でカーンと両者リングアウトとなって脱落し、猪木とホーガンが優勝決定戦に進出、6月2日に蔵前で行われた優勝決定戦、猪木がホーガンに勝ち世界一のレスラーになることで、新間氏の考えるIWGPは全て完成されるはずだったが、猪木がホーガンにKO負けを喫したことで、猪木と新間氏の野望は全て潰えてしまった…

IWGP女子王座の設立が発表されたときに、「IWGPの理念に反している」という声が出たが、その理念とは何なのかというと、アントニオ猪木を世界一のプロレスラーにすることが目的でIWGPが作られ、猪木が優勝することで全てが完成するはずだったが、猪木が第1回のIWGPを優勝しなかったことで、猪木と新間氏の考えたIWGPは未完成に終わり、IWGPがタイトル化して一つのブランドとなったことで、猪木から離れてしまい、当初の理念などなくなってしまっていた。

いま思えば猪木がIWGPに優勝して世界一のレスラーになることが、新間氏の中での予定調和だったのかもしれないが、猪木が負けることで新間氏の考える予定調和は全て潰されてしまった。それもまた猪木らしさかもしれないが、新間氏の考えている新日本プロレスは猪木、藤波、初代タイガーマスクがトップ3を締めて、そのまま続くはずだった。しかし猪木が長州などを台頭させることで、新間氏の考える予定調和を崩してしまったことを考えると、IWGPで猪木と新間氏の考えの違いが表面化してしまったのではないだろうか…。

しかし猪木がNWF王座を奪取した際に「オレが巻いて権威を高めればいいだろ」と言った通り、その後の歴代王者たちが権威を高めたことで、世界に通用する王者となった。そしてIWGPに世界の冠が着いてIWGP世界ヘビー級王座となり、IWGPのブランドを使って様々な王座が作られえていったが、IWGPのブランドがある限り、IWGPの歴史はこれからも続く。

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