1974年2月13日、国際プロレスに辞表を提出したストロング小林が会見を開き、フリー宣言を果たし、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に挑戦表明し、全日本プロレス、新日本プロレスに内容証明つきで挑戦状を送付した。
ストロング小林こと小林省三はボディビル出身で鉄道局に勤めながら、体を鍛えていたが、1966年10月27日にジムの友人が「全日本ボディビルコンテスト」に出場するために応援に駆けつけると、当時の国際プロレスのリングアナウンサーだった長谷川保夫氏のスカウトを受け、小林もジム内で”プロレスラーになれば”とおだてられたのもあり、即決でレスラーになる決意を固め、その場で吉原功社長、マティ鈴木と会って入門となった。
当時の国際プロレスは設立したばかりで、吉原社長やエースとして参戦することになったヒロ・マツダ、マティ鈴木と共に旗揚げに向けて奔走しており、吉原社長や長谷川氏、鈴木と共に人材確保を目的に、ボディビルコンテストにゲストとして招かれていた。
小林はマティ鈴木の特訓を受け、ボディビル体型からレスラー体型に肉体改造を果たし、1967年7月27日の名古屋で大磯武相手にデビューするも、吉原社長の命令で日本人初のマスクマンとしてデビューすることになり、マスクを被って覆面太郎と名乗ってデビューを果たしたが、マスクマンにしたのは日本側の選手がマツダと豊登だけだったこともあり、話題性を重視するために小林をマスクマンとしてデビューさせたという。小林は「覆面であろうが素顔であろうがよりも、デビューする喜びにの方が大きい」と受け止め。指示通りにマスクマンとしてデビューした。覆面太郎でデビューした小林は若手相手に連戦連勝を果たして、マスコミからも注目されるようになったが、覆面太郎は1シリーズだけで、元の小林省三へ戻っていった。だが、その間にマツダが吉原社長との金銭トラブルが発端となって国際プロレスから撤退したことを受けて、マツダの弟分だったマティ鈴木も国際プロレスから去ることを余儀なくされ、長谷川氏も家庭の都合で退社、TBSの意向でブッカーにグレート東郷が就任、小林が付き人を務めることになった。
東郷はTBSからエースとしてプッシュするグレート草津をプロデュースするように命じられ、1968年1月3日にルー・テーズと対戦する草津に、東郷は小林を練習台にして指導するも、練習嫌いの草津は東郷の言うことを聞かず、練習しなかったことで、東郷はテーズとの対戦前に草津を見切り、草津の練習台になっていた小林に将来性があるとしてプッシュしようと考え始めた。
草津vsテーズは東郷の予想通りに草津が惨敗を喫すると、東郷はブッカーの権限でデビューして1年足らずの小林を大抜擢し、ダニー・ホッジ、タッグでテーズなど超大物と対戦させるなどチャンスを与え、そのかいがあって外国人選手相手にも勝利を収められるようになった。ところが、東郷も吉原社長との金銭トラブルが原因で国際プロレスから撤退することになり、東郷は小林に「アメリカに来なさい」と誘い、小林も迷ったが、自分をスカウトしてくれた吉原社長を裏切れず、丁重に断った。
だが小林の強運は続き、国際プロレスがヨーロッパのジョージ・レリスコウ主宰のジョイント・プロモーションズと提携を果たすと、ヨーロッパのレスラーを引き連れて来日したレリスコウが小林に興味を抱き、しばらくして初来日を果たしたビル・ロビンソンの推薦も受けて、イギリスを始めとするヨーロッパへ武者修行に出され、イギリス、ドイツ、フランスと転戦、1969年5月18日に国際プロレスの要請でパリへ向かい、豊登と合流、後にアンドレ・ザ・ジャイアントとなるモンスター・ロシモフ、イワン・ストロゴフを破り、国際プロレスで新設されたIWAタッグ王座の初代王者となり、凱旋帰国を果たした。その後、アメリカでビル・ミラーを破ったとして(選手権自体は行われておらず)IWA世界ヘビー級王者にもなり、国際プロレスのエースとして君臨するはずだった。
