ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王座を奪取…全日本プロレスを立て直した男・佐藤昭雄


1981年1月、ジャイアント馬場の付き人を務め、アメリカ・カンザス州に拠点を置いていた佐藤昭雄が帰国した。佐藤は1974年から海外武者修行に出されたが、女子プロレスラーのベティ・ニコライと結婚、アメリカで家族を持った佐藤は海外に拠点を置いたことで、そのままアメリカに居ついてしまった。

1979年に佐藤は5年ぶりに凱旋するも、10月に交通事故に遭って一旦カンザスに戻り、再び参戦するために日本に戻ったが、もう一つの目的は全日本プロレスに辞表を出すことで、アメリカでやっていく自信をつけていた佐藤は義理は果たしたとして全日本プロレスを退団し、フリーとしてアメリカで活動することを決めていた。

ところがこの頃の馬場と元子夫人はとんでもない事態に陥っていた。全日本プロレスは外国人選手の所得税滞納問題が起きており、税務署が馬場の財産全て差し押さえる寸前にまでになっていた。

馬場は苦渋の決断として日本テレビに経営権を譲り、プロモーター兼任で会長に棚上げされた、全日本プロレスを旗揚げする際には日本テレビ社長で当時会長だった小林與三次が「一生面倒見る」と約束していたことから、日本テレビに全日本プロレスの面倒を見てもらうことになり、3月から社長として松根光雄氏が派遣されたが、将来は親会社の読売新聞入り、また当時スポーツ中継で金看板だった読売巨人軍のフロント入りを目指していた松根氏からしてみれば、全日本プロレスへの派遣は左遷人事で乗り気ではなかったというのが本音だった。

松根社長は全日本プロレスの再建の策として世代交代を図り、鶴田をエース兼現場責任者とした新体制に着手しようとする、当時の全日本プロレスは馬場、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、グレート小鹿の大熊元司の極道コンビがトップを占めており、時にはドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスに主役を据えるなど外国人天国状態となっていたが、最終的には馬場だけでなく小鹿や大熊も引退させて、全日本プロレスの全権を鶴田に移譲させようとしていた。

しかし鶴田本人は社長になるつもりは全くなく、クーデター事件のこともあって政治面に関わることを嫌っており、また現場責任者になったとしても日本プロレス時代から残っている小鹿や大熊など先輩レスラーらを指揮する自信もなかった。だがデビュー時には松根氏からも世話になり、師匠である馬場にも恩義を感じていた鶴田は思い悩み、一時は全日本プロレスを退団して引退することを考えるまでに追い詰められた。

そういう状況で鶴田はデビューから話し相手になってもらっていた佐藤に相談すると、佐藤は現場責任者であるブッカー業の仕組みについてレクチャーした。佐藤はアトランタで名ブッカーといわれたジョージ・スコットの仕事ぶりを見ており、選手を売り出すためのプロデュースの仕方や試合の組み方、全体を統括する仕方を学び、ブッカーはメインイベンター以上に金を稼いでいることを知っていた。説明を受けた鶴田は松根社長に佐藤が現場責任者として適していると推薦し、馬場からも「若手を育成して欲しい」と依頼を受けたため、佐藤は出しかけた辞表を引っ込めて家族と共に日本に戻ることになった。

佐藤が始めたのは若手の育成で、当時の全日本プロレスの若手は越中詩郎だけで、対戦相手も百田兄弟(百田義浩&百田光雄)、ミスター林のベテランばかりあてられたことあって、新日本プロレスより若手が育ちづらい土壌だった。そこで佐藤は後藤政二(ターザン後藤)、三沢光晴をデビューさせて若手同士で切磋琢磨させる土壌へと作り替えていき、特に三沢は教えても何でもそつなくこなすなど将来性を感じていた。しばらくして崩壊した国際プロレスから冬木弘道、菅原伸義(アポロ菅原)も加わったことで若手が増えて前座の若返りに成功、また国際プロレスから阿修羅・原やマイティ井上も加わったことで、石川敬士と共にアジアタッグ戦線の中心となったため、小鹿と大熊の極道コンビは一歩下がり、ミスター林はレフェリーに転向させるなど、中堅の若返りにも成功した。

