ジャンボ鶴田試練の10番勝負、7番目に対戦したオリンピックメダリスト


1976年3月10日、日大講堂大会にてジャンボ鶴田の試練の十番勝負がスタートし、初戦の相手としてAWA世界ヘビー級王者だったバーン・ガニアを迎え撃った。

鶴田の十番勝負はジャイアント馬場が初代PWFヘビー級王者になるまでの「世界選手権争覇十番勝負」、ザ・デストロイヤーの覆面レスラーと対戦する「覆面世界一決定十番勝負」に次ぐ企画で、鶴田にプロ入りを勧めたレスリング界のドン八田一朗氏が実行委員長となり、対戦相手も一般公募を基礎に全日本側で選考、15選手がリストアップアップされたが、15選手の中にはアントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントの名前もあったという。

そして最終的に10選手絞られて十番勝負がスタート、鶴田は初戦でガニアと引き分け、3月28日蔵前国技館大会では第2戦では国際プロレスのエースだったラッシャー木村と対戦して引き分け、6月11日の蔵前大会の第3戦ではNWA世界ヘビー級王者だったテリー・ファンクに挑み敗れ、第4戦では全日本に初参戦のビル・ロビンソンと7月17日の北九州で対戦、館内はエアコンがなく蒸し風呂状態という灼熱地獄の中、60分間戦い抜いて引き分け、また5分間延長で計65分間も戦い抜いたが、内容は残せても黒星が先行する。

第5戦の9月9日の大阪では候補に入っていなかったボボ・ブラジルに勝ってやっと白星が付き、第6戦の10月22日の愛知でアブドーラ・ザ・ブッチャーに反則勝ちと既に6戦をこなして2勝1敗2分とやっと白星が先行したところで、7番目の相手にテイラーを迎えることになった。

テイラーは1972年、ミュンヘンオリンピックのレスリングでフリースタイルの120kg級でヨーロッパ遠征に訪れた猪木と対戦したウィルフレッド・ディートリッヒを判定で下し銅メダルを獲得、ミュンヘンオリンピックでは鶴田だけでなく、長州力となる吉田光雄もグレコローマンスタイル100kg以上級に出場していた。

テイラーは196cmの巨体と実績を見込まれてAWAの首領であるバーン・ガニアのスカウトを受け、同じくミュンヘンオリンピックの重量挙げで5位入賞を果たしたケン・パテラと共にプロレス入り、ガニア・レスリングキャンプにて指導を受けたが、同期には後にNWA世界ヘビー級王者となるリック・フレアー、WWF(WWE)ヘビー級王者となるアイアン・シークことコジロ・バジリがいた。ガニアは国際プロレスに来日したモンスター・ロシモフをスカウトしアンドレ・ザ・ジャイアントとして売り出した経緯があることから、ガニアもテイラーをアンドレ以上の逸材になると考えたと思う。

1973年6月にテイラーはレネ・グレイ相手にデビュー戦を果たしてベアハッグでギブアップを奪い勝利、AWAではベビーフェースとして扱われ、同じオリンピック経験者のマッドドック・バションやビリー・グラハムなどヒールと対戦、1975年にはアンドレともタッグを組み、フロリダやカンザス、ジョージアにも遠征し、WWFやヨーロッパにも進出し、ドイツでは新日本プロレスから武者修行に来ていた藤原喜明や後にキラー・カーンとなる小沢正志とも対戦、古巣AWAに戻ると王者だったニック・ボックウインクルに何度も挑戦するなど、メダリストにふさわしい活躍を見せた。

テイラーは1976年11月、全日本プロレスの「スーパーパワーシリーズ」に11月29日から12月9日までと特別参戦という形で初来日を果たし、テイラーの来日にはガニア・レスリングキャンプでのコーチ役だったロビンソンもガニアの頼みで帯同したが、ガニアがロビンソンを帯同させた理由は他にあった。テイラーは心臓に疾患を抱えており、発作も頻繁に起きるようになっていた。そのため長い試合は出来ず5分で息が上がってしまうことから、来日直前まで心臓を手術するため欠場しており、来日してTシャツを着用して試合をしていたのも手術した痕を隠すためだった。

