力道山死去後の日本プロレスの窮地を救った外国人ブッカー、ミスター・モトの生涯


1963年12月8日、力道山が死去し、豊登、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明による4人よる合議制がスタートするが、新体制はこれまで外国人ブッカーを務めていたグレート東郷を解任する。東郷の後任はメインレフェリーの沖識名が務めることになったが、東郷ほど大物が呼べなかった。そこで新体制の日本プロレスは沖の推薦で東郷と同じく日系人レスラーだったミスター・モトに外国人ブッカー就任を依頼することになったが、東郷と比べてモトは日本のマスコミには馴染みが薄く、東郷のように大物外国人レスラーを呼べるのか不安視された。

モトは熊本生まれの父と沖縄生まれハワイ育ちの母のもとに生まれた日系アメリカ人で、母の故郷であるハワイでコーヒー園に務めていたが、当時日系社会で盛り上がっていた相撲にも取り組み、ハワイ相撲では”不知火”の四股名で横綱にもなった。そこでハワイのプロモーターであるアル・カラシックからプロレスのリングのスカウトを受けプロレスに進出、リングネームも四股名から取ってシラヌイの名前でデビューを果たし、同じハワイに在住していた沖の薦めでアメリカ本土へも進出、ロサンゼルスでリングネームをミスター・モトに改めた、由来は30年代後半にアメリカでベストセラーになった小説『ミスター・モト』の主人公の名前で、日本の天皇の直属の秘密諜報部員(スパイ)ということで、当初はキャラにちなんでシルクハットと蝶ネクタイ、スーツ姿を予定していたが、インパクトがないとして、伝統的な日本人スタイルである田吾作タイツが採用された。

東郷は試合中に相手に塩を投げ、流血を売りにしたが、モトは凶器や流血を売りにせず、沖からしっかりレスリングを仕込まれていたこともあって実力で勝負、その後シカゴにも転戦しモトの試合も全米へテレビ中継されたこともあって顔を売ることに成功、同じ日系人であるキンジ渋谷とタッグでも全米でも活躍、これをきっかけレスラーやプロモーターからも信頼を得るようになった。

キンジがサンフランシスコに転戦するためタッグは解消されると、モトはロサンゼルスのプロモーターでWWAのボスであるジュールス・ストロンボーの依頼でロサンゼルスに定着しトップレスラーとして活躍したが、この時点では力道山どころか日本プロレスとの接点はなく、モト自身も力道山とはハワイで一緒に短期間サーキットしだけで、力道山も同じロスアンゼルスに定着していた東郷との関係を重視していたこともあって特に親しい関係でもなかった。この頃の東郷はレスラーとしてピークを過ぎて前座で試合をしており、日本プロレスとの外国人ブッカーの仕事を主にしていたが、それはあくまで力道山と東郷との間での個人的なビジネスだった。

日本プロレスから外国人ブッカーへの就任を依頼されたモトは沖の推薦なら断れないとして承諾し、ブッキング料金も東郷ほど高く取らなかった。最初の仕事はアメリカ武者修行中だったジャイアント馬場に帰国するように説得することだった。アメリカ滞在中の馬場は東郷のマネージメントを受けていたが、この頃になると東郷とは距離を取って自身で交渉してオファーを受けるようになっていた。モトは馬場を説得するためにアメリカへ来た遠藤幸吉と一緒に馬場を説得すると、馬場も帰国を決意、それと同時に『第6回ワールド・リーグ戦」に参戦するための外国人選手を探す。モトは東郷よりWWAでは顔役でもあって付き合いの幅も広く、フロリダで活躍していたデューク・ケオムカとも親戚同士だったこともあってフロリダマットとの関係あったおかげで、NWA世界ヘビー級王者に候補にも挙げられたジン・キニスキー、ブル・カリー、カリプス・ハリケーン、ビリー・ホワイト・ウルフ、ジン・ラベール、ロイ・マクラティ、ザ・マミーのブッキングに成功、これだけの大物選手をそろえたことで、力道山死去後の危機を救った功労者となり、モト自身も日系代表としてワールドリーグ戦に参戦して親の故郷である日本の土を踏んだ。

