創立50周年記念…旗揚げ1年目で負債を抱えた新日本プロレスに坂口征二が合流!


1972年3月6日に旗揚げした新日本プロレスだったが、当時資金源とされたテレビ局がなく、観客動員も苦戦を強いられたことで早くも莫大な負債を抱えた。その新日本プロレスに大木金太郎に次ぐ日本プロレスのエースだった坂口征二が合流した。

高校で柔道三段を取得した坂口は明治大学に進学、卒業後は旭化成に就職した後は全日本柔道選手権で優勝するなどオリンピック出場も期待されたが、1968年のメキシコオリンピックでは柔道が除外されることになり、全日本選手権も優勝を逃したことで、坂口はプロレスラーに転向することを決意、1967年に日本プロレスに入団後は、すぐアメリカへ送り込まれ、コーチを務めたカール・ゴッチ相手にデビューを果たし、帰国後はジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ看板選手となった。
ところが、1971年に猪木がクーデター事件で日本プロレスから追放されると、坂口は日本プロレスNo.2となって馬場のパートナーにもなるが、1972年7月には馬場も離脱して全日本プロレス旗揚げへ動く、馬場はデビュー前から坂口を可愛がり、坂口も兄貴として慕ってきたが、馬場から「日本プロレスを守れ」と命じられ、坂口自身もプロレス入りやアメリカ遠征に際して世話になった社長の芳の里への恩義もあって、大木金太郎と共に看板選手として日本プロレスを支えることになった。

 しかし猪木だけでなく、馬場も抜けた影響は大きく、観客動員は激減するだけでなく、日本プロレスを独占放送することが出来たNETの中継も視聴率が低下、また馬場と猪木が抜けた日本プロレスの興行を買うプロモーターも減り、興行日程数も激減していく状況となると、坂口はNET側から「このままじゃ来年は放送することが出来ない」と告げられる。NETは馬場、猪木の抜けた日本プロレスでは視聴率の好転は見込めないと判断して、猪木の新日本プロレスと日本プロレスの合併させることを目論んで水面下で猪木と交渉を始めており、坂口も視聴率だけでなく観客動員の低下する状況を見て、日本プロレスの現状に危機感を抱いていた。

 その最中で日本プロレスに助っ人として参戦し、同じ明治大学の出身のマサ斎藤から電話がかかり「猪木さんに会ってみないか?オレが仲介するから」と誘われた。斎藤は日本プロレス入門後に東京プロレスに参加したことで猪木とも繋がりがあった。猪木の住んでいるマンションの1階にあったスキ焼き屋で猪木と会談する。坂口にとって馬場は兄貴と慕っていたが、猪木とは「第2回NWAタッグリーグ戦」で組んで優勝を果たしていたものの、近寄りがたいイメージがあった。しかし、いざ一緒に食事をすると次第に打ち解け始め、プロレスの本質的な考えに意見が一致して意気投合し、二人で握手を交わした。

 NETの専務である三浦甲子ニからも「お前たちの面倒は見る、一緒にやれ」と後押しを受けた猪木と坂口は水面下で合併計画の詳細を練り上げ、途中から猪木から坂口が合流すると知らされた新間寿氏も加わり、合併への条件を煮詰めた。そして新日本プロレスを発展解消させた上で、日本プロレスの選手らも独立して、新団体「新・日本プロレス」を設立して双方の選手を合流させ、猪木が社長、坂口は副社長、日本プロレスの社長だった芳の里は会長という合併案を完成させた。猪木にしても日本プロレスとの合併はNETから放映権料で負債を完済できるだけでなく、選手層も厚くなり、また芳の里はまだNWAの会員であることから、全日本プロレスより先にNWAとのパイプが出来て、大物外国人選手が呼べる、またとない機会でもあった。猪木は根回しのため、グレート小鹿を始めとする日本プロレスの選手らと水面下で会い、合併を計画していることを打ち明け、日本プロレス選手会も合併に賛同して、2月8日に合併会見が開かれたことで全ては順調に進むかと思われた。

 ところが韓国に帰国して選手会の会合を欠席していた大木が合併に反対の意を示す、大木は合併が猪木主導になっていることに納得しないだけでなく、せっかく得た日本プロレスのエースの座を猪木に奪われるだけでなく、また坂口に自分のポジションすら奪われると危惧したのだ。一方の新日本も猪木の側近だったユセフ・トルコが「坂口は猪木追放に賛成していたじゃないか!」を理由に反発していた。トルコは新日本に参戦していた豊登の説得もあって、豊登と一緒に新日本を去ったことで落ち着いたが、坂口は大木との話し合いに難航するどころか、合併に賛同していた日本プロレス選手会が一転して反対にまわってしまい、坂口は孤立してしまう。

