日米を席巻したnWo②蝶野正洋によって始動したnWo JAPAN


アメリカでムーブメントを起こしていたnWoに目を付けたのは新日本プロレスの蝶野正洋だった。当時の新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、蝶野も天山広吉、ヒロ斎藤と共に狼群団を率いていたが、新日本プロレスはvsUWFインターとの対抗戦路線が主軸だったこともあって橋本真也や武藤敬司の本隊が中心となっていたことから、蝶野はvsUWFインター路線から外れ、1997年1月4日の東京ドーム大会での大日本プロレスとの対抗戦では中牧昭二と対戦させられるなど、黒のカリスマになったにも関わらず、自分の扱いの低さに対する不満が鬱積していた。

蝶野は1996年9月に「ホーガン、nWo結成、黒い軍団を作った」と東京スポーツの見出しを見る。蝶野は1995年に北朝鮮遠征の際にビショフから「蝶野さんの黒のキャラクター、面白いからアメリカに来ないか」とオファーを受けたことがあったが、ホーガンが黒のキャラクターは、蝶野の自分をモデルにしたものだと思い、新日本プロレスを変えるのはこれだと考えてnWoに飛びついた。

蝶野は自分の考えを新日本プロレス上層部に伝えたが、現場監督だった長州力はvsUWFインターからインディー団体との対抗戦を主軸にしたいために反対し、アントニオ猪木も海外進出は考えていたものの、アメリカンスタイルのプロレスは否定的で反対する。この頃の猪木と長州は北朝鮮遠征で莫大な負債を抱え、UWFインターとの対抗戦が爆発的な人気を呼んだことで負債は完済することが出来するものの、二人の関係は少しずつだが亀裂が生じ始めていた。

その蝶野の考えに理解を示したのは外国人ブッカーを務めるマサ斎藤だった。斎藤は猪木と長州の間に入って説得し、猪木も東京プロレスからの縁、長州も師匠の一人である斎藤の意見は無視することが出来ず、蝶野のWCW行きを承諾させた。

蝶野は直ちに斎藤と共にアメリカへ渡ったが、WCWには連絡は入れずほとんどアポなしで、頼れるのは斎藤だけだった。WCWの大会を視察した後で蝶野は斎藤を通じてビショフと対面、ビショフと斎藤はAWA時代から旧知の関係だった。斎藤からnWoを新日本プロレスでやりたいと要望を伝えると、普通なら契約書が必要な案件にも関わらず、ビショフは何も言わず握手だけで契約を成立させ、nWoを日本でもやることを認めてしまった、おまけに本来なら名称の使用料も含めたロイヤリティも一切求めなかった。それだけビショフも斎藤に対して信頼しており、斎藤もビショフを信頼していた。ビショフはWCWをインターナショナルの団体にするには日本の市場が重要だと考えており、その矢先に信頼を置いていた斎藤が新日本プロレスのフロントに入ったことは、日本市場に進出するまたとないチャンスだった。

蝶野はnWoのボスであるハルク・ホーガンにも仁義を通しておこうと考えて面談を申し入れたが、ホーガンは大物過ぎてWCWでもコントロールできず、すぐに会えるかどうかわからなかった。しかし斎藤がホーガンの側近に「マサ斎藤が来ていると伝えてくれ」というと、ホーガンはすぐ斎藤と会い、蝶野とも会談して承諾を得ることができた。ホーガンにとって斎藤はデビューする前からプロレスの厳しさを教えてくれた人間で、師匠の一人であった。

蝶野は「アメリカはいくら強いレスラーであっても、そのレスラーに利益を生まなければメインの座には登れない、エンターテインメントビジネスとして成り立たない」と常々考えており、1996年の日本マット界はK-1や総合格闘技による格闘技が世間で幅を利かせて隆盛し始めていたが、新日本プロレスだけでなく、三沢光晴ら四天王を中心とした全日本プロレスはまだまだ隆盛を極めていたことから対岸の火事でしかなく、新日本プロレスは相変わらず強さを押し出すストロングスタイルをアピールするだけで、時代の変化に対応しおうとしなかったこともあった。蝶野はその現状に危機感を抱き始めてプロレスのビジネス化を常々考えており、nWoはまさにストロングスタイルだけを標榜する新日本プロレスを大きく変える絶好の機会ととらえていたのだ。

蝶野は1月20日の「マンデーナイトロ」にnWoの一員としてデビット・テイラーと対戦してSTFで下し勝利を収めた。蝶野の予定ではWCWと契約して、外国人枠で新日本プロレスに参戦して日米を股にかけて活躍する予定にしており、4月以降はWCW中心にスケジュールを組んでいた。ところがあれだけnWoを不必要としていた新日本プロレスがnWoを求めてきた。理由は長州が狙っていたvsインディー路線が狙いとしてきたターザン後藤が乗らず、大日本プロレスが乗り出してきただけで空振りに終わってしまい、日本でもNBAのトップスターだったデニス・ロッドマンがnWo入りしてリングに上がったことが大体的に報じられて、プロレスファンにも大きな反応を得ていたことから、新日本プロレスもやっとnWoに興味を抱いてきたのだ。

さすがの蝶野も新日本プロレス側の要望を聞かざるえずシリーズ参戦を決め、さっそく日本上陸時のメンバーをピックアップ、まず新日本プロレスの常連外国人選手で既にnWo入りしていたスコット・ノートン、そしてバフ・パグウェルを選んだ。バグウェルは日本では馴染みが薄かったが、WCWではベビーフェースとしてパトリオット、スコーピオと組んでWCWタッグ王座を獲得するなど活躍、ヒールターンしてからnWo入りしており、パグウェルのキャラを見て、日本受けすると考えてパグウェルを抜擢した。

1997年2月2日の後楽園大会から蝶野がnWoを率いて参戦するが、蝶野がnWo入りを果たしたということで大きな注目が集まって超満員となり、初戦はノートンとパグウェルと組んで正規軍の武藤敬司&小島聡&中西学と対戦、試合もnWoが勢いを見せつけて正規軍を圧倒、最後もノートンがパワースラムで正規軍のリーダー格である武藤から直接フォールを奪い完勝、試合後も天山やヒロまでも駆けつけて小島&中西をKOさせて、狼群団もnWoに吸収、KOされた武藤の背中にnWoと黒スプレーで印した。こうしてnWoJAPANが誕生し、ノートンだけでなくパグウェルさえもnWoという大きなブランドのおかげで人気を呼び、売店には”nWoTシャツがないのか”と問い合わせが殺到するなど、日本でも大きなムーブメントが巻き起ころうとしていた。

nWo JAPANの勢いは衰えず、2月の札幌2連戦、2月8日のIWGPヘビー級王者である橋本自ら乗り出して中西と組んで蝶野&ノートン組と対戦するが、ノートンがnWo側に付いたこともあってなす術もなく、中西が蝶野のケンカキックの前に沈み完敗、9日は蝶野&ノートン&天山に武藤&健介&小島が挑んでいったが、健介がnWo側の集中砲火を浴び、ノートンのジュラシックボムに沈んで完敗、その際に武藤をnWoに勧誘する。13日の岐阜では地元出身の橋本が健介、安田忠夫と組んで蝶野&ノートン&天山と対戦して、蝶野がSTFで安田を降すなど、nWoは圧倒的な勢いを見せつけ、ヒールとして扱われているにもかかわらず、ファンから支持を集めていった。

そして蝶野はnWo JAPANを拡大するために新たなる仕掛けを始めようとしていた。

(参考資料 福留崇広著イーストプレス「さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録」、ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.19『軍団抗争』、新日本プロレスワールド」

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