エースとなった小林に待ちうけていたのは、前エースだった草津のパワハラまがいのイジメだった。本来なら草津自身がエースとして売り出されるはずが、TBSだけでなく東郷までも草津が見限り、自身の練習台だった小林がエースとしてプッシュされることに面白くなかった。ブッカーも務めていた草津はテレビマッチでは小林をメインに扱っても、テレビの入らない地方での会場では小林をセミ以下に扱い、プレイベードでも酒癖の悪い草津は紙コップに自身の小便を入れて小林に飲むことを強要するなど、さまざまな形で嫌がらせを行い、小林も真面目で大人しい性格だったこともあって、パワハラまがいのいじめにたまりかねて移動バスで移動する草津とは別に、小林は別の車で移動していた。
また、国際プロレスの期待とは裏腹に、TBS中継での視聴率もロビンソン滞在時と比べて下降線となったことも、小林に対する風当たりの強さの一因となった。国際プロレスが小林を凱旋させたのは、これまで外国人エースだったロビンソンが日本を離れるため、穴埋めのために小林をエースに押し上げようとしていたが、IWA世界ヘビー級王者にもなって長期政権を築き、バーン・ガニアの保持するAWA世界ヘビー級王者にも挑戦するなど、リング内では期待を応えていたが、対外的には不人気だったことで期待に応えられておらず、テレビ中継も1時間枠から30分枠に降格したこともあってTBSから支払われる放映権料が半減、小林の満足するギャラも支払うことが出来なくなっていった。
エースでありながら団体に居心地の悪さを感じていた小林は2月1日付けで国際プロレスに辞表を提出、保持していたIWA世界ヘビー王座を返上した。吉原社長は小林だけでは心もとないとして、頭角を現してきたラッシャー木村も売り出そうとしていたが、それも草津からの嫌がらせと受け止めた上での退団だった。新日本プロレスからの引き抜きではと言われていたが、辞表を提出した時点で、まったくあてもなく海外へ出ようと考えるも、小林が草津と対立していることは、退団する前から他団体に伝わっており、両団体が退団前から小林獲得に動き、新日本は新間寿氏が早くも動いて小林とコンタクトを取り交渉を開始すれば、馬場も水面下で全日本に参戦していたマティ鈴木を動かして獲得へ動いていた。
しかし、全日本が動いた時点で、小林は新日本参戦を決めており、馬場と猪木へ挑戦表明した翌日に新日本参戦が正式決定、3月19日の蔵前国技館大会で猪木の保持するNWFヘビー級王座に挑戦することが決定した。猪木はかねてから日本マット統一を目的で日本選手権を提唱、馬場に挑戦を表明してきたが、馬場はことごとく無視してきたことから、国際プロレスのエースだった小林は日本選手権に向けて格好の素材だった。馬場は挑戦状を送付されたことで新日本の仕業と感づいたのか「既に猪木と話がついてる小林に、なんで俺が戦わないとならんのだ。そもそも格下の小林なんぞ最初から相手にしとらん」と小林争奪戦から一旦手を引くも、馬場は小林の挑戦を避けたことでバッシングを受けた。
3月1日に両者出席の記者会見が東スポ立会いの上で行われ、猪木が「私はアンタの事は知らないけどね、まぁいろいろ国際の方々の話を聞いてね…だいたいオレに挑戦するっちゅうことがおこがましい!」と挑発する、猪木は挑発することで小林を怒らせ、会見や対戦を盛り上げようとするが、小林がしどろもどろな返答することで、猪木が焦れたのか記念撮影でファイティングポーズを取った際に、猪木がいきなり小林を殴り、これでやっと怒った小林はエキサイトする。小林は「なぜ殴られなければならないのか」と戸惑っていたという。