佐藤は次に常連外国人選手の若返りを図り、ブルーザー・ブロディの売り出しにとりかかる。全日本プロレスの外国人トップはファンクスとブッチャーだったが、実質上のトップはブッチャーで、ブッチャーは試合を盛り上げるために馬場にアイデアを出すなど、全日本プロレスに大きく貢献することで、外国人選手のボスとして絶対的権限を握っていた。
しかし佐藤はこれからの全日本プロレスはリングアウトや反則決着をなくさなければならないと考えており、ブッチャーの出すアイデアはリングアウトや反則決着が多く、前座でも横行するようになっていたことから、ブッチャーの考えは不要と考えていたのだ。また鶴田を売り出すためには絶対的ライバルが必要と考えており、全日本プロレス初来日時に鶴田を高く評価し、ライバル視していたブロディに白羽の矢を立てたのだ。ブロディはプロモーターやブッカーとはトラブルを起こすトラブルメーカーだったが、佐藤とは不思議とウマが合って良好な関係を築いており、ブロディも佐藤に対して絶大なる信頼を置いていたことから、佐藤にとってブロディはブッチャーより扱いやすい存在だった。

佐藤はブッカーの立場としてブッチャーから絶対的権限を剥奪すると、しばらくしてブッチャーは新日本プロレスへ移籍したが、ブッチャーにしてみれば馬場の付き人だった佐藤がブッカーとして取り仕切るだけでなく、ブロディをプッシュし始めたことで面白くなかったことが移籍を決めた要因の一つだったのかもしれない。また戸口も新日本プロレスへ移籍したが、代わりに帰国した天龍源一郎が大ブレイクを果たして第3の男へと昇りつめていく、佐藤にとって戸口は日本プロレス時代からの先輩であったが、天龍は後輩にあたり相談に乗るなど親しい関係を築いていた。こうしてブッチャーと戸口は去ったものの、代わりにブロディと天龍が台頭したことで、全日本プロレスは自然と佐藤がブッカーとしてやりやすい環境へと変わっていった。

松根社長は就任会見で馬場の引退勧告することを示唆していたが、鶴田が社長になる意志がないことをわかっていた佐藤は全日本プロレスには馬場が必要と松根社長に説き、また親会社である日テレも”馬場あっての全日本プロレス”と考えていたこともあって、馬場の引退は回避されたものの、その代わり佐藤は馬場を立てつつも松根社長の意向を汲んで、外国人中心路線から日本人vs外国人路線へと転換、馬場を少しずつ退かせて鶴田と天龍源一郎による鶴龍時代への土台作りに着手、反則やリングアウト決着は馬場からも徐々に取り上げていき、馬場がメインに立つ機会も減らしていった。

特に鶴田にはあまりにも若者過ぎる、試合が軽すぎるとして赤と青のツートンカラーのタイツから、重みを与える黒に変え、絶対性のある必殺技が必要としてルー・テーズからバックドロップの指導を受けさせるなど、鶴田をエースとしてプロデュースし始める。また人気に陰りが見え始めたマスカラスに代わり、アメリカで大ブレイクを果たしていたザ・グレート・カブキを凱旋させ、カブキも期待通りに日本でも大ブレイクを果たすなど、世代交代に成功することで全日本プロレスの経営も好転させていった。

また馬場も鶴田にトップとしての自覚を持たせるために大木金太郎から譲り受けたインターナショナルヘビー級王座を狙わせるようになった。インターヘビー級王座は馬場の代名詞的王座であり、鶴田が獲得すれば馬場の後継者に認められただけでなく、鶴田が馬場に代わって全日本プロレスのエースになった証でもあった。ドリーを破って王者となったブロディと鶴田でインター王座を巡る抗争を展開させ、1983年8月31日蔵前大会で鶴田がブロディをリングアウトながらも破り、念願だったインターヘビー級王座を奪取、馬場からも「よくやった、今日からお前がエースだ」をお墨付きをもらい、この大会をもって全日本を支えてきたザ・ファンクスがテリー・ファンクの引退をもって一歩退くことになったため、鶴龍時代へと突入した。

