蝶野、武藤を連破!永田裕志がG1を制した2001年の夏!


2001年8月4日、「第11回 G1 CLIMAX」が大阪府立体育会館から開幕した

<出場選手>
【Aブロック】永田裕志、安田忠夫、中西学、村上一成、藤波辰爾、田中稔
【Bブロック】武藤敬司、蝶野正洋、天山広吉、小島聡、西村修、獣神サンダー・ライガー

この頃の新日本プロレスは藤波が社長に就任していたものの、解雇された橋本真也が大谷晋二郎、高岩竜一を引き連れて「ZERO-ONE」を旗揚げ、アントニオ猪木の現場介入によって現場監督だった長州力が絶対的権限が剥奪、藤田和之がIWGPヘビー級王座を奪取したことで格闘技路線の推進など暗黒期の影がさしかかろうとしていたが、その中で武藤は新日本の合間を縫って全日本プロレスに参戦して三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座を獲得するなど団体を枠を越えて活躍、太陽ケア、新崎人生と団体を越えたユニットBATTを率いて、蝶野率いるTEAM2000と抗争を繰り広げることで純プロレス路線を貫いていた。

この年のG1で注目されたのは永田だった。永田は3月に両国で開催されたZERO-ONE旗揚げ戦に参戦して橋本と組み、NOAHの三沢光晴&秋山準組と対戦、当初は橋本のパートナーは安田を予定されていたが、アントニオ猪木がPRIDEに出場させるためにストップをかけ、永田が名乗りを挙げて実現し、試合は三沢のジャーマンで橋本が敗れたものの、対戦した永田と秋山が意気投合して、秋山も新日本へ参戦を表明することで二人の対戦の機運が高まったが、永田は6月6日の武道館大会で藤田の保持するIWGPヘビー級王座に挑み、会場には秋山も視察のために会場に訪れていたにも関わらず、藤田の頭頂部への膝蹴りの前に永田は失神してレフェリーストップ負けを喫したに対し、秋山は7月27日のNOAH武道館大会で、視察に訪れた永田の眼前で三沢光晴を破りGHCヘビー級王座を奪取し、10月8日に新日本プロレスが開催する東京ドーム大会への参戦し永田とのタッグを結成をアピールしていたことから、永田にしてもどうしても秋山と対等な立場に立つためにはG1 CLIMAXに優勝するしかなくなっていた。

開幕戦での4日大阪大会では村上と対戦したが、村上の挑発に乗ってしまった永田が場外戦に持ち込まれてしまい両者リングアウトとなってしまい、5日の大阪大会2日目でも中西学のブルドッキングヘッドロックの前に敗れ1敗1分と最悪のスタートを喫してしまう。しかし6日の稔戦ではナガタロックⅡで降してやっと片目が開き、8日に仙台では安田もナガタロックⅡで降して勢いに乗り、5日の両国3連戦の初日では藤波をバックドロップで降して3勝1敗1分=7点とAブロックを1位で突破して2位の安田と共に準決勝に進出、Bブロックからは武藤が1位、蝶野が2位で準決勝に進出したため、11日の両国では永田が蝶野、武藤が安田と対戦することになった。

準決勝の永田vs蝶野は、開始前に握手を求めようとしていた永田に蝶野が頭突きを浴びせて開始となり、蝶野がケンカキック、頭突き、STFと攻め込んでくるに対し、永田はローキックで切り崩してナガタロックⅠでギブアップを奪い決勝に進出、一方の武藤vs安田は武藤がタイガー服部レフェリーを踏み台にしてのシャイニングウィザードを炸裂させて3カウントを奪い決勝に進出、2001年のG1決勝は武藤と永田の間で世代交代をかけてに対戦となった。

序盤は互いにグラウンドで出方を伺い、武藤がレッグロックからアキレス腱固めと得意の足攻めを狙い、永田も膝十字を狙っていくが永田は巧みに逃れて極めさせない、永田はバックを奪うと胴絞めからバックマウントを奪う腕十字を狙うも、逃れた武藤はサイドポジションからキーロックで捕らえ、永田はレッグロックで切り返すも、武藤は腕十字で切り返して永田はロープエスケープする。
永田はローキックを狙うと武藤はキャッチしてグラウンドに引きずり込むが、永田は秋山準を意識してかフロントネックロックで捕らえ、武藤はロープエスケープして一旦場外へ逃れて呼吸を整える。

リングに戻ると武藤はフェイントから永田の足を狙うが、永田が首を取ったところで武藤がローリングソバットからブラッシングエルボーとリードを奪いにかかり、アームロックからヘッドシザースで捕らえるが、逃れた永田はサイドポジションから武藤の側頭部に膝を浴びせて腕十字で捕らえ、焦った武藤は逃れてスペースローリングエルボー狙いもキャッチしてナガタロックⅡで捕獲して絞めあげる。
武藤は必死でロープエスケープするが、永田は武藤のウイークポイントである膝にローキックを浴びせ、キャッチした武藤はドラゴンスクリューから足四の字固めを狙うと、永田は下からの三角絞めで捕らえて武藤にリードを奪わせない。

