アントニオ猪木vsカール・ゴッチ、最後の対決②実力世界一決定2連戦とNWA加盟申請、なぜゴッチは神様とされたのか…


アントニオ猪木、坂口征二vsルー・テーズ、カール・ゴッチの最強タッグ戦から10カ月が経過した1974年8月1日の大阪府立体育会館、8日の日大講堂の2戦にわたって猪木vsゴッチの2連戦が行われることになった。

新日本プロレスは8月シリーズにはゴッチ、そしてジョニー・パワーズが参戦したが、パワーズとはNWF世界ヘビー級王座をかけて7月30日の名古屋で対戦することが決まっており、さすがにゴッチ相手ではNWFをかけるわけにはいかないということで、「実力世界一決定戦・2番勝負」とネーミングされた、ネーミングのヒントは最強タッグ戦実現に尽力した東京スポーツの桜井康雄氏が着けたものだった。

30日に猪木はパワーズを降しNWF王座を防衛すると、同日にゴッチが特別レフェリーとして裁くことになってテーズと共に来日、まず8月1日の大阪での試合はテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」の中継は入らずノーテレビだったものの、超満員札止めを記録。試合も反則のないクリーンな攻防となるが、猪木がゴッチの古傷である左膝を攻めてリードを奪う。ところがドロップキックが自爆すると、ゴッチがすかさず必殺のジャーマンスープレックスホールドを決めるが、猪木の足がロープにかかっていたため、テーズのカウントが入らない。
これに怒ったゴッチはテーズに抗議するが、その隙を突いた猪木が後方回転エビ固めで3カウントを奪い、シングルでもゴッチから初フォール勝ちを奪い、さすがのゴッチも隙を見せての敗戦だったことから潔く敗戦を認めざる得なかった。

猪木はNWA総会に出席するためにシリーズを途中離脱する。新日本プロレスは前年はNWAに加盟申請をしてきたが、NWAは原則的に一地区一会員が原則で、日本では既にジャイアント馬場の全日本プロレスが加盟してしていたことから、新日本プロレスの加盟申請は却下されてきた。

この頃の新日本プロレスはビンス・マクマホン・シニアのWWF、ロスアンゼルスのプロモーターであるマイク・ラベールと提携を結んでおり、ビンス・シニアを中心とした反主流派が新日本プロレスを支持していただけでなく、NWAの会長で実質上のボスだったサム・マソニックが勇退を仄めかして、ビンス・シニアとは親しい関係だったフロリダのエディ・グラハムが新会長になるのではと噂されていたことから、グラハム新会長の後押しで新日本プロレスの加盟申請が通るのではと期待を持たせていた。

ところが、肝心のグラハムが病気を理由に総会を欠席、マソニックの会長を留任することが決定するだけでなく、新日本プロレスの加盟申請も、また全日本プロレスを支持するプロモーターら主流派が圧倒的に多かったため、17vs8の圧倒的多数で否決で却下されてしまう。落胆した猪木は帰国してシリーズに合流、8日の日大講堂でゴッチと再戦するが、テーズのレフェリングは今回ばかりは猪木に対してチェックが厳しく、ロープブレイクでもテーズが厳しく猪木をチェックするため、猪木が何度も抗議する場面が目立つ。テーズのレフェリングにキレた猪木はテーズをボディースラムで投げようとすると、背後からゴッチが猪木の後頭部を蹴って、テーズが猪木を覆いかぶさって押しつぶした形となると、ゴッチが押さえ込んで3カウントを奪い、猪木vsゴッチの実力世界一決定戦は1勝1敗となるも、師弟対決とはいえ不可解な結果に終わってしまい、猪木vsゴッチの再戦は行われず、事実上ラストマッチとなった。

ゴッチはその後も外国人ブッカーの一人として新日本プロレスに携わっていくが、新日本プロレスがWWFとの提携を強化したため、ゴッチから派遣されるレスラーの数が減っていく、理由はビンス・シニアやラベールらがNWAに加盟するためにはゴッチをどうにかすべきだとアドバイスしたとされ、猪木の側近だった新間寿氏も外国人ブッカーとしてのゴッチは高く評価していなかったことから、周囲の声に押される形で猪木も師匠であるゴッチとの関係を見直さざる得なくなる。

