1983年7月1日から新日本プロレスは「サマーファイトシリーズ」が開幕、しかし、肝心の主役であるアントニオ猪木は「第1回IWGP」でハルク・ホーガンのアックスボンバーでKO負けを喫し、休養のためシリーズを全休することになり、再び猪木の留守を藤波と初代タイガーマスクが預かることになった、シリーズは藤波辰巳と長州力の名勝負数え歌をシリーズの主役としたが、初代タイガーマスクの挑戦者になったのは小林邦昭ではなく、はぐれ国際軍団の寺西勇が抜擢された。
寺西は1966年に東京プロレスでデビューする、東京プロレスがすぐ崩壊すると、寺西の素質を大きく買っていた猪木は日本プロレスへカンバックする際に日本プロレスへ連れて行こうとしたが、寺西が豊登の付き人だったことで断られてしまう。こうして寺西は国際プロレスに移籍するが、国際プロレスにはビル・ロビンソンだけでなくジョージ・ゴーディエンゴ、トニー・チャールズなどヨーロッパ系の選手が参戦しており、ヨーロッパ系の選手の試合ぶりに感銘を受けた寺西はロビンソンを始めとする選手らに指導を受け、また日本人初のサンビストであるビクトル古賀からもサンボの技術を学んだことで素質が開花、アクロバティックな素早い動きや連発のドロップキックを駆使するスタイルと、ショルダースルーを食らっても足から着地して反撃する動きを日本人で初披露、アクロバティックなプロレスで一世を風靡したエルワード・カーペンティアのようだということで「和製カーペンティア」と言われたが、カーペンティアが国際プロレスに参戦した頃には既に全盛期は過ぎており、寺西本人は強い印象を持っていなかった。

1973年に開催された「第5回IWAワールド・シリーズ」にエントリーした寺西は、エースだったストロング小林を逆さ押さえ込みで破る金星を挙げ、1975年には軽量級の王座であるIWAミッドヘビー級王座を奪取するも、寺西自身は海外武者修行にはいきたがらず、出世欲もなかったため『軽量級のテクニシャン』として脇役に徹した。

1981年に国際プロレスが崩壊すると寺西はラッシャー木村、アニマル浜口と共に『はぐれ国際軍団』として新日本プロレスに参戦、寺西が新日本プロレスを選んだ理由は、国際プロレスのほとんどの選手らが新日本プロレスのスタイルを好んでいなかったのに対し、寺西は新日本プロレスのスタイルを好んでいたからだった。新日本プロレスに乗り込んでいった寺西は猪木と再会した際には国際軍団だったということで「テメエ、憶えていろよ!コテンコテンにやってやるからな!」と啖呵を切ったが、猪木は寺西との再会を喜ぶかのように笑っていたという。

新日本プロレスでも寺西は国際軍団のリーダーであるラッシャー木村、アピール度が高い浜口を引き立てるために脇役に徹し、悪役だったため国際プロレスで得た技術を封印していたが、1983年に入ると浜口が長州と維新軍団を結成するために国際軍団を離脱、国際軍団はラッシャー木村と寺西の二人だけになったところで、マッチメークを担当していた坂口征二から「サマーファイトシリーズ」ではタイガーマスクの挑戦者に抜擢したことを告げられた。「サマーファイトシリーズ」でのタイガーの相手は小林邦昭しかいないことから、初代タイガーの挑戦者の幅を広げるために寺西を抜擢したのかもしれない、初代タイガーの挑戦者として抜擢を受けた寺西はこれまで封印してきた技術を解禁することを決意する。
同年7月7日、大阪府立体育会館で寺西は初代タイガーが保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦、初代タイガーも額に『Ⅲ』をマークしたマスク、パンタロン風のロングタイツとコスチュームを新調してシリーズに臨んでいた。本部席では14日の札幌でWWFジュニアヘビー級王座に挑戦する小林邦昭が見守る中、試合開始のゴングが鳴り、初代タイガーが開始がいきなり前蹴りやローリングソバットで牽制しローキックを当てに行き、寺西の足を取って払いトーホールドから初代タイガーレッグスピン、レッグロックと左脚攻めを狙う。しかし寺西はヘッドシザースホイップで切り返すとハンマーロックで反撃、ジャンピングアームブリーカーと左腕攻めで試合の流れを変える。




