1992年1月から誠心会館と新日本プロレスと抗争が勃発、4月30日の両国国技館大会から小林邦昭が齋藤彰俊、5月1日の千葉ポートアリーナ大会で越中詩郎が青柳政司を降し、新日本プロレスが勝利で決着となり、誠心会館は看板を奪い返すことは出来なかったものの、現場監督だった長州力が誠心会館勢の健闘を称えて看板を返却したことで全てが終わったかに見えた。

しかし青柳は「勝って看板を取り返したい」と越中、小林との対戦を執拗に要求、新日本プロレスは決着がついたとして受け付けなかったが、越中と小林が新日本プロレスの許可を取らずに個人として6月9日の名古屋国際会議場における誠心会館自主興行に乗り込み、最終決着戦として行われた小林vs青柳は激戦の末両者レフェリーストップとなるも、小林が「館長、看板を受け取ってくれ」と看板を改めて返却、青柳も二人だけで乗り込んでくれた越中と小林の心意気を汲んで受け取り、今度こそ抗争は終結した。
ところが越中と小林の独自行動が新日本プロレスから問題視され、特に選手会は選手会長である越中と副会長である小林が無断で誠心会館に乗り込んだことを蝶野正洋、橋本真也、馳浩が糾弾する。(武藤敬司はアメリカ遠征、佐々木健介は負傷欠場で不在だった)、これによって越中が選手会長、小林は選手副会長から解任され、新選手会長として蝶野正洋、副会長に野上彰が選任されるも、誠心会館との抗争で越中と小林の中堅で燻っていたベテランが本隊の試合よりも盛り上げてしまったことで、蝶野や橋本ら若手が面白くない態度を取っていたことから、二人の無断行動をきかっけに発言力を失わせ、再び前座に押さえ込もうという意図があった。
新日本プロレスも倍賞鉄夫取締役が二人を事情聴取し、倍賞氏は二人の無期限出場停止を発表したが、これは越中や小林にとっても好機と考えていた。倍賞氏の言動からは”続き”をやる意思が見て取られ、また会社が介入したということは裏を返せば新日本プロレスが二人を認めたということになるからだった。事実この頃の新日本プロレスは反体制ユニットはスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、後藤達俊、保永昇夫のレイジングスタッフが存在していたが、席巻していたのは最初だけで尻窄みとなっていたことから、新しい反体制ユニットを作るには絶好の機会と考えていたのかもしれないが、おそらく黒幕は倍賞氏ではなく現場監督だった長州と見ていいだろう。越中と小林はジュニアヘビー級で活躍していたが、ジュニアヘビー級の時代は獣神サンダー・ライガーへと移り変わるとヘビー級へと転身するが、ヘビー級でも橋本、蝶野、武藤の闘魂三銃士や馳、健介の時代へと移り変わろうとしており、また藤波辰爾や長州も健在、三銃士や馳にしてみれば誠心会館との戦いが終われば越中と小林は御役御免で元の中堅に戻って欲しいところだったが、長州自身は現場監督の立場として再評価された越中と小林が再び中堅へと埋没するのは惜しく、またレイジングスタッフより面白いユニットが出来ると考えてチャンスを与えたのだ。
20日に越中と小林が出場停止になっているにも関わらず後楽園ホール大会に乗り込むと、新選手会長となった蝶野、馳浩の前で選手会脱退を告げる表明書を突き出し、越中が「オマエらなんかとやっていけないよ」と言い放つと、これに怒った蝶野が「てめえら!勝手なことばっかり言うんじゃねぇよ!」と怒鳴っため一色触発となり、これを見た長州と獣神サンダー・ライガーが割った入って宥めたが、2人の来場を受けて田中秀和リングアナも大会開始直前に二人を呼び入れ、「僕らは信念をもって行動しました。しかし会社の処分は受け入れなければならない、1日も早くリングに立って、素晴らしい試合をお見せします」と処分を受けて欠場することを詫びつつ、マスコミには「仲良しこよしの親睦団体なんかでやりたくない、オレと小林さんと2人でやっていきます」と選手会と対決姿勢を鮮明にした。


