新日本プロレスvs全日本プロレス 奇跡の対抗戦!雪解けの中の緊張


1990年1月18日、歴史的事件が起きた。新日本プロレスの社長に就任したばかりの坂口征二がジャイアント馬場に「全日本プロレスから選手を貸してほしい」と依頼すると、馬場は「ああ、いいよ、オマエも社長に就任したんだ。お祝いだよ」と返事したことで、2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会にジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、スタン・ハンセンの全日本プロレスの主力が電撃参戦することが発表された。

事のきっかけは1月4日、銀座東急ホテルで「89年度プロレス大賞授賞式」が行われた後に、キャピタル東急ホテルにいたジャイアント馬場を坂口征二が表敬訪問し、2月10日の東京ドーム大会は当時のNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーvsグレート・ムタを実現させたいと考えていたが、全日本プロレスと結んでいた引き抜き防止協定にはフレアーも名前が記されていたこともあって、馬場にフレアー参戦の許可を得ようとしていた。
NWAはジム・クロケット・ジュニアの独占になってからはWCWの中に取り込まれてしまい、全日本プロレスはNWAから脱会してフレアーも呼ぶつもりはなかったことから、坂口の申し出を受け入れ、馬場は新日本プロレスの外国人選手であるスティーブ・ウイリアムスとの交換トレードという形でフレアーの新日本参戦を認めた。これまで新日本プロレスと全日本プロレスは競争相手ということで対立しあっており、馬場と猪木がライバル関係であるうちは両団体は交わらないと思われていたが、新日本プロレスの社長が猪木の政界進出で坂口に代わると、これまで対立しあっていた両団体は歩み寄りを見せた、特に馬場は「アイツは人を騙さん男だ」と誠実な人間性を買っており、フレアー参戦の際にも筋を通してきた坂口を社長として高く評価していた。

新日本プロレスと全日本プロレスが協調路線を敷いたことで、当時東西ドイツがベルリンの壁が崩壊したことをきっかけにアメリカとソ連(ロシア)が協調したことで「プロレス界のベルリンの壁が崩壊した!」と言われた。

ところが新日本プロレスと全日本プロレスの協調路線にとんでもない事態が起きる、大会開催まであと1ケ月を切った段階でWCWがフレアーとムタの新日本プロレスの参戦をキャンセルしてしまう。この頃、WCWの競合相手であるWWF(WWE)が佐藤昭雄を密かに派遣して『日米レスリングサミット』を開催するために新日本プロレス、全日本プロレスの両団体に接触して協力を得ることが決まったという情報をキャッチしたことから、WCWが一転してフレアーとムタの派遣にストップをかけてしまったのだ。

1月12日に坂口は馬場にフレアーの参戦がなくなったことを報告し、全日本プロレスの選手を派遣してもらえないかと打診する。馬場もウイリアムスを譲り受けたが、フレアーが来ないことにはバーターは成立せず筋は通らないと考えた。だが馬場は「いいけど、少し時間をくれ」と返事を先延ばしにした。理由は全ての決定権は馬場が握っているとはいえ、内部の調整が必要と考えたからだった。

16日に坂口はドームのメインは猪木、坂口vs橋本真也、蝶野正洋のタッグマッチを発表。猪木は政界進出後の初試合でもあり、坂口は社長就任とと共に引退を発表しており、猪木との最後の黄金コンビでドームのメインを飾ろうとしていたが、フレアーvsムタが中止になって、全日本プロレス勢参戦はこの時点では発表しなかった。理由は基本的な協力は合意には達したものの、まだ発表できる段階ではなく、下手にフライングすれば馬場が怒って全日本プロレス勢の参戦はなくなる。またメインとして立てなければいけない猪木への配慮もしなければならない。坂口も今回ばかりは慎重に事を運ばなけばならなかった。

18日に全日本プロレス勢の参戦が正式に決まると、坂口は現場監督だった長州力にマッチメークを指示、22日の会見でフレアーvsムタが中止になった代わりに、全日本プロレス勢の参戦を発表、カードも長州&小林邦昭vs天龍&川田利明、鶴田&谷津vs木村健悟&木戸修、IWGPヘビー級選手権試合(王者)ビックバン・ベイダーvs(挑戦者)スタン・ハンセンが発表された。当時の天龍は馬場、鶴田をフォールしたことで全日本プロレスの名実ともにトップとなっていたが、それとと共に焦燥感に駆られるようになるも、「最終目標は新日本プロレスに上がること」と明言していたことから、天龍にとっても念願だった新日本プロレスに参戦するだけでなく、久々に長州とタッグながら対戦であることからまたとないチャンスだった。

全日本プロレスの参戦は大きな話題となり、チケットも爆発的に売れて、発表して5日後に前売り券が完売、札止めは確実となるが、新日本プロレスと全日本プロレスの協調はここまでで、対抗戦ムードへ突入しようとしていた。長州のパートナーが小林からジョージ高野に変更することを発表する。理由は天龍が「長州が抜けた後の3年間400試合を毎日必死になってやってきた勢いを見せてやる」「アイツが夢がない!て言って去っていった全日本プロレスを背負っていくから」と敵愾心を剥き出しにしたからだった。ジョージの起用を考えたのは長州で全日本プロレスとはジャパンプロレス時代に散々やった小林より、何かするかわからないことから意外性を買っての起用だった。それに対して天龍もパートナーを天龍同盟では天龍の相棒役を務めていた川田から、三沢光晴こと2代目タイガーマスクを抜擢することを発表する。三沢タイガーの起用を考えたのも天龍でこの試合では負けられないという意味だけではなく、どんな相手でも対応出来る神経の図太さを買って抜擢したのだ。