テイラーは初戦でサムソン・クツワダとシングルで対戦してフライングボディープレスで6分で圧勝、2戦目はロビンソンと組んで馬場、鶴田の師弟コンビと対戦して、ロビンソンのワンハンドバックブリーカーのアシストを受けてからボディープレスで鶴田から直接3カウントを奪うも、序盤は鶴田の攻めを受けていてもすぐ息が荒くなってロビンソンに代わってしまうなどスタミナ不足が懸念されていた。

12月2日、川崎市体育館で鶴田はテイラーと対戦、ミュンヘン・オリンピックの日米代表の対決ということで注目を集まったが3本勝負の1本目はテイラーのグラウンドやパワーに苦しめられるも、基本的にテイラーは先に仕掛けてこないことから鶴田の方から次第にどんどん仕掛けリードを奪う。そしてテイラーの串刺し攻撃を避けた鶴田は初公開のミサイルキックで3カウントを奪い先制する。鶴田のミサイルキックはまだ当時日本人では使い手はおらず、鶴田が初めてで、この時は”ジャンボミサイルキック”と命名された。


2本目は打撃戦になると体格のあるテイラーが圧倒、ショルダータックルから頭突きと攻勢をかける。鶴田はジャンピングニーやドロップキックで活路を見出したが、テイラーはベアハッグで捕らえ、鶴田の空中胴締め落としもキャッチしたテイラーはボディープレスで圧殺して3カウントを奪いタイスコアに持ち込む。

3本目は迫ってくるテイラーをいなしまくった鶴田はコブラツイストを狙ったが体格差で充分決めきれず、打撃戦で再びテイラーが圧倒、だがグラウンドになると鶴田がバックを奪ってテイラーの動きを止める。両者はもつれ合うように場外へ転落し、テイラーはボディースラムからボディープレスを狙うと自爆してしまう。鶴田が先にリングに戻ってリングアウト勝ちとなったが、微妙な結果に反応は鈍く期待外れの一戦に終わってしまった。

馬場も「2本目までは満点に近い試合だったが、3本目は場外カウントを狙ったという作戦がミエミエで、積極性を感じられなかった」と3本目で勝つには勝ったものの内容が微妙だったこともあって辛口な採点を出したが、馬場は試合前に「相手がホウキであっても、好試合をやらなければ一流とは言えない」と鶴田にアドバイスしていたことから、スタミナに難があるテイラーでは好試合は出来ないと判断していたと思う。鶴田にテイラー相手に好試合が出来るかどうか、そういった意味では鶴田にとって試練だったものの、ジャンボミサイルキックのインパクトを考えると、3本勝負ではなく1本勝負だったら違った評価が出ていたのかもしれない

このシリーズのエース外国人はブッチャーと覆面レスラーのザ・スピリット(キラー・カール・コックス)だったため、鶴田戦が終えた時点でテイラーの出番はなくなっており、ロビンソンは引き続き全日本に参戦するため、テーラーだけ予定通りにアメリカへ帰国するも、帰国後は心臓の具合が好転せず、医師からもドクターストップがかかったため、引退しレスラー生活は僅か5年で終わり、その後は体育教師となって第2の人生を歩んでいたが、心臓発作で29歳の若さで急死した。

鶴田の十番勝負は半年間中断も、1977年6月11日から再開しの世田谷で8番目にNWA世界ヘビー級王者だったハーリー・レイスに挑戦して引き分け、7月28日の品川では9番目の相手として大木金太郎と対戦し、保持していたUNヘビー級王座と大木の保持していたアジアヘビー級王座とダブルタイトル戦を行って引き分け、最後の10番目の相手として引退を間近に控えていたフリッツ・フォン・エリックと対戦して勝利収め、4勝2敗4分けで完走した。

その後、1982年にはヘビー級に転向した新日本プロレスの藤波辰巳が飛龍十番勝負を開始し、藤波はWWFヘビー級王者だったボブ・バックランドと2回対戦し、ハルク・ホーガン、ブッチャー、エル・カネック、ディック・マードック、ジェシー・ベンチュラと対戦したが、長州力との抗争が勃発したため7番目が終えたままで中途半端に終わり、以降は若手の試練の〇番勝負的なものは7番目までしか行われなくなった。そういった意味では10番目までしっかりやり通した鶴田は凄かったのかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 vol.26 『格闘技の波』」)

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