スタン・ハンセン全日本プロレス電撃移籍を独占スクープしたプロレス専門誌


1981年5月、新日本プロレスがアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本プロレスから引き抜いたことを発端として、新日本プロレスと全日本プロレスの間で外国人引き抜き戦争が勃発、新日本プロレスがブッチャー、タイガー戸口、ディック・マードックを引き抜けば、全日本プロレスもタイガー・ジェット・シン、チャボ・ゲレロ、上田馬之助を引き抜くなど仁義なき戦いを繰り広げていた。

そんな6月のある日、当時月刊のプロレス専門誌で竹内宏介が編集長を務めていた『ゴング』が全日本プロレスが新日本プロレスのトップ外国人選手であるスタン・ハンセンの引き抜きに成功したという情報をキャッチした。情報元は全日本プロレスで外国人ブッカーを務めていたテリー・ファンクで、『ゴング』のライターだった山口雄介(ウォーリー山口)を通じて送られてきたのだ。山口氏は全日本プロレス側の外国人とは親しく、そのせいか馬場からも信頼され、全日本プロレスに選手をブッキング、また通訳をするなどほとんど全日本プロレス側の人間となっていた。

当時のプロレス専門誌はまだ週刊化しておらず、日本スポーツ出版社が発行していたプロレス『ゴング』『別冊ゴング』、ベースボールマガジン社の『プロレス』『デラックスプロレス』が月に1度発行されていた。『ゴング』の編集長だった竹内宏介はジャイアント馬場からの信頼も厚かったこともあって、馬場のマスコミ側のブレーンとなっていたが、その一方で新日本プロレスの専務だった新間寿氏とも東京プロレス時代から親しかったこともあり連絡を取り合う関係でもあった。竹内編集長は最低限の仁義を守って双方からの信頼を得ていたことから、周囲は竹内編集長のことを『マット界の黒幕』とも言われることもあった。

外国人引き抜き戦争にはブッチャー、シンに次いで当然ハンセンもターゲットに入るだろうと思われており、新日本プロレスも今年で契約が切れるハンセンに契約延長を求めていたが、その時点で、ハンセンは全日本プロレスの外国人ブッカーであるテリー・ファンクの仲介でジャイアント馬場と直接交渉しており、移籍に向けて合意に達していた。

7月4日にはタイガー・ジェット・シンが全日本プロレスの熊谷大会に乱入して参戦をアピールし、マスコミがシンの動向に注目している最中に、竹内編集長はハンセン引き抜きという特大スクープの準備に向けて取り掛かる。

竹内編集長はある一枚の写真を用意する。それは当時海外を取材していた茨木清志(のちのW☆ING代表)がハンセンとブルーザー・ブロディが一緒に並んでいる写真で、ルイジアナ州ニューオリンズで撮影したものだった。ブロディは1981年からブッチャーが新日本プロレスに引き抜かれたのをきっかけに全日本プロレスのトップ外国人選手に昇ぼりつめ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリーのザ・ファンクスと抗争を繰り広げていた。竹内編集長はハンセンが全日本プロレスに移籍するなら、当然盟友であるブロディと組むだろうと読んでおり、日本で合体する前に写真を入手しておこうと考えたのだ。

しかし、竹内編集長はすぐに特ダネを報道しようとしなかった。理由はおそらく馬場もハンセンの移籍のタイミングを伺っているはず、もし「ゴング」がフライングで報道してしまえば、新日本プロレスも全力でハンセンの引き止めにかかり、移籍もぶち壊しになることで、馬場からの信用も失ってしまうと考えたからで、竹内編集長はその時が来るのを待って写真を引き出しの奥へ隠した。

当のハンセンは何事もないように契約消化のために新日本プロレスに参戦し続け、ファンだけでなく新日本プロレス関係者も、何事もなく新日本プロレスで暴れ続けるハンセンを見て、誰もが全日本プロレスに移籍しないだろうと思っていた。

12月10日にハンセンが移籍へ向けて動き出すという情報が入ると、12月17日発売の『別冊ゴング』にて長年温めていたスクープを報道するのはこのタイミングだと考えて決断する。竹内編集長は最後の詰めにかかり、ブロディのマネージャーを務めていたバック・ロブレイに電話取材し、ブロディ本人とも接触、ブロディもハンセンと会ったことを認め「まだ詳しく説明できないが、来年から2人揃って同じ団体のリングに上がると思う」と団体名は明かさずも、全日本プロレスで一緒に組むことを認めた。