約1ケ月後の7月17日から二人に謹慎は解け、蝶野と馳が同席して会見を開いたが、これは手打ちのために行われた会見で、小林は出席せず越中一人が出席、小林が出席しなかった理由は大腸に腫瘍が見つかり入院していたからだった。蝶野と馳は越中に選手会復帰を条件に謝罪を求めることで手打ちに持ち込もうとしていたが、越中は謝罪どころか選手会への敵意を剥き出しにしたため、これに怒った蝶野が越中の復帰戦の相手を自分がやると言い返したことで和解へ向けての会見は物別れになってしまった。これは越中は自分らの行動が幕引きにならないように、あくまで選手会と対決するという姿勢を通すために蝶野らの会見を利用したもので、蝶野を挑発したことで蝶野が乗ってしまった形となってしまった。これを受けて新日本も7月31日の札幌で蝶野vs越中、馳vs小林を組むも、小林は長期療養が確定してしまったため、戦列に復帰することが出来ず、越中も一人戦う覚悟を示してスキンヘッドにして蝶野に挑むも、流血させられた挙句にSTFでレフェリーストップ負けを喫してしまう。試合後に蝶野が握手を求めても越中がビンタを浴びせたことで蝶野が怒り痛めつけると、木村健悟が割って入り蝶野を張り飛ばしてしまう。実は小林は木村を勧誘していたが、木村は蝶野と越中の双方の仲を取り持とうとしているため中立の立場を示していた。おそらく小林も自分はすぐ復帰できないだろうと考えて、自分の代わりに木村を越中のパートナーにと考えたと思う。また木村も生え抜きではなく日本プロレスからの移籍した外様で、同じ外様ながらも奮闘する越中を認めていた。

新日本プロレスも「G1 CLIMAX」が開幕したが、8月6日の静岡大会で公式戦とは関係ない試合で橋本vs越中が実現し、橋本がニールキックからジャンピングDDTで3カウントを奪って勝利を収めたにもかかわらず、橋本はDDTで越中に追撃を狙うと、木村が入って仲裁に入ったつもりが橋本に襲い掛かり鉄柱に叩きつけ流血に追い込んでしまったことで越中と共闘する決意を固める。そして7日の名古屋大会では越中と木村が組んで蝶野&飯塚孝之組と対戦すると、青柳と彰俊が現れて「新日本に迷惑をかけた」として花束を手渡すが、蝶野が「てめえのせいで、こうなったんだろか!」と怒鳴ったため、青柳が花束で蝶野の顔面に叩きつけたことで乱闘となり、試合は越中はジャーマンスープレックスホールドで飯塚を降すも、青柳と彰俊も越中に合流して一大勢力に拡大、ユニット名も「反選手会同盟」と名付けられた、それぞれも決意をアピールするために髪をスキンヘッドに剃り上げたが木村だけ角刈りだったことから、メンバーから怒られてしまい、越中も日射病になったことがあったという。


