1980年、全日本女子プロレスに二人の少女が入門を果たした。一人は後にダンプ松本となる松本香で19歳、もう一人は長与千種で15歳、松本は通常のオーディションで合格したが、長与は地元・長崎の名士からの紹介での特別入門だった。
二人がプロレスラーを志すきっかけになったのは、当時全国的な人気を誇っていたジャッキー佐藤とマキ上田のビューティーペアだったが、二人が入門する頃には上田の引退でビューティーペアは解散、日本で爆発的な人気を誇っていた女子プロレスブームも下火となっていった。
そこで全日本女子プロレスは80年7月からA、Bの2グループに分けて地方を巡業する2リーグ制を取り入れることになり、松本も入門は果たすもプロテストに落ちたためデビューをすることが出来ず営業職となっていたが、2リーグ制で選手増員の必要が迫られたことで、松本は再びプロテストを受けてデビューに漕ぎつけ、8月8日の田園コロシアム大会で松本、長与の二人がデビューを果たした。
松本は巨体ながらも不器用で身体を持て余し、長与も空手の心得がありながらも体質的に体の線が細かったことで、落ちこぼれが中心となったB班に組み入れられ、連日前座で対戦を繰り返していたが、負けが続くとB班を取り仕切っていた松永俊国から「次負けたらクビ!」とハッパをかけられていたこともあって、二人は誰が相手でも必死で戦い、長与と松本が対戦しても勝ったり負けたりだった。

しかし2リーグ制も落ち込んだ業績を回復するまでには至らず、僅か1年で終了、その前にはジャッキー佐藤などビューティーペアブームの中心選手も、25歳定年制などで次々と引退し、再び2班が再統合されるが、その煽りで落ちこぼれだった長与と松本はカードからあぶれてしまい、地方巡業の時は二人だけで居残りとなるも、二人はウマがあったのか仲が良く、先輩からのいじめも遭いながらも苦楽を共にしてきたが、その関係も長くは続かなった。
ジャッキー佐藤引退後の全日本女子プロレスはジャガー横田を中心としたダイナミックジャガーズと、デビル雅美率いるヒールユニット”デビル軍団”の図式となり、松本は巨体を買われたからかデビル軍団の構成員として組み入れられたが、それと同時にベビーフェース側にいた長与との関係もいったん切らざる得なくなってしまった。しかしデビル軍団に入ったとしても境遇は変わらず、同期でマスクマンとなっていたワイルド香月がタランチュラとなってデビルのタッグパートナーをなるほどになるまで昇りつめたに対して、松本は愛嬌のある顔立ちからくる生水の人の良さが透けてしまい、ヒールをしてもどこか憎めないことから”ただヒールユニットにいるだけのヒール”で、ポジションも一向に上がらず、燻り続けていた。

デビューして4年後の1983年1月に松本は初タイトルである全日本シングル王座をライオネス飛鳥を破り奪取し浮上のきっかけをつかむも、長与も浮上のきっかけを掴もうとしていた。長与は先輩レスラーからのいじめや、自身のファイトスタイルが周囲や観客に受け入れられないことに失望し始めたことで引退を考えていたが、同期で同じ悩みを抱えていた飛鳥と対戦して意気投合、タッグを組み始め、以前とは別人のように生き生きとし始めていた。

飛鳥と長与のタッグは男子プロレスのエッセンスを取り入れたファイトスタイルで、たちまちファンからの注目となり、連日多数の少女たちが群がるようになると、それに注目した全日本女子プロレスのフロントも二人を本格的に売り出すことになり、チーム名は前田日明がクラッシャーとあだ名されていたことをうけて「クラッシュギャルズ」と命名され、クラッシュギャルズの存在は女子プロレス人気復活の予感させるものになった。
クラッシュギャルズの存在は松本のレスラー人生を大きく変えるものになった。その頃の松本はデビルがベビーターンしたためデビル軍団は自然消滅してしまい、ヒールユニットは完全に空き家となってしまった。そこでフロントから「クラッシュに対抗するヒール軍団を作りたい、オマエがその中心となれ」と松本に白羽の矢が立てる。
フロントからの指示を受けた松本は「自分だって下っ端のままで終わりたくない、中途半端なことをやめて、とことん嫌われるワルに徹しよう」ヒールとして生きる覚悟を決め、これまで愛嬌のある顔立ちからくる生水の人の良さを隠すため、髪を金色に染め、顔にペイントを施し、入場時は革ジャンにサングラスを着用、凶器にはチェーン使用、リングネームもダンプ松本と改め、デビル軍団からの生き残りであるクレーン・ユウとの悪役ユニット”極悪同盟”を結成、ダンプもデビルから「ヒールになり切れないデブ」とボロカス言われたことから、「デビルさんを超えるヒールになってやる」と容赦なく反則攻撃を繰り返したことで、たちまちファンから嫌われる存在となり、ダンプも自分のヒールぶりに手ごたえを感じた。