1968年4月にモトは一人の斎藤昌典、後のマサ斎藤の世話をすることになった。当時のマサ斎藤はレスリングで東京オリンピックの代表になった後、日本プロレス入りを果たしたが、東京プロレス旗揚げに参加して団体が崩壊すると海外志向も強かったこともあって日本プロレスには戻らずアメリカへ渡ろうとするも、ビザを取得するのに1年もかかってしまい、モトが保証人になってくれたことでやっとアメリカへ渡ることが出来たが、ロスアンゼルスマットは大物選手があふれていて、すぐ斎藤を使うことが出来ないため、代わりにキンジのいるサンフランシスコに斎藤をブッキング、キンジのパートナーに起用された斎藤はこれをきっかけにアメリカで活躍するきっかけを作り、またモトも日本プロレスから遠征してきたレスラーたちも面倒を見て、全米の各エリアにブッキングしてきた。

1968年になるとWWAはNWAに吸収されて、NWAハリウッドレスリングと団体名を改めても、モトは現役を引退してストロンボーの下で働きつつ外国人選手を日本プロレスにブッキングしてきたが、1971年12月にアントニオ猪木によるクーデター事件が起きる。モトはNWAの代理人として来日し猪木が防衛戦を行えないため保持してきたUNヘビー級王座はNWA本部に返上されるという声明文を読み上げたが、おそらくだがモト自身も日本プロレスが危うい雰囲気になってきていることは察知していたと思う。翌年には馬場も日本プロレスを離脱して全日本プロレスへの旗揚げへと動くと、最初に外国人選手ルートを確保するために最初に頼ったのはモトで、モトも馬場に協力するつもりだったが、馬場が日本プロレスを離脱した時点でNWAのフレームからも外れてしまったこともあって馬場への協力は難しくなり、その代わりにキンジを全日本プロレスの外国人ブッカーに据えようとするも、ギンジはそういったオフィスの仕事が苦手なことから断わり、モトは馬場への協力は断念せざる得なくなった。その後、馬場はブルーノ・サンマルチノやテキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニアの協力を得たことで全日本プロレスは独自で外国人ルートを確保することに成功する。

馬場と猪木が離脱した日本プロレスも経営が一気に悪化すると、モトへ支払うブッキング料も払えなくなったため、モトも日本プロレスから撤退しロスマットに専念するために現場責任者のブッカーに就任したが、ロスマットのプロモーターがストロンボーが病気のため勇退してマイク・ラベール、ジン・ラベールのラベール兄弟に代替わりする。ラベール体制は猪木が旗揚げした新日本プロレスとの提携を開始し、モトも猪木とはアメリカ武者修行時代にタッグも結成して親しい関係だったこともあって、新日本プロレスの外国人ブッカーに就任するかと思われたが、ラベール兄弟はモトを疎外して閑職に追いやった。ラベール兄弟とモトの関係もこれまで良好だったはずだったが、新日本プロレスから莫大なブッキング料が支払われるとわかるとラベール兄弟は利益を独占するためにも態度を一変させモト排除へと動いたのだ。モトはNWAの代理人として1973年10月に全日本プロレスに来日してとしてインターナショナルタッグ選手権の立会人を務めたが、日本への来日もこれが最後となった。全日本に来日したのもラベール兄弟へのあてつけの意味も込められていたのかもしれない、1974年にモトは関係が悪化したラベール兄弟とも絶縁、60歳になったこともあってプロレス業界からも引退、レスラー仲間との付き合いもキンジだけにしてほとんど絶ってしまった。

モトは業界から引退後は貸しアパートの経営者に転身し、モトが去ったロスマットはマイクが一時的にNWA副会長になったが、次第にロスマットは観客動員が悪くなって魅力的なマーケットではなくなり1982年に閉鎖、モト自身も1991年に死去、71歳の生涯を閉じ、パートナーであり家族同然の付き合いをしてきたキンジも2010年に死去した。

その後、モトやギンジが面倒を見たマサ斎藤が新日本プロレスの外国人ブッカーに就任し、ビックバン・ベイダーやスコット・ノートンなどを見出し、WCWとの提携に結ぶことに成功するなど、90年代におけるアメリカマットの顔役となっていた。

力道山死去後の日本プロレスを救い、マサ斎藤がアメリカで活躍するきっかけを作ったモトはまさしく日本プロレス界の立役者の一人だった。

(参考資料=GスピリッツVol.57「NWA」)

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