メキシコや中南米、アメリカ、カナダなど海外を渡り歩き、日本では国際プロレス、全日本プロレス、旧UWFに参戦したマッハ隼人さん(本名=肥後繁久)さんが死去した。享年70歳。
隼人は高校卒業後、東洋工業に入社して社会人野球で活躍、中学では柔道や空手を学んでいたが、テレビで高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)や山本小鉄、星野勘太郎のヤマハブラザーズを見たことをきっかけにプロレスに興味を持ち、退社後に旗揚げしたばかりの新日本プロレスの入門テストを受け、身長が足りないから不合格とされるも、納得出来ない隼人は当時若手だったグラン浜田とスパーリングを行うと、トップコーナーからニードロップを命中させてしまい、怒った浜田にボコボコに潰されてしまった。
それでも不合格となって鹿児島へ戻るもプロレスラーになる夢は諦めきれず、浜田がメキシコ修行へ行くと聴きつけると、隼人もメキシコでデビューしようと考え、友人に片道切符代だけ借りて家族には「旅行へ行ってくる」と伝えてメキシコへ渡り、アレナ・メヒコにあるレスリングスクールに入門。ラファエル・サラマンカからルチャを叩きこまれ1976年にシウダー・フアレスでカラテ・ハヤトとしてデビューを果たし、その後はプエルトリコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、エルサルバドル、グァテマラなど中南米を転戦、グァテマラで覆面レスラーとなり、1978年にはアメリカのロスサンゼルスに進出し、新日本プロレスから遠征中だった木村健悟、剛竜馬と接点を持つも、威張り散らす態度を取っていたことで好感を持てなかった。しかしサンフランシスコへ転戦すると全日本プロレスから遠征中の天龍源一郎と知り合い、天龍には良くしてもらったという。

そんな時に国際プロレスの所属となるために日本に帰国することになる、マスコミ向けにはメキシコで一緒になった鶴見五郎に誘いで帰国を決意したとされるが、実際は隼人と鶴見は面識はなく、剛から鶴見に隼人を紹介され、剛は国際プロレスを離脱して新日本プロレスに参戦した過去があることから、剛からの仲介はまずいので吉原功社長が鶴見からの紹介という形を取ったという。剛からの話だったことから隼人は本気にしていなかったが、国際プロレスから1年間オープンのビジネスクラスの往復切符を送られたことから、里帰りのつもりで帰国を決意するも、行きは羽田から出発するも、帰りは新しく出来ていた成田空港に到着し、東京も様変わりしていたことから浦島太郎になったような感じだった。

大宮にあった国際プロレスの合宿所に入るとテストされ、リングネームは吉原社長からマッハ隼人と命名された、79年11月1日に日本デビューを果たすとトペスイシーダを披露、4日には鶴見と対戦して合格点を貰って、晴れて国際プロレスの所属となり、その後はコーナーからのトペコンヒーロや、場外へのトペアトミコ、ジャベも披露、またラッシャー木村には風車吊りや裏足四の字固め、大木金太郎にはX固め、米村天心にも風車式バックブリーカーを伝授、温和で誠実な性格もあったことから団体にすぐ馴染んでしまい、隼人のルートでメキシコの選手を招くなど国際プロレスに大きく貢献した。

1980年3月には長らく帰っていなかった鹿児島へ凱旋して錦を飾るも、国際プロレスの経営危機は隼人の耳にも入っていたが、本人は「ケ・セラ・セラ」と”なんとかなるさ、言われたことをしっかりやるだけ”となるべく気にしないようにしていた。しかし1981年8月に国際プロレスが活動を停止、国際プロレスでに最後の相手は寺西勇だったが、隼人も薄々国際プロレスが最後であることはわかっていた。吉原社長から若手だった高杉政彦を連れてメキシコへ行ってほしいと依頼されるも国際プロレスの崩壊で果たすことが出来ず、高杉は独自でメキシコへ旅立っていった。
吉原社長は10月に行われる新日本プロレスとの対抗戦に隼人も起用して初代タイガーマスクと対戦させるつもりだったが、初代タイガーには興味は持っていたものの海外に出ることが決まっていたため断り、一旦ロサンゼルスで定着、その後カナダのカルガリーに渡って遠征していた鶴見、稲妻二郎ことジェリー・モロー、若松市政と合流、4人で共同生活しながらヒールとして活躍、1982年11月に次なる転戦地を探していたところで、ミスター・ヒトの紹介で全日本プロレスへ行くことになり、ヒトからブッカーだった佐藤昭雄へ連絡するも、ヒトと佐藤は折り合いが悪かったのか、迷惑がられたという。それでも1983年2月にセントルイス遠征に向かうジャイアント馬場とロスサンゼルスで面談、馬場からも”ウチでやればいい”と言われ全日本プロレスに参戦が決まるも、ヒトの紹介だったせいもあって佐藤はなかなか隼人を呼ばず、やっと呼ばれたのは翌年の1984年1月だった。
隼人は全日本プロレスにはフリーとして参戦し、国際プロレスではマイティ井上や阿修羅・原、同じくフリーとして参戦していた鶴見、後輩だった冬木弘道や菅原伸義、ウルトラセブンとなっていた高杉政彦とも対戦し、シリーズにはリスマルクも参戦して何度もシングルで対戦したが、佐藤はアメリカンプロレスを重視してルチャには理解がなく、ミス・マスカラスすら扱いが悪くしていたことから、隼人は試合内容でも佐藤から度々ダメ出しされた。隼人は2月まで全日本プロレスに参戦したが、佐藤を嫌っていたこともあって所属になることはなかった。