トンボを切って逃れた初代タイガーはヘッドロックからショルダータックル、寺西のショルダースルーを着地してからミドルキック、寺西の後頭部へスピンキックを浴びせ、寺西は思わず崩れてしまい、初代タイガーはヘッドシザースで捕らえて絞めあげるとニードロップを連発、ボディースラムからエルボードロップ、再びヘッドシザースで捕らえるが、ショルダースルーを狙うと、着地した寺西は驚いた初代タイガーにドロップキック、ボディースラムからスリーパーで捕らえるが、タイガーは蹴りで逃れてローリングソバットで返す。
寺西はフィンガーロックで押しにかかり、初代タイガーがブリッジで耐えるが、モンキーホイップを狙った際にロープ際だったため、両者共場外へ転落、ダイレクトで場外へ転落した初代タイガーが大ダメージを負ってしまい、これを逃さなかった寺西は鉄柵に叩きつける。
リングに戻ると寺西はストマックブロックからマスクに手をかけつつスリーパーと初代タイガーのスタミナを奪いにかかり、頭突きを連打、この流れを嫌った初代タイガーはミドルキックからローリングソバット、串刺しミドルキックを浴びせ、腰へのエルボーを浴びせ、串刺し狙いは寺西がコーナーを使って避けてモンキーホイップも、今度は初代タイガーが着地してローリングソバットを放つ。



初代タイガーはアームロック、ストンピングからサマーソルトドロップ、コブラツイストで捕らえるが、腰投げで逃れた寺西はビル・ロビンソン譲りのワンハンドバックブリーカー、パイルドライバーと大技を繰り出し、トーキックから首投げ、足をかけてのダブルアームロックで捕らえ、これまで声援を送らなかった館内も寺西の善戦ぶりに”勇”コールが巻き起こる。




初代タイガーはヘッドシザースホイップでやっと逃れると、寺西は頭突きから張り手の連打、串刺しキチンシンク、ボディースラムと攻勢をかけるが、初代タイガーはハイキックを炸裂させ、やや崩れ気味ながらもツームストーンパイルドライバーで突き刺す。
初代タイガーはヘッドロックも、ロープへ振った寺西はキチンシンク、ローリングクレイドルから前落とし、しかしヘッドロックで捕らえた寺西を初代タイガーはバックドロップからミサイルキックで場外へ出すとプランチャを命中させる。
ところが先に立ったのは寺西で小林に背中を押されてリングに戻ると、初代タイガーは小林に気を取られてビンタを浴びせてからエプロンに上がったところで、寺西が背後からドロップキックで落とし、トップコーナーからプランチャスイシーダを命中させる。




完全に不意打ちを食らった初代タイガーはエプロンに上がり、迫ってくる寺西にロープ越しの回転エビ固めで丸め込んで3カウントを奪い防衛も、寺西はカウント2でキックアウトしたとミスター高橋に抗議、小林もリングに上がって抗議する。そこで小林は初代タイガーに襲い掛かり、マスクを引き裂くと認定書まで破り捨て、立会人である新間寿氏からベルトを奪おうとする。
予備のマスクを着用した初代タイガーは小林に襲い掛かり、寺西も小林に加勢、再びマスクを破こうとしためセコンドが総出で身を挺して初代タイガーを庇い、ならばと小林は高橋レフェリーが手にしていたNWA世界ジュニアベルトを奪い、颯爽とバックステージへ引き上げてしまった。