鶴田をプロデュースしてきた佐藤の集大成が、馬場がNWA世界ヘビー級王者、新日本プロレスのアントニオ猪木がWWFヘビー級王者になったように、鶴田にも世界のベルトを巻かせることだった。鶴田はこれまでNWA、AWA両王座とも何度も挑戦したが、まだまだ『善戦マン』の域を達しておらず、あと一歩のところでベルトを奪取できなかった。
そして1984年2月23日、全日本プロレス蔵前国技館大会にてNWAインターナショナルヘビー級王者のジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者であるニック・ボックウインクルとダブルタイトルマッチが行われることが決定する。この頃のAWAは前年まではボスだったバーン・ガニアは引退していたものの、王者のニックを中心に隆盛を極めていたが、12月末にニックに挑戦するはずだったハルク・ホーガンがドタキャンしてWWF(WWE)に引き抜かれる事件が起きており、主力選手やスタッフまで引き抜かれるなど、斜陽の兆しが見え始めていた。

最初はAWAのボスであるガニアは馬場をニックの挑戦者に指名したが、佐藤だけでなく松根社長も鶴田の挑戦をプッシュすることを決めるも、問題は馬場を説得できるかだった、馬場は表向きは鶴田をエースとしてお墨付きを与えていたが、まだ内心は認めていなかった。佐藤は馬場と二人きりで話し合い「ここはジャンボで行くべきじゃないですか?」と提案すると、馬場は「その話は最初に自分に来た話だ」と考え、ムッとしてヘソを曲げそうになった。だがしばらく考え「そうかあ…」と納得したことで、鶴田の挑戦にGOサインが出された。佐藤はもし馬場が承諾しなかったら辞表を出すつもりだったという。

鶴田のAWA王座挑戦が発表されると、日本テレビも特番枠である「土曜トップスペシャル」で録画ながらもゴールデンタイムでの放送されることになり、インター王座もかけられることになったことで試合ルールも場外カウント20の特別ルールながらも反則やリングアウトでも移動するPWFルールが採用され、特別レフェリーには引退したテリー・ファンク、サブレフェリーにはジョー樋口が裁くことが決定するなど、日テレだけでなく全日本全体も鶴田のAWA王座奪取に後押しし、また佐藤も鶴田に対して「これが最後のチャンスだと思って、リングの中で結果を出すと言った方がいいよ」とマスコミ向けにコメントを出すようにアドバイスする。鶴田はこれまでAWA王者のニックには4度挑戦したが、3度反則裁定で逃げられていたこともあって、鶴田も「今回は引退をかけるぐらいな気持ちでニックと決着をつける」と言い切り、決戦へ向けて大きくに盛り上げた。

 同じ日にUNヘビー級王座を奪取した天龍と、かつてのプロレス実況を担当していた徳光和夫氏から試合直前のインタビューで激励を受けた鶴田が「J」で入場、誰もが王座を奪取すると期待しており、TVで視聴していた自分も逃げ場のないルールなら鶴田はニックに勝って王座を奪取できると思っていた。だが試合が始まるとスロースターターのニックが試合開始のゴングと同時にクロスボディーを浴びせて奇襲をかけて機先を制し、鶴田をハンマーロックでやキーロックで捕らえて腕攻めを展開して先手を奪い、鶴田にリードを奪わせないなどするなどニックペースで試合が進んでいく、自分はこれまでニックは逃げの王者として評価していなかったが、キラーの片鱗を見せたことでニックを再評価せざる得なかった。

先手を奪われた鶴田は延髄斬りからジャンピングニーパットで活路を見出すも、ニックは巧みに間を取って、鶴田に深追いをさせず再度ハンマーロックで捕らえるが、鶴田はパイルドラバーを連発してからフライングボディーシザースドロップを決め、フィンガーロックからの力比べで押し切りかかる。  

ニックはヘッドロックから鶴田を巧みに場外へ誘い出すとエルボーやパンチを浴びせ、先にリングに戻ったニックはニードロップを投下、ハイアングルのボディースラム、ブレーンバスター狙いは鶴田が首固めで切り返すと、ショルダータックル狙いは相打ちとなって両者はダウンとなるも、起き上がった鶴田はコブラツイストで捕獲、グイグイ絞めあげにかかる。 