 坂口は猪木やNETとの約束を守るために小沢正志(キラーカーン)、木村聖裔(木村健悟)、大城勤と共に日本プロレスからの離脱を決意するが、契約が3月まで残っていたこともあって3月シリーズに参戦することになり、猪木は適当な理由をつけて欠場することを薦めていた。理由は残留派が坂口らを潰すために何か仕掛けてくるかわからないからだった。坂口は「どんな手段を使ってでも反撃してやる」と腹をくくっていたが、猪木は日本プロレスの3月シリーズに参加するジョニー・バレンタインが日本プロレス側から”坂口を潰せ”と依頼されたという噂を聞きつけると、バレンタインとは東京プロレスで対戦した仲であったことから、密かにバレンタインと会い「坂口を潰さないでほしい」と依頼するなど、坂口が無事新日本に移籍できるように動き、また明治大学柔道部のOBには警察関係者が多かったこともあって、会場内に坂口の身を守るために私服刑事を張りこませたこともあった。

 シリーズ最終戦の3月8日の佐野市民会館、残留派とは行動を共にせず小沢らと独自で移動していた坂口はビジネスホテルをおさえ、ホテルの一室で着替えて自家用車で会場入りした。第1試合では小沢が羽田光男を降し、第2試合も木村が伊藤正男を降したことで何事もなく進むかと思われていたが、第3試合で大城が桜田一男(ケンドー・ナガサキ)と対戦した際に、桜田から一方的に殴られ、蹴りつけられてしまう。
桜田も残留派の先輩からの頼みということで断り切れず仕掛けたものだったが、顔面血まみれとなった大城はリングアウト負けとなり、坂口は出ていけば残留派の袋叩きにされることは目に見えていることから助けに出ることは出来ず、桜田にやられる大城を苦渋の思いで見ているしかなかった。

 坂口はメインで大木と組んでキラー・カール・クラップ、ルーペン・ファーレス組と3本勝負で対戦し、試合は2-1で坂口組が勝利も、坂口は猪木から「もう会場の入り口に車を待たせて、若いのを乗っけて、そのまま来い。控室に戻ると、それでこそやられるぞ、オレの経験だから」とアドバイスを受けていたことから、会場外の車に小沢らを待たせ、試合は終わると控室に戻らず車に飛び乗り、追いかけてくる残留派の面々を振り切って会場を後にした。

 いったんホテルへ戻った坂口らは着替えてからすぐチェックアウトし、車で一路、上野毛にあった新日本プロレスの道場へ向かい、道場には深夜にも係わらず山本小鉄や藤波辰巳、木戸修、小林邦昭らが出迎えてくれた。小沢らを新日本に預けた坂口は一旦自宅に戻り、翌朝日本プロレスの事務所を訪れ、小沢らとレフェリーの田中米太郎と共に辞表を提出、坂口が離脱すると日本プロレスは間違いなく崩壊することがわかっていた芳の里も「まあ、いろいろあったけど、お前達も頑張れ」と送り出すしかなかった。

坂口の日本プロレス離脱が正式に決まったことでNETは日本プロレスに対して中継打ち切りを通告、正式に新日本プロレスに乗り換え、猪木と坂口による新生・新日本プロレスがスタートした。当初は猪木と坂口はフィフティフィフティで五分の関係とされたが、新間氏が「悪いけれど、新日本プロレスを売り出すか、坂口征二を売り出すかを考えると。私は新日本プロレスを売りたい、新日本プロレスがよくなってこそ、あなたもよくなるから、二番手に甘んじてくれないか?」と猪木を立てて欲しいと頭を下げてくる。それはNETによるテレビ中継もつけてくた立役者である坂口に一歩引いて猪木に譲ってほしいという話は、坂口にとって失礼な話でもあった。
だが、坂口は嫌な顔をせず「わかりました。新間さん、新日本に入る覚悟を決めた以上、いいですよ、新間さんのやりやすいようにやってください。しかし、猪木さんに何かあった時は、私はメインを張りますよ、いつでも私はその立場にいることを忘れないでください」と日本プロレスのエースだったプライドだけはしっかり伝えつつ、会社の発展を最優先にして新間氏の要望を受け入れた。坂口も馬場や猪木の後を受けて日本プロレスに留まったものの、低下する視聴率や観客動員を見てエースとしては自分の力量が足りなかったことを一番痛感していたのかもしれない。