クラッシュはジャンボ堀&大森ゆかりとのダイナマイトギャルズの保持するWWWAタッグ王座に2度挑んで1敗1分と王座奪取に失敗と足踏みしており、その間に極悪同盟もランクを上げて、遂にクラッシュと対戦するようになり、ダンプはユウと共に凶器攻撃でクラッシュを痛めつけ、それがフジテレビで放送されていた「全日本女子プロレス中継」によって極悪同盟の存在もクラッシュの仇敵として認知されるようになった。
1984年8月25日の後楽園ホール大会でクラッシュはダイナマイトギャルズから念願だったWWWAタッグ王座を奪取、それと同時にクラッシュもジャンルを超えた時代の寵児となり、バラエティやテレビドラマの芸能活動を含めて一般メディアへの露出が激増、ビューティーペア以上の存在となっていくと同時に極悪同盟との抗争も本科的に開戦となり、全日本女子プロレスのドル箱カードとなっていった。また「全日本女子プロレス中継」も30分枠ながらもゴールデンタイムに進出する。
クラッシュvs極悪同盟の抗争もエスカレートし、ダンプは特に長与を灯油缶やハサミ、フォークなどで徹底的に痛めつけていった「会長(松永高司)にあることないこと、吹き込まれて焚きつけられたのもあったけど、あの頃は本当に千種が嫌いだった。いつも本気で潰してやろうと思ったし、ムキになって突っかかってくる千種をいじめるのが楽しみで」と後年ダンプ本人が語っていたが、会社側から焚きつけられたのもあったが、ダンプもビューティーペアに憧れていたように、長与がスターダムに伸し上がってビューティーペア以上の存在になったことで、面白くないリアルな気持ちが長与に対する凶器攻撃に現れていたのかもしれない。
1985年2月25日、大田区体育館でクラッシュはWWWAタッグ王座をかけてダンプ&ユウの極悪同盟の挑戦を受けたが、メインレフェリーがKOされた後で、極悪側のレフェリーだった阿部四郎の疑惑の3カウントの前にクラッシュが敗れ、極悪同盟が王座を奪取すると、ファンによる極悪同盟へバッシングがひどくなり、ダンプも実家の窓ガラスを割られるなど被害に遭うが、それと同時にクラッシュ人気と共に極悪同盟のヒール人気も高まり、極悪同盟のサイン会が開かれると4000人のファンが集まったという。

ところがユウが次第にダンプのプロ意識の高さについていけなくなる。ダンプはたとえ極悪同盟のファンであってもサイン会以外の試合会場では一切サインやファンサービスには応じなかったが、ユウはダンプの目を盗んでファンサービスに応じたため、これに怒ったダンプはシングルのリーグ戦「第1回ジャパングランプリ」の開幕戦でユウと対戦した際に徹底的に血祭りにあげて制裁し、試合は無効試合となるも「オマエとは今日でお別れだ!」と三行半を突きつける。ユウはその場で引退を表明して本名の本庄ゆかりとなってレフェリーに転身、WWWAタッグ王座はチーム解散で空位となり、5月16日の大宮スケートセンター大会で、ダンプは前年度秋に極悪同盟入りしていたブル中野を自身のパートナーに昇格させてクラッシュと王座決定戦に臨むも敗れてしまい、WWWAタッグ王座はクラッシュの元へ戻ってしまった。
その後、クラッシュvs極悪同盟の抗争はエスカレートし、1985年8月28日の大阪城ホール大会で長与vsダンプによる敗者髪切りマッチを行うまで発展する。大阪での「全日本女子プロレス中継」は関西テレビがプロレスを敬遠していたこともあって放送せず、サンテレビなど関西のUHF局を通じて不定期で月遅れの大会を放送していたが、クラッシュ人気が高まると関西テレビでも「全日本女子プロレス中継」をゴールデンタイムで放送することに踏み切り、大阪の常打ち会場だった大阪府立体育会館も改装が始まったばかりで、プロレス各団体も大阪城ホールを常打ち会場として使用し始め、当日もクラッシュ人気もあって11000人満員札止めを動員した。
長与は紋付羽織袴の男子姿で登場したのに対し、ダンプは覆面マネージャーと共に、お馴染みの極悪ファッションの通常コスチュームで登場するが、中身はダンプの影武者だった影かほるで、その傍らでいた覆面マネージャーがダンプだった。まさかの替え玉作戦という奇襲を受けた長与は防戦一方となり、凶器攻撃を食らい続けた長与は大流血となってKO負けを喫してしまった。
試合後の長与はルールに則り、リング中央に置かれたイスに押さえつけられ丸坊主にされると、公開処刑を受ける長与の姿にファンは絶叫どころか失神するファンもおり、会場内外では暴動寸前にまで発展する事態になり、極悪同盟を乗せた移動バスも、怒ったファンによって包囲されてしまい、ホテルにもファンが待ち構えていたため、全日本女子プロレス側も極悪同盟の宿泊先を変更せざる得なくなったが、ダンプは「おかげでランクが上のホテルに泊まることが出来て、ラッキーでしたよ」と喜んでいたという。また長与の髪切りの余波は大きく、元々「全日本女子プロレス中継」を放送することに乗り気でなかった関西テレビは『残酷』とクレームが来たことを口実に放送は打ちきりにしてしまい、関西での「全日本女子プロレス中継」は再びサンテレビなどUHFでの不定期放送に戻ってしまった。