新日本プロレスは翌年の1975年にNWAにやっと加盟する。NWAはマソニック会長が勇退、また新間寿氏が「今回加盟を却下したらアメリカの独占禁止法にあたるアンチトラスト法(独占禁止法)で訴える」という裏技で出してきたことから、NWAも渋々加盟を認めたが、強引な手段に打って出たことで①馬場と仲良くし、互いのテリトリーを侵食することなく、共存共栄をはかること、②馬場の全日本プロレスに来日している外国人レスラーは招聘出来ない。③猪木のNWA世界ヘビー級王座への挑戦は1年間は認めないと条件付きでの加盟で、新間氏名義で加盟して新日本プロレスは外国人供給ルートを拡大させたものの、総会での重要案件にも新間氏は一切かかわることが出来ず、NWA世界王者のブッキングは全日本プロレスが独占したままだったことで加盟条件の③は反故にされるだけでなく、また猪木はモハメド・アリとの対戦した後で、NWA総会に出席した際には「レスラーがボクサー相手に寝て対応した」「みんなで500ドルずつ出し合ってイノキに黄金のナイフをプレゼントしよう(切腹しろ)」など主流派から批判され、NWAの勧告で猪木がせっかく権威高めたNWF世界ヘビー級王座から世界を外されるなど冷たい仕打ちを受けたことで、猪木と新間氏はNWAより権威を高い物を作るとしてIWGP設立へと動き出していく。

外国人ルートの供給拡大と共に、ゴッチの外国人ブッカーとしての役割は減り、海外における若手の世話人的な役割がメインとなり、新日本プロレスは若手の登竜門である「カール・ゴッチ杯」を新設、優勝者はゴッチの下でトレーニングをして、ゴッチのブッキングで海外武者修行させ、藤波辰爾や木戸修、キラー・カーン、藤原喜明、前田日明をコーチし、メキシコのUWAやイギリスへブッキングした。また猪木vsビル・ロビンソンではテーズと共に立会人、猪木vsモハメド・アリではチーフ・セコンドにつくなど、ゴッチの存在を大いに活用したが、それは仕事が減らされたゴッチに対する猪木なりの配慮だった。

ゴッチは1982年1月に新春黄金シリーズに来日、当初は元旦の後楽園大会でローラン・ボックと対戦する猪木のセコンドとして猪木自身が呼び寄せたものだが、ゴッチは試合をしたいと申し入れ、元日には藤原、8日は木戸と対戦してジャーマンスープレックスホールドで降すも、試合自体はエキシビションで、木戸戦が現役最後の試合となった。

アメリカへ戻ったゴッチに全日本プロレスからフロリダ遠征に来たジャンボ鶴田と渕正信が訪れると、ゴッチは新間氏と新日本プロレスを批判、二人に全日本プロレスへ行きたいと訴えたという。この頃の新日本プロレスの上層部も頭の固いゴッチを邪魔者扱いしており、UWAからのブッキングもゴッチを通さず、新間氏がグラン浜田を通じて直接ブッキングしたことからトラブルが起きていたという。ジャイアント馬場も新日本プロレスの精神的支柱であるゴッチを引き抜けば大打撃を与えられると考えて、世界最強タッグではビル・ロビンソンと組ませてエントリーさせることも考えていたが、引き抜き防止協定が結ばれたことでゴッチの引き抜きは未遂に終わるも、ゴッチと新日本プロレスとの関係が悪化する一因となった。

1983年にゴッチは前田をコーチした後は、新日本プロレスとは疎遠となると、佐山や藤原、前田が参加した第1次UWFに最高顧問として参加、木戸の引き抜きにも一役買う。

船木誠勝がパンクラスを旗揚げすると、パンクラスの名付け親もゴッチだったことから、アドバイザーで携わり、藤波辰爾の西村修が旗揚げした無我ワールドプロレスリングでも名誉顧問に就任、現役でなくても神様ゴッチというブランドは大いに活用されていった。

猪木は後年「ゴッチは日本に来なければ、もっと早く辞めていたかも」と答えていたが、アメリカではゴッチのような実力派シューターは必要とされなくなったが、日本に来ることでゴッチは神様とされ必要とされる存在となった。それを考えると猪木がゴッチと再戦をしなかった理由は、ゴッチはあくまで神様とされたのは日本だけの話で、世界中の強豪と対戦した方が自分にとって一番のメリットがあると考えたのか、ゴッチはそういった意味ではアメリカではなく、日本で認められた大スターだったのかもしれない。

(参考文献 ベースボールマガジン社 『日本プロレス事件史Vol.23 最強決定戦』辰巳出版『Gスピリッツ Vol.45 特集 カール・ゴッチ』)

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