 3月30日の新日本の新シリーズ「ビックファイトシリーズ」が大田区体育館大会で開幕、日本プロレスとの契約を結んでいなかった小沢らは出場したものの、3月いっぱいまで契約が残っていた坂口は試合には出場できず挨拶だけに留まるも、メインで猪木が柴田勝久と組んでジャン・ウイキンス、マヌエル・ソト組と対戦した際に、外国人側の反則攻撃で窮地に立たされると、坂口が駆けつけて外国人側を蹴散らして猪木と握手を交わして新日本参戦をアピール、翌日の31日の新日本プロレス旗揚げ1周年記念パーティーでも二人はがっちり握手を交わし、日本プロレスとの契約を終えた4月1日の佐賀県鹿島市大会から坂口が巡業に合流、セミファイナルでマヌエル・ソトを降して新日本初戦を白星で飾った。

 4月6日の宇都宮スポーツセンター大会から新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」がスタート、大会は生中継となったが、館内が薄暗くなってリング内にスポットライトが映し出されると、赤コーナーから猪木、青コーナーから坂口が登場してがっちり握手を交わし、実況を担当した舟橋慶一アナは「日本の夜明け、プロレスの夜明けであります!」と絶叫したが、まさしく坂口が合流したことで新日本プロレスの快進撃が始まった。

 猪木と坂口は黄金コンビと呼ばれ、1973年10月14日の蔵前国技館大会ではゴッチ、ルー・テーズと対戦して2-1で勝利を収め、またクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを降してNWA北米タッグを奪取、表向きは対等な関係も、新日本を優先するために猪木を立てつつ支え、時には対戦して1974年第1回ワールドリーグ公式戦では30分フルタイム時間切れ引き分けになるも、猪木とは引き分けだけで勝つことが出来ず、次第に二人の差が開き始める。
 昭和50年10月に猪木がビールス性関節炎でシリーズを欠場することになると、「猪木さんに何かあった時は、私はメインを張りますよ」と言った通り、猪木に代わって坂口がメインに登場、27日の田園コロシアムでのビックマッチではジョニー・パワーズ相手に奮戦してリングアウトながらも勝利を収め、猪木欠場の穴を埋めきった。

 坂口は北米ヘビー級王座や北米タッグ王座も奪取して活躍するが、藤波や長州力が台頭し始めると、次第に脇に回って一歩引く立場となり、現場責任者も兼務するようになるが、1984年に長州力や前田日明らが大量離脱すると猪木との黄金コンビを復活させて再び最前線に打って出て猪木を支えた。長州も新日本に復帰し橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司が凱旋帰国して次世代を担う存在になっていくと、坂口も次第に出場する試合数が減り、フロント業務が主になっていったが、1986年のIWGP公式戦で猪木と初対決した会場である広島県立体育館で猪木と対戦すると、アトミックドロップを放った際にトップロープに猪木の股間を直撃させ、リングアウトながらも猪木から念願の初勝利を収める。

1989年に猪木が政界進出することに伴い社長を辞任すると、猪木の推薦で坂口が社長に就任することになり、坂口も現役にはまだ未練は残していたものの、二足の草鞋を履くほど器用ではないということで現役引退を決意、1990年2月の東京ドームでは猪木との黄金コンビを復活させて橋本真也&蝶野正洋と対戦、3月23日の後楽園ホール大会で、武藤がSWSに引き抜きの魔の手が伸びているとわかり、引き留めに奔走するという慌ただしい中で、猪木と行動を共にするきっかけを作ってくれたマサ斎藤と組み、日本プロレス離脱時に行動を共にした木村、木戸修戦を最後に引退し、社長業に専念した。

社長に就任した坂口は現場を長州に任せ、ドーム興行を中心にした興行形態への転換、WCWとの提携、G1 CLIMAXを企画、グッズショップである闘魂ショップのオープン、専属トレーナーの配備、アマレスへのバックアップとして闘魂クラブの発足、大物をスカウトなど着手し、所属選手が結婚する際には仲人となり、現場監督の長州に反抗して凱旋帰国を拒否して給料を止められた西村修には、坂口の配慮で別口座に残して、その分を渡し、西村が病気になって長期欠場となった際には特別な待遇を提示して残留させるなど、社長として手腕を発揮し、1995年には新日本の負債を完済させるなど、90年代の躍進を裏方から築き上げていった。