対抗戦に出場する鶴田は「新日本だからってオレのスタイルが変えるつもりはない」とマイペースの構えを見せれば、元新日本プロレスの谷津も「全日本プロレスの五輪コンビのカラーを出すだけですよ」と相手が新日本プロレスでも敵愾心を剥き出しにはしなかったが、ベイダーはかつてAWA時代に王者だったハンセンに引き上げてもらったこともあって「80年代を通じて日本のトップ外国人だったかもしれないが、90年代はオレであることを証明してみせる」といきり立ち、新日本プロレスのトップ外国人選手であるプライドを剥き出しにする。そして馬場でさえも「私の口から言うのも、おごがましいけど、ウチと向こうの力の差を見せつけますよ」と言い切る。そして馬場なかねてから予定していたハワイへ休暇のために旅立つが、全日本プロレス側の責任者であるグレート・カブキに「何かあったら、全員で引き揚げ来い」と命じた。実は橋本を始め「全日本の力を借りなけれならなかったウチの興行の頼りなさは寂しいね」と新日本プロレス側から不満を漏らす選手もいたことから、馬場も全日本に対して面白くない態度を取ってくるヤツもいるかもしれないと考えていただった。

ドーム大会当日は猪木&坂口の最後の黄金コンビだけでなく、新日本プロレスvs全日本プロレスも注目されていたこともあって63900人を動員、対抗戦は鶴田&谷津vs木村&木戸から始まり、ガンガン攻めてくる木村&木戸に対して鶴田は真正面から受け止めスケールの大きさを見せつけつつ普段と変わらないどっしりして構え、最後は鶴田がフライングボディーシザースドロップで木戸から3カウントを奪い完勝、試合後も鶴田が「オー!」と叫んだことで館内全体が叫び、試合を見ていた獣神サンダー・ライガーさえも鶴田の存在感の大きさの前に圧倒されてしまった。

しかし問題の天龍&三沢タイガーvs長州&ジョージは、天龍がいきり立ち過ぎたのか長州への感情だけが先走ってギクシャクしてしまい、ジョージも勝手な試合に終始して全日本プロレス勢の持ち味を消してペースを狂わせてしまう。また長州が体にオイルを塗ってきたことで天龍に掴ませないようにしたのも不快感を与え、天龍は得意のパワーボムを1度も決めることが出来ず、長州だけがサソリ固めやリキラリアットを出して自分の良さだけをアピールした。試合はタイガーがジョージにリングアウト勝ちも、天龍は長州の狙い通りに空回りして良さを出すことが出来ず、天龍も「全てが終わった、新日本に上がりたいという夢も、レボリューションとしてやってきたことから解放された気持ちだよ」と期待に反した試合をしてしまったことで大いに落胆してしまった。

そしてベイダーvsハンセンは開始2分でベイダーのジャブを浴びたハンセンがパンチで返した際に、ベイダーは右眼を大きく腫らしてしまう。これをバックステージで見ていたカブキは高木功や小橋健太に「やばいことになるかもしれないからリングサイドへ行け!」と指示、最悪の場合は試合を壊すことすら考えていた。しかしベイダーとハンセンは私闘ギリギリの線で試合を成立させ、見ごたえのある攻防を展開、試合は両者リングアウトとなるも、後年語り継がれる名勝負となった。

後年ベイダーは「あのパンチで右眼の骨と鼻を折られて3度も手術した。あれはアクシデントに過ぎない、スタンがオレを対等の相手と認めてくれた結果だ。恩人であり、リスペクトするスタンと日本で凄い試合をやれたのはオレの誇りだよ」と語っていた通り、互いにリスペクトがなければプロレスは成立しない。ベイダーvsハンセンはまさにその典型的試合だった。

ドームが終わると新日本プロレスと全日本プロレスも通常シリーズに入るが、新日本プロレスからジョージと佐野直喜、全日本プロレスから天龍源一郎が離脱する事態が起きる。ジョージと佐野、そして天龍はメガネスーパーが興した団体SWSに勧誘され応じて離脱したのだ。新日本プロレスはジョージと佐野だけで被害は最小限に食い止めるも、全日本プロレスは天龍だけでなく次々と離脱者が続出して被害は甚大だった。そこで新日本プロレスと全日本プロレスが協調路線を取り、新日本プロレスはクラッシャー・バンバン・ビガロを全日本プロレスに貸し出し、全日本プロレスもバーターとしてハンセンを新日本プロレスに貸しだし、ウイリアムスも引き続き新日本プロレスに参戦させるなど協調をアピールしたが、猪木が会長として新日本プロレスに復権を果たすと、猪木の方針で協調路線は打ち切りとなり、壊された壁は再び閉じられることになった。猪木も橋本同様”全日本プロレスの力を借りなければドームは入らないのか?”と対抗戦には否定的だったことから、自分が会長を復権したことを機会に全日本プロレスとの扉を閉じてしまった。

1990年の新日本プロレスと全日本プロレスはつかの間の雪解けだったかもしれない。だがその雪解けの中にも緊張関係があった。

(参考資料=ベースボールマガジン社 「日本プロレス事件史Vol.11 対抗戦・天国と地獄」ベイダーvsハンセン戦は新日本プロレスワールドにて視聴できます)

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