反選手会同盟は新日本プロレスだけでなく、天龍源一郎のWARにも参戦して団体を股にかけて大暴れするが、11月17日に突如長州からザ・グレート・カブキが反選手会同盟に加わることを告げられた。当時のカブキはSWSが解散後にWARに参戦し、天龍の敵としてWARを盛り立てていたが、WARの戦いの軸が新日本プロレスになったことで、カブキもWARにはもう自分は必要ないだろうと感じて次なる戦場を求めていた。カブキを反選手会同盟に加えるのは長州だけでなく、カブキの盟友であるマサ斎藤の考えもあったと思う。
越中にとってカブキは全日本プロレス時代の先輩で、アメリカマットを股にかけて活躍したことで憧れていたが、全日本プロレス時代には試合のことでよく叱られ、ダメ出しされるなど怖い先輩でもあり、木村にとっても日本プロレスでは大先輩だったこともあって頭の上がらない存在だった。越中から報告を受けていた療養中の小林も「やりにくくなるのでは」と懸念していた。しかし合流したカブキは郷に入っては郷に従えと言わんばかりに後輩である越中や木村に対してもさん付けで越中をリーダーとして立て、試合でも藤波や盟友であるマサ斎藤相手にバチバチやるなど新日本プロレスのスタイルに溶け込んでしまい、時間が出来た時は受身が未熟だった彰俊に受身を指導して、彰俊が試合で越中に怒られた時は励ますなど、まとめ役の役割を果たした。彰俊は現在でもカブキを「カブキ師匠」と慕っている。
1993年2月には療養を終えた小林がやっと反選手会同盟に合流、2月16日の両国大会では橋本&蝶野&武藤の闘魂三銃士と対戦し越中のヒップアタックの援護を得たカブキがラリアットで蝶野から3カウントを奪うと、闘魂三銃士を解体に追いやることに成功。6月25日は上井文彦営業部長の発案で初の反選手会同盟主催の興行も実現し、マシンらレイジングスタッフと共闘したWARとの対抗戦も行われた。

7月に越中は右目の網膜剥離で欠場することになると、テコ入れとして小原道由が加入する。小原もヨーロッパ武者修行を終え帰国し、橋本とタッグを組んでいたがなかなか芽が出なかったこともあり、現状を打破するために橋本を裏切る形で反選手会同盟に加わり、9月には反選手会同盟の第2弾興行も成功した後の10月にはレイジングスタッフに見切りをつけた後藤もマシンらを裏切る形で反選手会同盟に合流、こうして8人の侍が揃うことになった。
11月に反選手会同盟全員で合宿を張ると、越中はユニット名を平成維震軍に改めることを発表する。理由は越中ら8人の侍は新日本内の反体制組織ではなく、新日本プロレスから独立したユニットであることを強調するためで、名称も1992年11月に発足した政党である「平成維新の会」からもじったもので、”新”の文字も維新軍に属していた小林の発案で地震の”震”とした。

1994年に8人揃って大所帯となった維震軍だったが、青柳が契約満了で新日本プロレスを離れることになり、維震軍からも離脱してしまう。青柳が離れた理由は新日本プロレスに出ている間は道場が館長不在となることも多く、次第に誠心会館の運営に支障をきたすようになっていったからだった。8人でいることは僅かだったが、7人になっても維震軍の勢いは止まらず、2月5日の札幌ではWARと7vs7のシングル対抗戦では4勝3敗で勝利を収め、翌6日の新日本プロレス本隊との7vs7のシングル対抗戦でも勝利を収めた維震軍は、1年を通して地道に実績を作ったことで独立を勝ち取り、11月13日のベイNKホール大会で新日本プロレスの別ブランドとして独立し旗揚げ戦を行うことになった。新日本プロレスが別ブランドとして維震軍の独立を認めたのは、所属選手が飽和状態となっていたことから別働隊の組織作りを企画しており、維震軍の独立もその一環で、上井氏も「本隊と一緒にやっていたら、もったいない」と大きく維震軍独立をプッシュしてくれた。