ところが、国際プロレスが新日本参戦とvs猪木に待ったをかけた。猪木との対戦を目前とした3月8日に吉原社長が小林に対して契約違反と主張、新日本への出場停止の仮処分申請に動き、違約金を支払いを要求する。小林と国際プロレス側の契約内容は正当なものであり、国際プロレス以外は上がってはいけない内容になっていた。
小林も違約金を払う余裕もなく、猪木vs小林は対戦目前で中止かと思われていたが、東京スポーツの井上博社長が動いて、小林の違約金1000万円を肩代わりし、東スポ所属のレスラーとして新日本に送り込むという形を取った。1970年代の日本プロレス界は日本プロレスの分裂からプロレス人気が落ち込んでおり、人気復活の起爆剤を求めていた、新日本のエースの猪木vs国際プロレスのエースだった小林の日本人対決なら人気復活の起爆剤になると考えた東スポが猪木vs小林を実現させるために大英断を降したのだ。国際プロレスもTBSによるテレビ中継の打ち切りも決まり、経営事情も苦しかったこともあり、また相手が東スポでは口も出せないため、東スポからの違約金を受け取らざる得ず、和解が成立して、晴れて猪木vs小林が実現することになったが、小林の引き抜きを契機に国際プロレスの選手らは新日本を毛嫌いするようになった。

大会前夜、新間寿氏はまた全日本や国際プロレスの横槍が入り、小林が猪木戦をドタキャンするのではと懸念していた。小林は新間氏に「大丈夫ですから」と約束どおり会場入りすると電話で告げたが、それでも新間氏は念のために小林の自宅に泊まりこみ、翌日一緒に会場入りした。
大会当日の蔵前国技館は16500人超満員札止めを記録、会場に入りきれなくて帰ってもらった観客もいたという。猪木vs小林はメインでレフェリーとして清見川、サブレフェリーとして二人を良く知る豊登が裁くことになったが、清美川も影で小林の新日本参戦に一役買っていた人物で、海外で長きに渡って活躍して、国際プロレスのヨーロッパ担当外国人ブッカーになっていたものの、冷え込んでいく国際プロレスに見切りをつけて新日本に乗り換えようと目論んでいた。

開始から猪木が牽制しつつ、なかなか組み合わない、やっとロックアップで組み合うが一旦分かれる、再度ロックアップで猪木が押し込んでブレークとなる。再びロックアップから小林が押し込むと、猪木が突き飛ばし、小林がエキサイトする。
猪木がタックルを仕掛けるが、小林は逃れる。猪木がヘッドロックを仕掛けるが、小林が力づくで解くと、猪木はまた小林を倒して、また小林がエキサイトする。小林はアームドラックからアームロックで長時間捕らえるが、猪木もアームドラックで切り返してアームロックから、得意のグラウンドへ持ち込むも、小林はブリッジで逃れる。
今度はフィンガーロックも、バックを奪った猪木はグラウンドに持ち込み、足を捕らえて小林の動きを止め、固めに来たところで、小林はロープに逃れる。
スタンディングでバックを奪った小林はサーフボードを狙うと、猪木は逃れて脇固めで捕らえつつ、インディアンデスロックを狙いつつ、スリーパーを狙うも、アームドラックで逃れた小林はハンマーロックで捕らえてリードを奪う。
猪木派ロープに逃れると、ブレークにも係わらずボディーにエルボーを打ち込み、エキサイトした小林にビンタからグラウンドコブラは小林がロープに逃れる。小林は組みつくとベアハッグで捕らえて絞めあげるが、猪木は背負い投げで逃れてカバーする。
スタンディングになると猪木はビンタ、小林も返すが猪木は見切って当たらない、小林のアームドラック狙いを潰した猪木はバックを奪うも、そのまま持ち上げて猪木をおんぶするが、猪木はグラウンドコブラで捕らえる。
小林は横十字固めで捕らえると、猪木はロープに逃れるが、小林がベアハッグで捕らえると、猪木はナックルで逃れ、ダブルアームスープレックスで投げる。これに怒った小林はパンチで殴るも、猪木は殴るのはこうやるんだと言わんばかりにアッパーを浴びせて、小林はダウンし、猪木はストンピングで追撃する。