一旦ロスへ戻ろうとした隼人に新間寿氏が接触する。新間氏は新団体「UWF」を設立するために動いており、浜田も参戦することになったためルチャが出来るレスラーを欲していた。隼人は馬場に筋を通すために連絡を取り、馬場の承諾も得てUWFに参戦することになるも、UWFに参戦する外国人レスラーは馬場を通じてテリー・ファンクのルートで参戦することが決まっており、また新間氏との面談の場には馬場のマスコミ側にブレーンだった竹内宏介氏も立ち会っていたことから、隼人のUWF参戦は馬場からの紹介であることを後になってわかったという。
旧UWFでは木村や剛、浜田とも再会したが、新日本プロレスから合流してきた前田日明や髙田延彦の方が好感を持ち、藤原喜明にもよく面倒を見てもらったという。旗揚げシリーズには新間氏のルートで参戦したUWAのトップ選手と対戦してルチャの試合を披露したが、旗揚げシリーズが終わると内紛が起き新間氏がUWFから撤退、浜田も去り、そこから旧UWFは佐山聡と山崎一夫が加わり、「無限大記念日」では初代タイガーマスクからザ・タイガーとなっていた佐山とのシングル戦が実現するが、旧UWFが格闘技路線の強いシューティングプロレス路線へと変わると、木村や剛も旧UWFを去って全日本プロレスに移ってしまう。
旧UWFはシューティングプロレス路線となったことで、国際プロレスの所属選手だった隼人も木村や剛と一緒に全日本プロレスへ戻るではと思われたが、隼人は35歳になっており、長年に渡る蓄積されたダメージで身体がガタガタになっていたことから、「現役最後のリング」として旧UWFで現役を終える決意を固め残留を選んだ。佐山だけでなく前田、藤原も隼人は去るだろうと思っていたが、隼人が会場に来てくれたことで「来てくれたんですか!」と選手らも大歓迎した。



隼人はシューティング路線となったUWFで必死になって格闘スタイルに溶け込もうとしたが、全身ガタガタだった隼人はますますダメージが蓄積され、相手のキックをガードしたことで左肘も上がらなくなってしまい、顔面にキックを浴びたせいで左目の視力も落ちてしまい見えなくなってしまう。そこで隼人は引退を決意し1985年4月26日の後楽園ホール大会でスーパー・タイガーと組んでカズウェル・マーチン&タルバー・シン相手に引退試合を行い、最後は隼人が三角絞めでシンを降して有終の美を飾り、引退セレモニーではマスクを脱ごうとしたが、佐山から「脱がなくていいですよ」と止められ、ファンからも”脱がなくていい”と声援が多かったため、マスクを取らずマッハ隼人としてリングを去っていった。



引退後はロスに戻って庭師になり、メキシコからのカンバックのオファーがあっても丁重に断った。前田を始めUWFの選手とはクリスマスカードでやりとりが続いていたが、近年になると庭師の仕事をやめ腎臓を悪くして週に3度人工透析を受けていたという。

平成に入るとユニバーサルプロレスリングが誕生してから日本プロレスマットにもルチャリブレが定着し始め、ルチャをベースにしたみちのくプロレスやDRAGON GATEが旗揚げされ、新日本プロレスもCMLLと交流し、日本のレスラーの中にもルチャのテクニックを取り入れることが当たり前のようになった。マッハ隼人は初代タイガーマスクに先駆けて本場ルチャを持ち込んだ早すぎる天才だったのかもしれない。
ご冥福をお祈りいたします。
(参考資料=辰巳出版『実録・国際プロレス』GスピリッツVol.48『特集・国際プロレス』)
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