1932年にゴージャス・ジョージというレスラーがデビューした。ジョージは尊大な貴族をキャラクターにしたレスラーで、女性マネージャーを同伴してリングに上がり、香水をふりかけ、豪華なガウンをまとってオカマ風のギミックで売り出され、当時はテレビでもプロレスが放送され始めたことから、たちまちキャラが受けて、全米で五本の指に入る人気レスラーとなっていった。
ジョージはネブラスカ生まれで10歳の頃からYMCAで徹底的にアマレスの基礎を叩きこまれ、18歳の頃には賞金稼ぎ目当てに来る体格のいい輩を相手にする「カーニバルレスリング」で名声を馳せたことで、テキサス州ヒューストンのプロモーターであるモーリス・シーゲルがスカウトし、本格的にプロレスデビューを果たした。
ジョージはデイジー・デイビスというマジシャンキャラのレスラーに可愛がってもらったが、それが後のゴージャス・ジョージとなるヒントとなり、1947年にロサンゼルスのプロモーターだったジョニー・ドイルから、プロレスの定期中継が開始されると聴きつけると、ジョージはロスに定着、髪の毛を金髪に染め、カールにして王族貴族風のヘアスタイルにチェンジ、豪華なガウンを纏って大きな花を囲い、従者を雇って香水を入れた如雨露を持たせたことでで、軟派の帝王ゴージャス・ジョージに変身した。

わかりやすい悪役のジョージの試合には全米の人々が熱狂し、会場を毎回満員にするだけでなく、プロレス中継でも高視聴率を稼ぐなど大スターとなった。1950年にシカゴへ遠征したジョージはNWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズにも挑戦、テーズもジョージとは古くからの知り合いで実力もわかっていたことから、ジョージもテーズ相手にも好勝負を展開、まさにアメリカ国民からもセレブとして扱われるようになったことで、アメリカにおけるプロレス人気を巻き起こした立役者の一人となった。




しかし、1959年に入るベテランとなったジョージに陰りが見え始め、酒の飲み過ぎの影響で肝臓と膵臓をやられ、20分以上の試合が出来なくなり、また私生活でも最初の妻であるベティ・ワグナーと離婚して全財産を失い、1953年にはマネージャーを務めていた19歳の女性と再婚を果たすが、体の衰えは隠せず、いつの間にかリングからフェードアウトしていった。

1962年に入ると、ザ・デストロイヤーがロサンゼルスマットに定着するようになる。デストロイヤーは1954年に素顔のディック・ベイヤーとしてデビューを果たしてから、全米各地を転戦、当時ロサンゼルスのジュールス・ストロンボーとWWA王者だったフレッド・ブラッシーのオファーを受けてロサンゼルスに転戦、白覆面を被ってザ・デストロイヤーに変身していた。
そんな9月か10月のある日、デストロイヤーが車でドライブをしているところで、あるものを目にする。小さなショーウィンドーにゴージャス・ジョージのガウンが飾られ、『ゴージャス・ジョージのガウンを売ります』と大きな看板が掛かっていた。デストロイヤーもなぜこんな場所にジョージのガウンが飾られているのかと不思議に思って車を降り店に入ってみると、中にいたの全盛期と比べ、身体も痩せ、顔色を悪くしていたジョージだった。
ジョージはかつて世話をした後輩であるデストロイヤーの突然の訪問を歓迎していたが、この頃のジョージは2度目の妻とも離婚して再び全財産を失い、肝臓と膵臓も悪化してリングに上がれず、保存していたガウンやシューズ、タイツを売りながら細々と生活していた。
そこでジョージは「お願いだ、君とオリンピックオーデトリアムで試合をさせてくれ、負けたら観客の前で髪を切る、君が負けたらマスクを脱ぐというルールになれば、きっと満員になるだろ、まとまった金を稼いだらプロレスから足を洗い、ユタ州に住んでいる知人が経営しているガソリンスタンドで雇ってもらえるように頼んでみるつもりだ」と自身の引退試合としてデストロイヤーとのマスカラ・コントラ・カベジェラを提案する。
当時のデストロイヤーはWWA王者となっていたが、ジョージの個人的な願いを聞き入れる立場ではなかった。しかし世話になったジョージの頼みとあっては断れず「必ずストロンボーと相談する、いい返事がもらえるように努力する」と約束してその場を去ったが、かつての大スターの落ちぶれた姿を見るのはデストロイヤーにとっても辛いことだった。
デストロイヤーは約束を守りストロンボーに相談すると、11月7日のオリンピックオーデトリアムでノンタイトルの30分1本勝負で試合は実現、ジョージと対戦、ジョージは体を壊してレスリングが出来ない状態ながらも意地で16分過ぎまで粘ったが、スタミナ切れとなったところでデストロイヤーがダブルニードロップで3カウントを奪い勝利、デストロイヤーが必殺技である足四の字固めをフィニッシュにしなかったのは、デストロイヤーなりのジョージに対する武士の情けだった。


試合後にジョージはイスに座り、バリカンで頭を刈られ丸坊主となり介錯された。その後ファイトマネーを貰ったジョージがロスサンゼルスを引き払ってユタ州オクデン郊外のガソリンスタンドに雇われ、このまま余生を過ごすのではと思われていたが、長年の飲酒で弱り切っていた肝臓と膵臓は悪化する一方で、引退試合となったデストロイヤー戦から13か月後の1963年12月26日に心不全で死去し、48歳の短い生涯に終えた、

また11前には日本にプロレスブームを巻き起こした力道山も死去、デストロイヤーもジョージの死を知って日米でプロレスの立役者が立て続けに亡くなったことに因縁めいたものを感じたのではないだろうか…
ジョージの亡くなった後はゴージャス・ジョージの息子と名乗るレスラーが何人か現れたが、どれも本人ではなく、ジョージのような名声を得ることも出来ず、また1969年に国際プロレスでもゴージャス・ジョージJrと名乗るレスラーが来日したが息子本人ではなかったという。
デストロイヤーはジョージを反面教師にしたのか愛妻家で家庭を守ろうと努力したが、全日本プロレスに所属した際に妻が浮気に走ってしまいデストロイヤーは離婚、しかし再婚後はその反省を踏まえて家庭を守りつつコンディションをしっかり保って1993年まで現役をまで通した。2010年にジョージはWWE殿堂入りを果たし、顕彰セレモニーには最初の妻だったベティ・ワグナーが出席、最後の相手だったデストロイヤーがインダクターを務めた。2019年3月7日、家族が見守る中、デストロイヤーは88歳の生涯を閉じた。

(参考文献 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.15『引退の余波』」
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