竹内編集長はハンセンとも接触したが「それは単なるデマだろ、フランク(ブロディ)の希望だろ」ととぼけたが、地道に集めた情報でもハンセンは移籍すると確信していたことから、12月17日発売の別冊ゴングの表紙に『ハンセンとブロディが82揃って日本上陸」と見出しを打ち、巻頭記事で机の中にしまってあった2人の合体写真を使用した。

12月10日に新日本プロレスの「第2回MSGタッグリーグ戦」を終えたハンセンは会場である大阪から東京へ戻ると、11日に京王プラザホテルで帰り支度をしていると思われていたが、午後2時過ぎに新日本プロレスのスタッフが空港まで送るために出向いていくと、ハンセンは突然京王プラザホテルをチェックアウトして消えてしまった。スタッフも日本慣れしているハンセンが勝手にタクシーで成田空港へ行ったと思い込んでいたが、既にハンセンは全日本プロレスの用意していたホテルへ移っており、かねてから計画していたハンセンの全日本プロレス移籍へと動きだす。

12月12日の「81世界最強タッグ決定リーグ戦」の横須賀総合体育館大会にハンセンが忽然と現われ、マスコミは騒然となる。ハンセンはジョー樋口の案内で外国人側の控室へ消え、1時間ほどするとようやく出てきたハンセンは「今日は久しぶりにフランクと話がしたかっただけだ、大騒ぎしないでくれ、明日予定通りアメリカへ帰る」からと言って、試合を終えたブロディ、スヌーカーと一緒に待たせてあった車に乗って会場から消えたが、誰もがハンセンが全日本プロレスに移籍すると確信し、新日本プロレスも一報を受けて「やられた」と思わざる得なかった。

12月13日、ハンセンは「81世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦である蔵前国技館大会にブロディのセコンドとして登場し、テリーをウエスタンラリアットでKOして、ブロディ&スヌーカーの優勝をアシストしただけでなく、馬場やジャンボ鶴田とも乱闘となり、全日本プロレスに移籍の既成事実を作り上げてしまう。

ハンセンの全日本プロレス殴り込みから4日の17日、書店には別冊ゴングの1月号が書店に並び、文句なしのベストタイミングだったせいもあって独占スクープとなり、竹内編集長も最高の年明けになる…と思われていた。

1月14日発売の月刊『プロレス』の2月号で、新日本プロレスの副社長だった坂口征二が「ハンセンの引き抜きに関して、一部マスコミが暗躍している」と掲載したため、竹内編集長がハンセン引き抜きに一枚噛んでいると容疑をかけられてしまう。

全くに身に憶えのない疑いをかけられた竹内編集長は新日本プロレスと『プロレス』に抗議文を出すと、新日本プロレスがただちに動き出し、竹内編集長と坂口が会談、竹内編集長が問題のフィルムを提出し撮影時期などを説明したことで坂口が納得して事実誤認であったことを認めて謝罪するも、『プロレス』だけは「絶対に竹内が関与している」と頑な態度を崩さず、最後まで誠意ある回答は得られなかった。

竹内編集長は誌面で受けた汚名は誌面で晴らすしかないということで、今度は新間寿氏が引き抜き戦争を手打ちにしたいため、馬場への仲介を竹内編集長に依頼、当初は新間氏と馬場との会談予定がアントニオ猪木も交えてB・Iによる首脳会談も実現、竹内編集長も仲介したということで首脳会談も『ゴング』にて独占スクープに成功、『プロレス』に情報力の差を見せつけて鼻をあかしてやった。

竹内氏は編集長から退いてからも『ゴング』に携わり、『週刊ゴング』になってからも執筆を続けていたが、日本スポーツ出版社もバブル崩壊に伴い経営が悪化、竹内氏も社長となって経営に携わるも、経営悪化に歯止めをかけることが出来ず退任、2006年に脳梗塞に倒れて病床につき、2007年に『週刊ゴング』も休刊に追いやられる。

2012年5月3日、闘病生活を送っていた竹内氏は死去、65歳の生涯を閉じた。

(参考資料=日本スポーツ出版社『週刊ゴング記者たちのプロレス取材㊙裏話!?、あの話、書かせていただきます)」

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