こうして小林と寺西は初代タイガー打倒のために共闘することになったが、小林も長州の革命軍が発展解消したことで、まだ維新軍団には合流しておらず、フリーの状態だったことから寺西と共闘することで、国際軍団の助っ人になることになった。寺西と小林は1978年11月25日、国際プロレスの蔵前国技館で対戦しており、まだ若手だった小林は寺西に敗れたが、その二人が新日本プロレスで共闘するとは夢にも思わなかったのかもしれない。
11日の札幌で小林が初代タイガーの保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦したが反則負けで王座奪取に失敗、最終戦である8月4日の蔵前国技館大会では寺西が大阪での裁定にクレームを入れたため、タイガーの保持するNWA世界ジュニアヘビー級王座に再挑戦するというチャンスに恵まれるが、試合前にタイガーマスクの原作者である梶原一騎が逮捕されたことを受けて、初代タイガーのリングネームを返上することを発表、この頃の初代タイガーは個人マネージャーとしてショウジ・コンチャを据えたことで新間寿氏や新日本プロレスとの関係が悪化しており、また舞台裏でも新日本プロレスを揺るがす事件が起ころうとするとは誰も気づいていなかった。

再戦でもタイガーのキックに対し、寺西は足四の字固めやニーロックなどで足攻めでリードを奪い、逃れたタイガーはスピンキックからバックドロップで反撃しダイビングヘッドバットを投下するも、寺西が避けて自爆してしまう。


寺西は雪崩式バックフリップ、前落としと畳みかけると、コーナーからのダイブを狙ったが、初代タイガーがドロップキックで迎撃した際に、ドロップキックが寺西の股間に直撃するハプニングが起きて両者ダウンになる。
初代タイガーはショルダースルーも、着地した寺西は張り手からワンハンドバックブリーカー、再度トップコーナーに昇ってダイビングクロスボディーを放ったが、初代タイガーは今度こそドロップキックで迎撃して場外へ出しプランチャを命中させる。




リングに戻ると初代タイガーは寺西にロープ越しのブレーンバスターからラウンディングボディープレスを狙ったが、寺西が避けて自爆すると、寺西はストマックブロック、そして新日本プロレス参戦から出していなかったジャーマンスープレックスホールドまで披露して初代タイガーを追い詰めるも、キックアウトした初代タイガーは再度ジャーマンを狙った寺西のバックを奪って、タイガースープレックスホールドで3カウントを奪い防衛に成功した。



後年初代タイガーは「リング外のゴタゴタのせいか、試合に集中できませんよね、いつもは失敗しないような安易なミスもある」と蔵前での寺西戦を振り返っていた。「(寺西さんも)ナチュラルな人でしたね、国際プロレスでジュニアヘビー級の先駆者であることを知ってましたし、尊敬を念をもって”こちらも負けない”という試合をしましたよ、お世辞でなく素晴らしい選手でした」「この時点で37歳?全くスタミナが切れないので30歳前半くらいと思っていました。寺西さんとやっていつも思ったのは基本が出来ているレスラーだな、ということ、当たり前のことのように思っているファンが多いのですが、そういった選手は意外と一握りですよ」と述懐していた。
誰もが寺西はラッシャー木村、アニマル浜口の影に隠れ、やられ役が多くて評価が低かったのかもしれないが、初代タイガーと2回対戦し大健闘以上の試合をしたことで寺西が再評価され、初代タイガーに新たなるライバルが出現したと思ったのではないだろうか…
ところが「サマーファイトシリーズ」が終了すると、初代タイガーは突如引退を発表、そして初代タイガーの引退をきっかけに新日本プロレス内部でクーデターが勃発する。9月23日の大阪ではラッシャー木村が復帰した猪木のナックルの連打を浴びて大流血させられた挙句にKO負けを喫してしまい、ラッシャー木村は古傷の腰痛が悪化したことで長期欠場、こうして寺西一人だけとなった国際軍団は解散し、寺西は小林と共に維新軍団に組み込まれ、再び脇役に逆戻りになってしまった。

初代タイガーと寺西の抗争が続いていれば、寺西のプロレス人生が変わっていたかもしれないが、また新日本プロレスも寺西の存在にもっと早く気づいていれば、寺西のプロレス人生のもっと変わっていたかもしれない、そういった意味では寺西は初代タイガーのライバルになり損ねたのかもしれないが、初代タイガーマスクの最後の相手が寺西勇であることは永遠にプロレス史に刻まれたことも事実でもある。

(参考資料=辰巳出版「実録!国際プロレス」新日本プロレスワールド、初代タイガーvs寺西戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
コメントを投稿するにはログインしてください。