新日本プロレス内のブランドとはいえ興行資金は新日本プロレスから一切出なかったことから、本隊から選手は参戦せず、WARから冬木軍を結成していた冬木弘道と外道、所属となっていたアニマル浜口、SPWFからは谷津嘉章と高木功(嵐)が参戦、ポスターにも新日本プロレスの文字を入れず、リングアナも田中秀和氏ではなく上井文彦氏に手伝ってもらうなど、金をなるべくかけずに独自性を打ち出そうとしていた。エースとなった越中の旗揚げ戦の相手は新日本プロレスに参戦していたタイガー・ジェット・シンだったが、当初は渉外担当・企画宣伝部長の永島勝司氏が越中を猪木のようなイメージにするため初代K-1王者だったブランコ・シガディックかUFCで活躍したキモとの異種格闘技戦を提案されており、越中は丁重に断るも永島氏は異種格闘技戦を譲らず、ウイリエム・ルスカを押し込んできたため、ルスカの相手は後藤が務めることになった。
メインで行われた越中vsシンでは猪木vsショータ・チョチョシビリ戦で使用された円形リングを使うことになったが、新日本で一度使われたものを使って再利用するなど金をなるべく使わないようにしていた。ところがシンが飛行機トラブルで来日がギリギリになるなどドタバタがあり、旗揚げの新日本プロレスのご祝儀でアントニオ猪木がレフェリーとして裁くことになっても、試合中に猪木がシンにスリーパーで捕らえて越中の勝利をアシストするなど主役を奪ってしまう。おそらくご祝儀である猪木も永島氏が押し込んできたとみていいだろう。また観戦していて維震軍興行に参戦が取り沙汰された剛軍団の剛竜馬から「おい! 平成維震軍! お前らちょっと違うんじゃないかい?」と新日本本隊との興行とは大差ないことを指摘するも、これは剛の挑発は新日本プロレスや永島氏は一切関与しておらず、本人が勝手に来て行ったもので、この挑発を利用して剛も維震軍興行に参戦を狙っていたという。しかし剛の悪い噂を聞いていた新日本プロレスからNGが出したため剛の参戦は実現することはなかったが、剛の言うこともあながち否定するものではなかった。
旗揚げ戦は満員とはいかなかったものの成功は収め、第2弾興行は12月24日の後楽園ホール大会で行われ、越中はFMWから移籍したばかりのサブウーと対戦するも、ハードコアスタイルを主体とするサブウーとでは越中は全く手が合わずに期待外れに終わってしまった。年明けからは平成維震軍による本格的なシリーズも開幕し、本隊からタズ、サブウー、黒に覚醒したばかりの蝶野、WARから冬木軍、SPWFから谷津と高木が参戦、シリーズ最終戦の1月17日の名古屋では谷津に対して越中が「昭和、出てこい!長州はどうしたんだ!?」として平成維震軍は昭和維新軍団に宣戦布告、3月から維震軍興行には長州だけでなくマサ斎藤、谷津、WARに参戦していた浜口、SPWFで現役復帰していた寺西勇が参戦して、平成維震軍と昭和維新軍が抗争を繰り広げるも、昔の維新軍が結集したこともあって話題を取られてしまうなど、平成維震軍が主役を取ったとは言い難く、独自性が薄れ始めたことが観客動員にも影響が出て伸び悩んでしまう。
5月17日の大田区体育館での昭和維新軍との5vs5の綱引きマッチでは越中がマサ斎藤、小原が師匠である浜口に勝ち、小林が寺西、木村が谷津に敗れて2vs2のイーブンも、後藤が長州をラリアットの連発で3カウントを奪い、昭和維新軍に勝った平成維震軍は昭和維新軍の旗に火を放って燃やし、6・17後楽園でも越中と後藤が長州&谷津を降して試合後に敗れた長州が後ろ髪を切るなどインパクトを残したが、長州の髪を切った佐々木健介を抗争に巻き込んでしまったことで本隊との抗争が始まり。7月25日の横浜文化体育館で蝶野だけでなく金本浩二や大谷晋二郎、エル・サムライ、ワイルド・ペガサス、ヤングライオンだった永田裕志が参戦したことで本隊の興行と大差ないものになってしまう。谷津と対戦した蝶野からも「なんだこのカードは!オレは目的を持っているんだ!」と言い放たれてしまう。平成維震軍と昭和維新軍との決着戦では長州が昭和維新軍に加わっていなかった佐々木健介を投入、越中は木村と組んで迎え撃ち、木村が長州を稲妻レッグラリアットで3カウントを奪い平成維震軍が勝利を収めたが、話題を奪ったのはメインはUWFインターナショナルを離脱してフリーとなった山崎一夫で参戦して後藤対戦し腕十字で破り新日本参戦に大きくアピールするなど「スター選手が数人欠けた新日本興行」の様相を呈してしまった。

