ジャパンプロレスが野心に燃えた1985年①長州力が叫んだ「オレ達の時代」


1985年8月5日ジャパンプロレス「サマー・ドリーム・フェスティバル」大阪城ホール大会、当初は長州力とジャンボ鶴田がシングルで対戦する予定だったが、鶴田が右肘の変形性肘関節症急性悪化、遅発性尺骨神経麻痺で欠場、これにより長州vs鶴田戦は延期となり、急遽会場で長州の相手を決めるファン投票が行われ、谷津嘉章が天龍源一郎を押さえて1位となり長州と対戦、試合は長州が16分でリキラリアットで谷津を降すと、マイクを持った長州は「もう目標は達成されました。今日限り維新軍団を解散します。もう馬場、猪木の時代じゃないぞ!鶴田、藤波、天龍、そして若い俺たちの時代だ!」とアピールすると、4日前まで新日本プロレスのリングに上がっていた私服姿のスーパー・ストロング・マシンが現われリングに上がる。長州とマシンが対峙すると、緊迫した空気が流れたが、長州は「オレはこういう状況を待っていたんだ。よしやろう!」とマシンに握手を求め、マシンも応じて握手となり、マシンの新日本プロレスから離脱が決定的となったが、マシンのジャパン登場はジャパンプロレスの社長だった大塚直樹氏の仕掛けだった。

1984年6月、新日本プロレスの興行を請け負っていた「新日本プロレス興行」が、全日本プロレスと業務提携を結び、社長の大塚直樹が新日本プロレスから長州力ら維新軍団、マサ斎藤とキラー・カーン、永源遥と栗栖正伸を始めとする中堅・若手を引き抜いてジャパンプロレスを設立、業務提携ラインにのって1985年から長州らが全日本プロレスに参戦したことでマット界の勢力分布図が激変、選手の大量離脱を受けた新日本プロレスは大打撃を受けた。更に新日本プロレスの常連外国人だったダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスもカルガリーの外国人ブッカーだったミスター・ヒトの手引きにより、全日本プロレスに移籍する事態まで起きてしまう。ジャパンプロレスは全日本プロレスの選手や外国人選手を借りて主催シリーズも開催していたが、いずれは独立を目論んでおり、長州も社長に就任させ、馬場、猪木と同格の地位にまで押し上げようとしていた。この、実質上は会長となった大塚氏がジャパンプロレスの全てを取り仕切っていた。

大塚氏がマシンに眼を着けたのは、マシンが新日本プロレスに不満を抱いている情報が入っていたからだった。マシンは若松市政をマネージャーにしてマシン軍団を率いて、猪木率いる新日本プロレス正規軍と抗争を繰り広げたことで、維新軍団の抜けた穴をカバーしていたが、1985年に入ると新日本プロレスが全日本プロレスに対する報復としてブルーザー・ブロディを引き抜き抜くと、猪木の相手はブロディにとって代わられ、マシン自身もマシン軍団と仲間割れすることで、新日本プロレスからの中心から外れようとしていた。

そこで新日本プロレスはマシンにマスクを脱がせて素顔の平田淳嗣に戻し正規軍入りさせようと目論む、マシン軍団がなくなればマシン自身もマスクを被り続ける意味はない、またヒトが「カルガリーにいた連中はオレが一声かければ引き抜ける」とカルガリーで世話したマシンやヒロ斎藤、高野俊二の引き抜きを示唆していたことから、マシンを正規軍に置くことでヒトからの勧誘を防ぐ必要があったからだった。

マシンこと平田淳嗣は1982年10月に海外修行に出され、当時の新日本プロレスは選手層も厚く、飽和状態だったことから、ほとんど人員整理のように海外に出されたようなものだった。しかし1984年に入ると第1次UWFが旗揚げし、前田日明、藤原喜明、髙田伸彦までが移籍すると、UWFからの移籍を防ぐために平田に帰国命令が下るが、せっかく海外で伸び伸びやっていたにも関わらず、会社の都合で日本に戻され、マスクまで被らされて、そして今度はせっかく愛着を持っていたマスクを脱がそうとする新日本プロレスに対する身勝手さに不満を抱いていた。