猪木はヘッドロックで捕らえてから首四の字へと移行、グイグイ絞められた小林は意識朦朧となるも、ロープに押し込むと、小林がパンチ、絡みついた猪木は卍固めを狙うが、ロープに逃れられる。
小林がフィンガーロックで捕らえるとパワーで押し込むが、猪木がナックルを浴びせれば、小林も殴り返してヘッドロックで捕らえ、猪木がコブラツイストを狙うと、バランスが崩れて両者共場外へ転落、小林は猪木に鉄柱攻撃を敢行して、猪木の額が割れて流血となる。
これを逃さなかった小林はエプロンに立った猪木の額めがけてナックルで殴打、ブレーンバスターからナックル、カナディアンバックブリーカーで担ぐも、ロープを蹴った猪木がリバーススープレックスで返すと、バックドロップで投げ、ジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い、猪木が防衛、昭和の巌流島決戦を制した。猪木は試合後に「こんな試合を続けていたら、10年もつレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない。負けることもあるかもしれない。しかし、どんな相手の挑戦でも受ける、それがファンに対する我々の義務ですから」と名言を残し、小林も「海外へ出て1から出直す」とコメントして、猪木とノーサイドとなった。

後年、小林は猪木戦を振り返って「蔵前国技館のお客さんにも伝わるような試合をやりましたよ、あれがいい試合になったのは、僕が引っ張っているような感じだったし、猪木さんが変なことをしてこなかった。このときも僕の仕掛けた技から、猪木さんは絶対に逃げなかったから、やっぱり試合の中で、やりたいことが出来る人が最高だと思ったよ。だから、あの年に猪木さんと2回やったけど、”ああいい試合だった”と憶えている」と振り返っていた。
前哨戦もなしで対戦したこともあって、小林が猪木の想定以上にグラウンドに喰らいついていくことで、猪木自身も驚いていたと思う。小林のまじめで大人しい性格を猪木がパンチで小林をエキサイトさせることで、小林の持ち味を引き出していたが、小林自身はパンチをアゴに食らったことで脳震盪を起こして意識を飛ばしており、猪木がなぜパンチを放ったのか未だに理解していなかったという。
その後、小林は新間氏の斡旋でビンス・マクマホン・シニアのWWFへ送り込まれ、ニューヨークMSGでWWF王者だったブルーノ・サンマルチノと対戦したが、小林引き抜きに一役買っていた清見川は猪木の意向で猪木vs小林のレフェリーだけに留められ、新日本に係わることが出来なかった。小林はフロリダをサーキットした際に馬場と会談、改めて全日本へと誘われるが、小林は違約金を支払ってくれた東スポ側への恩義もあって丁重に断った。12月に帰国して12日、同じ蔵前国技館で猪木と再戦するが卍固めにギブアップを喫して敗れ、翌年1975年に開催された「第2回ワールドリーグ戦」公式戦では3度目の対戦で猪木と30分時間切れ引き分けとなり、リーグ戦でも猪木、坂口征二、大木金太郎と並んで2位に食い込み(1位はキラー・カール・クラップ)、優勝戦進出者で猪木と対戦するが、卍固めの前にまたしてもギブアップ負けを喫し、3度敗れたことで小林は新日本に入団することを決め、小林が新日本に加わったことで猪木、坂口、小林の三本柱が確立されることになった。

小林は坂口と組んで北米タッグ王座を奪取、坂口は「猪木さんと組むときは、猪木さんを引き立てなければいけなかったから、やっと五分の関係で組めるパートナーを見つけた」としていたが、小林は坂口と組むのが嫌で、「相手にやられてやっと坂口に交代して、そこから一気呵成に戦うのが見せ場なのに、あの人は自分がやられいても、やり返して交代するから、僕の見せ場がなくなり、また試合が最初からになってしまう。そういうパートナーを思う気持ちがないの」とボヤいていた。