越中は平成維震軍代表としてG1 CLIMAXに参戦し公式戦ではこの年に優勝した武藤敬司を破る大金星を挙げたが、その裏ではカブキが7月をもって新日本との契約が満了となって平成維震軍を去った。カブキは元々所属ではなくフリーとして新日本プロレスに参戦していたがアメリカで各テリトリーを渡り歩いていたこともあって「ひとつの場所に留まり過ぎていたらマンネリになってしまう」を信条にしており、ちょうど石川敬士から「新東京プロレス」に誘われていたこともあって新天地へ移っただけに過ぎなかった。越中はカブキの生き方に憧れていたこともあって意思を尊重して送り出したものの、まとめ役であるカブキの離脱は越中だけでなく平成維震軍にとっても大きな痛手だった。
10月9日には新日本プロレスvsUWFインターとの対抗戦が東京ドームで行われたのをきっかけに両団体の抗争がスタート、翌日の後楽園では平成維震軍興行が開催されたが、皮肉にもこの後楽園大会が平成維震軍興行として最後の興行となり、平成維震軍は本隊に戻るもUWFインターとの対抗戦だけでなく”黒のカリスマ”に覚醒した蝶野や”nWoジャパン”の台頭もあって維震軍の存在が次第に薄れ始めていく。
それでも平成維震軍は小林と抗争を繰り広げていた野上彰が加入、天龍源一郎や藤波辰爾との共闘するなどテコ入れしていったが、野上が目の負傷で離脱、99年に彰俊が退団、小林もまたガンの闘病で戦線離脱してしまう。彰俊は新日本プロレスに参戦した頃のハングリーさが所属になったことで安定した生活を得て薄れ始めていたことを悩んでいたうえでの退団だったが、越中も彰俊の退団がきっかけになって平成維震軍の解散を決意、解散会見を開いたが、小林は欠場を続け、野上は蝶野と共闘してT-2000入りしていたため、会見に出席したのは4人だけと寂しいものだった。こうして越中と木村は本隊に戻り、後藤と小原は”犬軍団”として独自で動いていった。

本隊に戻った越中は現場監督を務める長州を補佐するようになりマッチメークに携わるようになった。1987年に長州が全日本プロレスから新日本プロレスにUターンした際に、真っ向から反発したのが越中だったが、対戦していくなかでいつしか越中の中で長州への信頼感が生まれるようになり、また長州も反選手会同盟を結成したばかりの越中に現場監督の立場として「WARに乗り込む!とアピールしろ!」と命じられ、越中も”投げられた材料をモノに出来るか、そいつ次第”と考え、「天龍が長州とやらせろ!とか言っているけど、俺らが出て行くから。だいだい長州が天龍だ何だって、外に向いてガタガタやっているから内部の統制が取れなくて、オレらと選手会と対立するんだよ!だったら、オレらが天龍のところに殴り込んでやるって!」とアピールして、投げたボールをしっかり返してくれた越中を信頼していたが、反選手会同盟また平成維震軍の一番の理解者は長州自身だったのかもしれない。
2019年1月、平成もまもなく終わる前に越中の40周年記念大会が行われた、この頃の越中は新日本プロレスを去ってフリーとなっており様々な団体を渡り歩いてた。そして平成最後ということで新メンバーとしてK-DOJO(現在2AW)の真霜拳號を招いてフリーとなっていた野上、NOAH所属となった彰俊、一旦引退したものの現役に復帰した青柳と組んで平成維震軍を復活させ、引退していたカブキも平成維震軍の旗を持ってセコンドとして参加した。
現在は令和となったが、越中がいる限り平成維震軍はまだまだ走り続ける。

(参考資料=辰巳出版『平成維震軍「覇道」に生きた男達』)
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