 ニックはエルボーから鶴田をコーナーに何度も叩きつけるが、ボディースラム狙いは鶴田が浴び倒してからナックルを浴びせ、コーナーに2度叩きつけてからストンピングを何度も落として、串刺し攻撃を狙うが、ニーで迎撃したニックは再びハンマーロックで捕獲、だがヘッドロックで捕獲したところで鶴田も河津掛けで脱出する。 

 ところがニックは鶴田のボディーへの頭突きからボディーブローの連打と反撃して串刺し攻撃を狙うと、かわした鶴田は再びストンピングを何度も落としてからダブルアームスープレックス、サイドスープレックスと攻勢をかけ、逆エビ固めで捕獲してニックを追い詰める。

ニックの腰に照準を定めた鶴田はストンピングを落として、シュミット流バックブリーカーからドロップキックを狙うが、自爆させたニックはパイルドライバーで突き刺し、何度もカバーして鶴田のスタミナを奪うも、鶴田を突き飛ばしたところでレフェリーのテリーと交錯してしまい、テリーが場外でドタバタしている間に、リングに戻った鶴田に攻勢をかけ、再度場外に追いやってからロープ越しのブレーンバスターを狙うと、背後に着地した鶴田がバックドロップホールドを決め3カウントを奪い、念願だったAWA世界ヘビー級王座を奪取、「世界の鶴田」へと昇りつめていった。

内容的に鶴田は苦戦を強いられていたのも事実で、王座を奪取するよりも防衛するほうが難しいことを後で思い知らされることになる。26日大阪府立体育会館で行われた再戦では、またしてもキラーとなったニックに苦しめられ、両者リングアウトで逃げ切るのがやっとだった。

そして馬場がNWA王者になっても成し得なかった世界ベルトを持ったままアメリカマットをサーキットを行い、このときも佐藤が帯同していったが、ブラック・ジャック・ランザやビル・ロビンソン相手に防衛するも、日米を股にかけて防衛戦を行ったことで、さすがの鶴田も疲れが見え始め、次第に反則裁定で逃げることが多くなっていた。そして5月13日ミネソタ州セントポールでリック・マーテルの挑戦を受けるが、鶴田が背後からドロップキックを放った際にマーテルを特別レフェリーであるレオ・ノメリーニと交錯させてしまい、それでもバックドロップホールドを決めるが、ノメリーニレフェリーのカウントが遅れて決め手にならず、フライングボディーシザースドロップを決めた際にノドをロープに直撃させてしまうと、マーテルがフライングボディーアタックを決めて3カウントを奪い王座を奪取する。AWAが鶴田に王座を奪取させた目的は王者戦線の若返りで、マーテル政権を誕生させるまでのショートリーフだった。鶴田の天下は3ヶ月で終わったが、AWAはWWFの全米侵攻の余波を受けており、組織としても陰りが見え始めていたことから、3ヵ月とはいえAWA王座になったのは鶴田にとってはベストタイミングだったのかもしれない。

こうして全日本プロレスは鶴田、天龍、ハンセン、ブロディへの時代となったが、1984年はプロレス界にとって激動の年でもあり、アメリカでもWWFが全米侵攻を始めたように、日本にも時代の波が押し寄せるようになり、新日本プロレスでは次々と主力や中堅選手が離脱する事態が起きる。そこで馬場は後にジャパンプロレスとなる新日本プロレス興行と提携を結び、三沢を2代目タイガーマスクに変身させ、ジャパンプロレスが引き抜いた長州力ら維新軍団が参戦する。

佐藤は1984年をもってブッカーを退き、再びアメリカへ戻った。理由は全日本プロレス再建に一定の目処がついたからだったが、佐藤は馬場が自分を疎ましく思っていることを充分わかっており、これ以上全日本プロレスでブッカーを務めるとことは難しいと判断したからだった。

しかし佐藤の残した改革は90年代に生かされ、佐藤が育てた選手らは他団体で活躍、三沢は全日本プロレスで新しいエースとなり、リングアウトや反則決着もほとんどなくなっていった。四天王プロレス時代の土台を作り上げていったのは佐藤昭雄の功績だった。

 <参考資料 GスピリッツVol.42>

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