ところが1996年に猪木が参議院議員選挙に落選すると、猪木は猪木事務所を設立して、外から新日本に係わり出し、猪木事務所の設立の際には坂口も協力したが、猪木が「世界格闘技連盟」を設立し、坂口が自分がスカウトした小川直也を猪木に預けると、猪木は「世界格闘技連盟」をUFOに名称を改め、小川という存在を武器にして新日本のみならず、K-1にも関わり、挙句の果てには新日本を批判し始めたことで、新日本と猪木&UFOの間で摩擦が生じ始めていた。
1999年1月4日に小川が橋本にセメントマッチを仕掛ける事件を起こすと、橋本をはじめとする選手らは「UFOや猪木と縁を切ってほしい」と抗議され、坂口は新日本の社長として猪木に抗議するが、これがきっかけとなって猪木と坂口の関係は壊れかける。この頃の猪木は新しい側近を猪木事務所に引き入れたことで、側近らの意見を重視するようになっていた。

6月の武道館で小川が坂口を突き飛ばしてしまうと、さすがに坂口も怒りUFOとの関係を絶縁するが、その後の株主総会で坂口は任期1年を残して社長から外され、猪木に頭の上がらない藤波が社長に就任した。これまで猪木と坂口は常に円満ではなく対立することもあり、猪木も「坂口を切れ!」と口走ることがあったが、そのたびに坂口が一歩引いて猪木を立てたことで、関係は維持されてきた。坂口は常々「オレが猪木さんの足りないところ補って、新日本の屋台骨を守る」という意識が強くもってきたが、猪木が新しい側近を据えたことで坂口は必要のない存在になり始めていた。

 坂口は会長に棚上げされたが、社長から降ろされた瞬間から新日本の屋台骨が揺らぎ始め、90年代の新日本を支えてきた橋本と武藤が独立し、猪木によって現場監督を降ろされた長州も叛旗を翻して独立して新団体を立ち上げていったことで経営は一気に傾き始める。武藤が新日本を退団する際に坂口も全日本へ誘ったが、坂口はどれだけ冷たくされても猪木に付き従う覚悟を決めただけでなく、新日本と守るために武藤からの勧誘を丁重に断った。
 会長になってからも坂口は猪木事務所へ金を送り、陰ながら支援し続けていたが、2003年には猪木の意向によって坂口は会長からも外された。この人事には後に監査役となるY氏の意向を猪木が聞き入れたものだったという。坂口はCEOとして新日本に留まったが、この理不尽な人事に不満を持つ人たちは坂口をあくまで「会長」と呼んだ。

傾いた経営は好転しなかったこともあって藤波も社長から解任され、側近となっていた橋本田鶴子さんの意向を聞いた猪木が経営コンサルタントの草間政一氏を招いて社長に就任させるが、猪木の意向に反発したため僅か1年で解任され、猪木の娘婿だったサイモン・ケリー氏が社長に就任する。ところが解任された草間氏が報復として新日本の経営状態を暴露したことがきっかけとなって、新日本の経営危機が表面化してしまう。猪木は自身が持っていた新日本の株をユークスに売却し、猪木体制の新日本は終焉となり、坂口が築き上げたものを猪木が食いつぶす結果となってしまった

 ユークスの傘下になった新日本だが、猪木事務所を解散させて新日本内に取り込まれた猪木が経営改善に取り組むユークスに反発して、新日本から飛び出しサイモン氏と共にIGFを旗揚げする。しかし、猪木が政界再進出の際に坂口の会長解任に一役買ったY氏にIGFを運営を任せると、猪木とY氏の間に対立が生じ、サイモン氏もY氏側についたため分裂騒動に発展、IGFは旗揚げ10年目で崩壊した。こうして猪木の取り囲んでいた側近は田鶴子さんだけとなり、猪木は田鶴子さんと再婚した。

 近年、猪木は度々坂口、藤波と食事会を開くようになっていた。坂口は新日本がブシロード体制になってからも相談役として新日本に留まっており、猪木は藤波の興行にゲストとして招かれると、坂口もサプライズで登場するなど、再び黄金コンビの関係が復活するようになっていた。その最中に猪木の再婚相手である田鶴子さんも死去したことで、取り囲んでいた人たちがいなくなり猪木は一人になった。猪木も側近の言うままに坂口を冷遇していたが、それでも坂口が尽くしてきたことで、本当の盟友は坂口だったことにやっと気づいたのではないだろうか…

 新日本プロレスが旗揚げして今年で50年目、創始者は猪木かもしれないが、猪木や新日本を支えていた坂口征二の尽力があったのも事実、坂口も相談役としてこれからも新日本を支えていく。
(参考資料 佐々木英俊著「最強のナンバー2 坂口征二」ベースボールマガジン社日本プロレス事件史Vol.9「ザ・抗争」Vol.26「地獄からの生還」坂口征二の試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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