一方、長州らの離脱で選手層が薄くなった新日本プロレスはマシン率いるマシン軍団とアントニオ猪木率いる正規軍との抗争で穴埋めをしていたが、1985年に入ると新日本プロレスもブルーザー・ブロディを引き抜いて反撃したものの、これまで猪木や正規軍の相手を務めていたマシン軍団は不要になり始め、マシンはマネージャーだった若松市政と仲間割れして、マシン軍団からも離脱、スーパー・ストロング・マシンへとリングネームを改めたものの、新日本プロレスを”維新軍団よりインパクトがない””もう旬が過ぎた”と見なしマシンにマスクを脱がせようとするため、マシン自身も新日本プロレスに不信感を抱き始めた。

しかし5月17日熊本大会で藤波辰己が「オマエは平田だろう!」とマイクでアピールすると、それからマシンには平田コールが起きるようになり、週刊プロレスまでも”マシンがいつマスクを取るのか”とキャンペーンを張るなど、マシンが素顔になることを煽った。近年にあるテレビ番組にて藤波はマイクを向けられてつい喋ってしまったと真相を明かしたが、マシンは「平田に戻ったら藤波さんの下で一生懸命やらされる」と思い、周囲が煽れば煽るほどマスクを取ることを拒否、正規軍入りすら拒否し新日本に都合よく利用されるのは嫌だと思い始めていく。これによってマシンもメインから外れ、決着がついたはずのマシン軍団残党との戦いが中心となっていった。

そこでジャパンプロレスから「新日本から離脱して長州と闘うポジションに立ってみないか」と持ちかけられた。8月1日両国大会では藤波との再戦を要求したにも関わらず、マシン3号と対戦させられた後で「マシン軍団とはもううんざりだよ、オレはカーっとした燃えるような戦いをしたい、オレは長州と前田(日明)と闘いたいんだ!」とバックステージで訴えた。マシン自身も新日本プロレスを辞めて海外へ行くことを考えていた矢先でのジャパンプロレスからの誘いに魅力があり、また新しい世界へ飛び込むチャンスだった。

8月4日当日、マシンは言われるがままに新幹線で大阪へ向かったが、不満を抱いていたとはいえ、デビューから世話になった新日本プロレスを辞めていいのか葛藤を抱え、名古屋に到着すると、”ここで引き返そうか”と考えたこともあった。しかしあれこれ考えている間に大阪へ着いてしまい、大阪城ホールでアクションを起こした。

マシンを歓迎した長州も「これまでの馬場さん、猪木さんが動かしてきたし、功績も残してきた。でも、オレ達が遠慮している時代じゃない、オレ達、鶴田、藤波、若い世代がやっていけなければいけないと思うな、オレにしろ、鶴田にしろ、藤波にしろ、みんな30代半ばなんだ、だからこそ、今行動を起こすべきなんだよ、マシンとは遺恨とかそういうのじゃなくて純粋に闘いたいよ、あの握手もそういった意思表示だ、ウチのマット界に来たいという選手は拒まない、ウチを選んでくれた、その期待には応えなきゃいけないな、ウチはまだ小さいけど、一番夢のある団体じゃないの?そういった新しい流れが出たんじゃないかな、まだまだ行動を起こす選手がいると聴いているし、馬場さんや猪木さんがいなくたって、若い世代でオールスター戦でもいいんじゃないかな、上の人にこだわっていたら可能なことも不可能になってしまうし、若い人だけでもいいだろう、近々やりたい場所で、やりたい人間が集まるよ、オレも藤波と、もう1度熱い闘いをやりたいしね、オレも社長としていいものをドンドン導入していくつもりだし、勝算がある!」、長州は「俺たちの時代」と発言した真意を語ったが、長州の発言に一番快く思っていなかった人物がいた、それはジャイアント馬場だった。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.29 GスピリッツVol.29「特集・四天王プロレス」)

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