1年後の1986年11月7日、同じ大阪城ホールでダンプvs長与の髪切りマッチの再戦が行われたが、この頃になるとクラッシュの関係も変わり、極悪同盟との抗争もマンネリで行き詰まり、クラッシュギャルズとしてもやりたいことをやり尽くしていたことから、飛鳥が芸能活動停止を宣言したことで、クラッシュギャルズも活動を停止しており飛鳥も長与も個々で活動するようになっていたが、この頃から長与に人気が偏っていたことから飛鳥が嫉妬し、関係に亀裂が生じていたという。それと共にクラッシュ人気もピークが過ぎて下降線を辿るようになった。
再戦も前回以上の死闘となって長与が流血するも、長与が丸め込んで3カウントを奪って雪辱を果たし、まさかの敗戦に納得しなかったダンプも最初こそは逃亡を狙ったものの、最後は堂々とたる物腰で断髪式に臨み、翌日には自らスキンヘッドに剃り上げた姿をマスコミに披露し、週刊プロレスの表紙を藤原喜明と一緒に飾ることが出来たが、負けたものの週刊プロレスの表紙を奪ったことで大きなプラスとなった。



1987年にはクラッシュギャルズが活動を再開するもピーク時の熱気は戻って来ず、その最中で1988年1月にダンプが突然引退を表明する、理由は全日本女子プロレスを経営していた松永一族への不満で、ダンプとクラッシュギャルズ全盛期の全日本女子プロレスは年間数十億円もの売上げがあって、会社はかなり儲けていたにも関わらず、経営者の松永一族の浪費のせいで、ダンプを含む所属選手達のギャランティーや設備・待遇改善には全く還元されていないという不満を抱えており、おそらく自分が引退すれば興行収入などの売上げがガクンと落ちると考えての引退だった。
2月25日の川崎市体育館で行われた引退試合は自分に賛同してくれた大森とのタッグでクラッシュと対戦も、試合はダンプがヒールらしく敵味方関係なく凶器攻撃を浴びせて無効試合となるが、ダンプのマイクアピールに呼応し、長与の提案でパートナーを入れ替え、長与&ダンプvs飛鳥&大森の5分によるボーナストラックが行われ、長与もダンプとの遺恨を清算して合体技も披露した。そして試合が終わるとマイクを持ったダンプは「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今までチーちゃん(長与)や智ちゃん(飛鳥)のことをいじめてすいませんでした」と号泣ながら謝罪しリングを去っていった。

その後ダンプは大森とコンビで芸能活動を行うが、1989年に長与が引退すると、1990年には飛鳥も引退、こうしてクラッシュギャルズと極悪同盟の時代に終止符を打った。
その後、長与は現役に復帰してGAEA JAPANを設立、飛鳥もフリーとして復帰、1999年にヒールとなっていた飛鳥がGAEAに参戦すると長与と抗争を開始、抗争が終わると二人は和解してクラッシュ2000を結成する。
しかし、これまで女子プロレスの中心にいた全日本女子プロレスは松永一族の放漫経営によって経営が悪化したことをきっかけに女子プロレスが下火になると、ダンプは女子プロレスを盛り上げるために復帰を決意し松永一族とも和解して全日本女子プロレスにも参戦、GEAEにも参戦してクラッシュ2000とも対戦したが、2005年に全日本女子プロレス、GEAE JAPANは活動停止、長与と飛鳥も引退してクラッシュ2000は封印となった。
2021年10月11日、後楽園ホールで「ダンプ松本41周年還暦大会~真っ赤な青春~」が開催され、60歳還暦を迎えたダンプは現役選手としてリングに立ち、Marvelousを設立して再びリングに上がるようになった長与と対戦、試合後は長与がグータッチでダンプの還暦を祝った。

ダンプと長与、善悪と逆の関係なれど、表裏一体で、クラッシュギャルズより気持ちが通じ合った関係なのかもしれない。
(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史 Vol.9『ザ・抗争』)
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