小林のNo3の扱いは最初の2年だけで、藤波辰巳と長州力が台頭すると、脇に追いやられるようになり、坂口と組んで保持していた北米タッグ王座もヒロ・マツダ、マサ斎藤組に敗れて王座から転落すると、坂口のパートナーは長州に取って代わられ、次第に中堅に埋没されていく。新日本が国際プロレスと提携を結んだこともあって、古巣の国際プロレスにも参戦、永源遥と組んでかつて自身が保持していたIWA世界タッグ王座を奪取し短期間ながらも保持したが、これが小林にとって最後の活躍だった。

その小林の現役生活は終焉は突如訪れた。1981年10月16日の大分で星野勘太郎と組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー、バットニュース・アレン組と対戦した際に、かねてから痛めていた腰が悪化、1週間後に決まっていたドイツ遠征はキャンセルせざる得なくなり、シリーズも欠場した小林は東京に戻って治療するも、遂に身体が動かなくなってしまった。
この頃には国際プロレスは崩壊し、木村はアニマル浜口、寺西勇と一緒に”はぐれ国際軍団”として一緒に組ませる計画があったが、小林が身体が動ける状態でないため、木村らとの共闘プランも消えた。
完全に戦列を離れた小林は映画出演をきっかけにタレント業が主になり、その間にも復帰へ向けて治療していたが、回復することはなく、89年7月に福生市民体育館で引退式を行い、現役生活に別れを告げた。

引退の直前に吉原功社長が新日本の顧問に招かれ、小林と再会したが、吉原社長は現役引退を残念がっていたという。そして吉原社長はガンで入院すると、小林がプロレス入りするきっかけになった長谷川氏から連絡を受けた小林は吉原社長を見舞い、吉原社長から「小林とは長年いろいろあったけど、本当にオレを思ってくれたのは小林が一番だな」と話しかけたことで、小林は涙を流し、吉原社長とは和解するも、1985年6月10日に吉原社長は死去した。だが、草津とは一度電話で連絡があったものの、相変わらず上から目線の態度だったため、すぐ電話を切り、草津が死去しても和解することはなかった。
しかし役者に転出してからの小林は新日本プロレスとは疎遠になった。理由は新間氏の頼みで小林は新日本の役員になった際に、新間氏が小林の母を口説き落としてアントンハイセルに出資させたことに怒り、返金を求めて訴訟寸前になったからだった。
1992年3月1日に小林は坂口の要請で新日本プロレス創立20周年記念の横浜アリーナ大会で一夜限りの復帰を果たして、北米タッグ王座を巡って抗争を繰り広げたタイガー・ジェット・シン、上田馬之助と対戦、最初こそはオファーを渋ったものの、坂口の説得もありタッグならなんとかいけるとして受けた。だが、横浜アリーナ大会でも猪木と会うこともなく、試合後のパーティーでも小林は出席したが、OBの小林を新日本プロレス側は誰も紹介しなかったとして小林は怒り、その場を退出して、以降は絶縁状態となった。
小林もその後、芸名をストロング金剛としてテレビドラマや映画、バラエティにも出演したが、1995年に母が死去したことをきっかけに芸能界からも引退、プロレス雑誌のインタビューには答えているが、晩年は脊髄損傷の影響で寝たきりの状態になっていた。
そして2022年1月6日、ストロング小林さんが12月31日に死去したことが報じられた。81歳だった。ご冥福をお祈りいたします
(参考資料 辰巳出版「実録・国際プロレス」「Gスピリッツ「Gスピリッツ Vol.46 1981年8月9日以降の国際プロレス」ベースボールマガジン社「日本プロレス事件簿Vol.15 タッグの行方」「日本プロレス事件簿Vol.20入団・退団」)
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