武藤はロープエスケープし永田はローキックを浴びせるも、キャッチした武藤は低空ドロップキックを放ち、低空ドロップキックを連発してやっと自分のペースに持ち込んでドラゴンスクリューから足四の字固めで流れを変え、永田はロープエスケープするも、武藤はセカンドコーナーから低空ドロップキック、ドラゴンスクリューから足四の字固めと、足攻めの蟻地獄へと引きずり込んでいくが、永田がロープエスケープする。

武藤は再び低空ドロップキック、ドラゴンスクリューから足四の字固めを狙うが、永田は武藤の側頭部にキックを浴びせて逃れるとリング中央で膝十字固めで捕らえて反撃、武藤は必死でロープエスケープするが、永田はローキックの連打から突進すると、武藤はここ一番で出すフランケンシュタイナーから腕十字を狙うが、切り返した永田はナガタロックⅠで捕らえて、武藤に対して逆に足攻めで追い詰め、武藤は必死でロープエスケープする。

永田はコーナーで寄りかかった武藤に串刺し大車輪キックを狙うが、武藤は間一髪避けると雪崩式フランケンシュタイナーを決め、ラウディングボディープレスを投下も永田はカウント2でキックアウトする。武藤は腕十字で捕らえて永田は足を伸ばしてロープエスケープしコーナーに寄り掛かると、武藤は串刺しシャイニングウィザードを狙ったが、避けた永田はジャーマンで投げ、秋山譲りのリストクラッチ式エクスプロイダーを決めるも、すぐ立ち上がった武藤はでシャイニングウィザードで応戦して譲らず両者ダウンとなる。
武藤は浴びせ蹴りも永田は大車輪キックで応戦、武藤はオーバーヘッドキックを放ってシャイニングウィザードを放ったが、ガードした永田はナガタロックⅡで捕獲して絞めあげ、武藤はギブアップとなり優勝を果たした。

初優勝を果たした永田にインタビュアーから「世代交代ですね」と聴かれたが、ファンから”まだだ”と声が飛んだことで、永田は(そうか、世代交代というのはファンが決めることだ、オレが世代交代だと思っても意味がないんだ)と考え、「(世代交代は)第1歩だと思います」と答えた。永田にしてみれば秋山に並び立つためにG1を優勝したに過ぎなかったが、90年代の新日本プロレスを支えてきた武藤と蝶野を立て続けに破ったことで、新日本を背負って立つ存在になったことを実感したのではないだろうか…

10月8日の東京ドーム大会では永田と秋山のタッグが実現し武藤&馳浩組と対戦、終盤には永田の延髄斬りを馳がかわすと、武藤が馳を踏み台にしてシャイニングウィザードを炸裂させると、秋山が武藤に対して掟破りのシャイニングウィザードを敢行、だが馳も秋山を裏投げで投げ4選手がダウン、館内は大興奮となる。そして秋山が武藤をフロントネックロックで捕らえている間に、永田は馳をバックドロップからバックドロップホールドで3カウントを奪い、ドームの大観衆を大熱狂させ、これをきっかけに新日本とNOAHとの交流がスタートした。

ところが翌年の2002年になると契約更改に応じなかった武藤が小島、ケンドー・カシンと共に新日本プロレスを退団して全日本プロレスへ移籍する事態が起きてしまうと、武藤がいなくなった新日本を永田が背負わざる得なくなり、2004年4月に安田を破ってIWGPヘビー級王座を奪取、10度防衛という金字塔を打ち立て、下り坂へ傾こうとしていた新日本プロレスを懸命に支えた。

G1優勝を果たして20年目の2021年、永田はアメリカAEWに参戦してジョン・モクスリーの保持するIWGP US王座に挑戦して敗れはしたものの、モクスリー相手に真っ向からシバき合いを繰り広げ、7月2日の後楽園ホールで永田は第三世代の同士である天山、小島と組んで後藤洋央紀&石井智宏&YOSHI-HASHIの保持するNEVER6人タッグ王座へと挑み、試合は小島が後藤のGTRに敗れたものの、大激戦を繰り広げたことで第三世代の存在を大きくアピールし、永田も石井相手に真っ向勝負に挑んでも引けを取らないところを見せつけた。

新日本を退団した金本浩二がYou Tubeで「これまで新日本を支えてきたのはオレらを含めた第三世代のおかげだ」と発言し、第三世代を低く扱うとして新日本を批判したが、確かに下り坂へと傾いた新日本プロレスを支えてきたのは永田や天山かもしれない、しかし永田は口で示すのではなく身体で示してきた。永田は身体で示す限り、これからも新日本プロレスを支えていく。

(参考資料 ベースボールマガジン社 「日本プロレス事件史Vol.25『世代闘争』新日本プロレスワールド、永田vs武藤は新日本プロレスワールドにて視聴できます)

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